教皇フランシスコ、韓国の124殉教者列福式ミサ説教

8月16日、韓国を司牧訪問中の教皇フランシスコは、パウロ・ユン・ジチュンと123同志殉教者の列福式ミサをソウル中心部の光化門広場でささげました。この大規模な野外ミサには、推定70万人以上の信者が参加しました。アジア各国か […]

8月16日、韓国を司牧訪問中の教皇フランシスコは、パウロ・ユン・ジチュンと123同志殉教者の列福式ミサをソウル中心部の光化門広場でささげました。この大規模な野外ミサには、推定70万人以上の信者が参加しました。アジア各国からは約60名の司教が集まり、日本からもほぼ全員の司教が参加しました。以下はそのミサ説教の全訳です。
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 「誰がキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」(ローマ8・35)。このことばのうちに、聖パウロは、わたしたちがイエスを信じることの栄光を語っています。キリストは死者の中から復活して天に昇られただけでなく、わたしたちと一つになり、ご自分の永遠のいのちをわたしたちに分け与えてくださいます。キリストは勝利しています。そしてキリストの勝利はわたしたちのものです。

 今日、わたしたちはこの勝利をパウロ・ユン・ジチュンと123同志殉教者のうちに祝います。わたしが先ほど敬意を表した聖アンドレア・キム・テゴン司祭、聖パウロ・チョン・ハサンと同志殉教者の名前の隣に今、彼らの名前が連なります。これらの殉教者は皆、キリストのために生きて死んでいきました。今、彼らはキリストとともに喜びと栄光のうちに君臨し、聖パウロとともにわたしたちに次のように語りかけています。神は御子の死と復活のうちにすべての人に偉大な勝利をお与えになりました。「死も、いのちも、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8・38-39)。

 殉教者の勝利と彼らの神の愛あかしは、韓国に、そして教会に今でも実りをもたらし続けています。彼らの犠牲の上に成長しているのです。福者パウロと同志殉教者を記念することは、韓国の教会の原点、いわば幼年期に戻る機会をわたしたちに与えてくれます。韓国の教会の皆さん、皆さんは神がこの地で行われた偉大なわざを思い起こし、皆さんとその先祖に託された信仰と愛の遺産を尊重するよう招かれています。

 神の不思議なご計画により、キリスト教信仰は、宣教師を通してではなく、韓国の人々自身の心と思いを通してこの国にもたらされました。知的探求心と宗教真理を求める心が人々を駆り立てたのです。韓国の最初のキリスト者は福音に初めて出会い、イエスに心を開きました。苦しんで死に、死者の内から復活したキリストについてもっと知りたいと思ったのです。イエスについて学ぶうちに、彼らはすぐに主との出会いに導かれました。そして最初の洗礼が行われ、秘跡が十分に行われる教会生活が求められるようになり、宣教師が渡来し始めました。そして、初期キリスト教共同体に触発されて、共同体という実りも結ばれました。その共同体の中では、信者は心も思いも真に一つになり、伝統的、社会的な違いに関わりなく、すべてを共有していました(使徒言行録4・32参照)。

 この歴史は、信徒の召命の重要性と尊厳と素晴らしさについて、わたしたちに深く語りかけています。わたしはここにおられる多くの信者の皆さん、とりわけ毎日、模範を示すことによって信仰とキリストの和解をもたらす愛を若者に伝えているキリスト者の家庭の皆さんにご挨拶申し上げます。また、多くの司祭参加者にも、特別な思いを表します。彼らは、韓国の歴代のカトリック信者によって培われてきた信仰という豊かな遺産を、司牧活動を通して伝えているのです。

 今日の福音には、わたしたちすべてにとって重要なメッセージが含まれています。イエスは、真理のうちにわたしたちを聖なる者とし、世から守ってくださるよう御父に求めます。まず重要なことは、イエスが御父に求めたのは、わたしたちを聖なる者とし、守ることであって、わたしたちをこの世から取り去ることではないということです。イエスが弟子たちを派遣したのは、彼らがこの世における聖性と真理のパン種、地の塩、世の光となるためでした。このことにおいて、殉教者はわたしたちに道筋を示しています。

 信仰の最初の種がこの国にまかれてすぐに、殉教者とキリスト教共同体はイエスに従うか、社会をとるか選択しなければなりませんでした。彼らはすでに、世は主ゆえに彼らを憎む(ヨハネ17・14参照)という主の警告を聞いていました。主に従うことの対価を知っていたのです。多くの人にとって、それは迫害を意味しました。その後、彼らは山間部に逃れ、そこにカトリック信者の村を作りました。彼らは、キリストから引き離されるくらいなら、すすんで大きな犠牲を払い、持ち物も土地も権力も名声も奪われるがままに任せました。キリストこそが真の宝であることを知っていたのです。

 現在、わたしたちの信仰は社会によって幾度となく試されます。わたしたちは、様々な形で信仰について妥協し、福音で求められている基本的なことがらをないがしろにし、現代の考え方に合わせるよう強いられます。しかし殉教者は、わたしたちがキリストを第一に考え、キリストと永遠のみ国に関連づけてキリスト以外のこの世のすべてを見るように呼びかけています。いのちをかけるだけのものがあるかどうか自分自身に問うように、わたしたちに挑んでいるのです。

 殉教者の模範は、信仰生活における愛の重要性も教えてくれます。彼らは、洗礼を受けたすべての人の平等の尊厳を受け入れることによって表わされるキリストのあかしを、純粋に行っていました。そして、兄弟愛に基づく生活を築き、当時のかたくなな社会構造に挑んだのです。彼らは、神を愛することと、隣人を愛することという二つのおきてを分かつことを拒み、仲間が必要としていることがらにいつも注意を傾けました。その模範は、現代社会に生きるわたしたちにも多くのことを示しています。現代社会では、莫大な富のかたわらに、悲惨な貧困が沈黙のうちに広がっています。貧しい人の叫び声にはほとんど注意が払われません。こうした社会の中でキリストは、必要に迫られている兄弟姉妹に尽くすことによってキリストを愛し、キリストに仕えるようわたしたちに呼びかけ続けておられます。

 もし、わたしたちが殉教者の導きに従い、主のことばを信じるなら、殉教者が死に向かう際の崇高な自由と喜びを理解することができるでしょう。今日のこの列福式は、韓国、そして世界中の数え切れない無名の殉教者のためのものでもあります。彼らはとりわけ今世紀にキリストのために命をささげたり、キリストの名のもとにひどい迫害を受けたりしています。

 今日はすべての韓国の人々にとって非常に喜ばしい日です。パウロ・ユン・ジチュンとその同志殉教者は、純粋に真理を求め、自らが選んだ宗教の崇高な信条に忠実に従い、すべての人に愛をあかしし、あらゆる人と連帯しました。これは、韓国の人々の豊かな歴史の一部です。殉教者の遺産は、より公正かつ自由で和解した世界のために共に働くよう、すべての善意の人を勇気づけると共に、この国と世界の平和、さらには人間の真の価値を守るために貢献しています。

 韓国のすべての殉教者と教会の母であるマリアの祈りによって、信仰とあらゆる善行において堪え忍ぶ恵みと、心の聖性と純粋さ、そしてこの愛すべき国とアジア全体と世界中にイエスをあかしする使徒的情熱がわたしたちに与えられますように。

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