教皇フランシスコ、教皇庁定期訪問(アド・リミナ)中の日本司教団へのあいさつ

3月20日午前、教皇フランシスコは教皇庁定期訪問(アド・リミナ)中の日本司教団と謁見しました。「アド・リミナ」と呼ばれるこの訪問は、全世界の司教が定期的に教皇のもとを訪れ、地域の教会の状況を説明するもので、前回は2007 […]

3月20日午前、教皇フランシスコは教皇庁定期訪問(アド・リミナ)中の日本司教団と謁見しました。「アド・リミナ」と呼ばれるこの訪問は、全世界の司教が定期的に教皇のもとを訪れ、地域の教会の状況を説明するもので、前回は2007年12月に教皇ベネディクト十六世と謁見しました。過去には、教皇と各司教との個別謁見が行われていましたが、今回は、全司教が一堂に会し謁見しました。以下は謁見における教皇の挨拶の全文です。


兄弟である司教の皆様
 教皇庁定期訪問(アド・リミナ)にあたり、聖ペトロとパウロの墓を崇敬してくださる皆様を心から歓迎いたします。教皇庁と日本のカトリック教会の間の愛のきずなと交わりを新たにし、皆様の共同体の生活について考える機会であるこの場に皆様をお迎えできることを、大変うれしく思います。皆様の教区の司祭、修道者、信徒を代表してあいさつしてくださった岡田大司教に感謝します。それらのかたがたに、わたしの思いと祈りをお伝えください。

 日本の教会は豊かな恵みを受けましたが、苦しみも体験してきました。そうした喜びと悲しみのうちに、信仰深い皆様の祖先は生きた遺産を皆様に残しました。その遺産は、現代の教会を美しく装い、未来に向けた教会の歩みを力づけています。この遺産は、日本の浜辺に最初にたどり着き、みことばであるイエス・キリストを告げ知らせた宣教師に端を発しています。わたしたちは、とりわけ聖フランシスコ・ザビエルと同志宣教師、さらには長い歴史の中で福音と日本の人々のために生涯を捧げたすべての人に思いを寄せます。これらの多くの宣教師と、日本のカトリック教会共同体初期の信者の一部は、キリストをあかししたためにその尊い血を流しました。こうした犠牲を通して、教会に豊かな祝福が注がれ、人々の信仰が強まったのです。わたしたちは、聖パウロ三木とその同志殉教者のことをとりわけ思い起こします。彼らが迫害のただ中でも断固としとして信仰を守り抜いたことは、小さなキリスト教共同体が、あらゆる試練に耐えるための力となりました。

 皆様は今年、この豊かな遺産のもう一つの側面である「信徒発見」を記念します。すべての信徒宣教者と司祭が国外に追放されても、キリスト教共同体の信仰は弱まりませんでした。それどころか、宣教者たちの活動を通して聖霊がともしてくださった信仰の炎は、殉教者のあかしによって強められ、守られました。大きな危険や迫害にさらされても、祈りと信仰教育に基づくカトリック共同体の生活を守り抜いた信徒たちが、その炎を守ったのです。

 宣教活動と「潜伏キリシタン」という日本のカトリック教会史の二つの支柱は、現代の教会生活を支え、信仰を生きるための指標を示し続けます。どの時代、どの場所においても、教会は宣教する教会であり続けます。そして、あらゆる国を福音化し、キリストに従うよう促すと同時に、キリスト教共同体の信仰を強め、家庭や社会の中で信仰をはぐくむ責任を担うよう導き続けます。

 皆様の教区のために今も貢献している多くの宣教師に対し、わたしは皆様とともに心から感謝の意を表します。彼らは、日本の司祭や修道者、信徒リーダーと協力して、カトリックの教会共同体だけでなく、より広い社会の必要に応えるために盛んに活動しています。わたしは、宣教師たちのさまざまな宣教活動を支えると同時に、彼らの霊的、身体的必要に気を配るよう皆様にお願いしたいと思います。そうすれば、彼らはくじけずに、自分の務めを果たし続けることができるでしょう。また、日本の人々の習慣を理解できるよう彼らを導くようお願いします。そうすれば、彼らは福音のためのより優秀な働き手となり、文化の福音化に向けた新たな方法を模索できるようになるでしょう(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』69参照)。

 しかし、福音を述べ伝えるために故郷を離れて遠方に行く人だけが宣教活動の責任を担うわけではありません。実際、わたしたちは皆、洗礼の恵みによって、どこにいても福音宣教者になり、イエスの福音をあかしするよう求められています(マタイ28・19-20参照)。たとえそれが、自宅の玄関の扉を開けて、隣の家に行くというごく簡単なことだとしても、わたしたちは出向いて行って、福音宣教する共同体になるよう招かれているのです。「福音を宣教する共同体は、行いと態度によって他者の日常生活の中に入っていき、身近な者となり、必要とあらば自分をむなしくしてへりくだり、人間の生活を受け入れ、人々のうちに苦しむキリストのからだに触れるのです。こうして福音宣教者には、いわば『羊の匂い』がしみており、羊は彼らの声を聞くのです」(『福音の喜び』24)。

 日本の各地方教会は、たとえその共同体の規模は小さくとも、皆様の貢献のおかげで日本社会から高く評価されています。皆様がキリスト教のアイデンティティのもとに、宗教の別にかかわりなく人々に尽くしてきたからです。わたしは、皆様の教育、医療、高齢者や病者、障害者の介護、そして慈善活動を称賛します。慈善活動は、4年前の大地震と津波がもたらした悲劇的な惨状に対処するためにとりわけ重要です。また、皆様の平和運動、とりわけ70年前、第二次世界大戦の終わりに広島と長崎の人々が受けたはかりしれない苦しみを世界に伝えようとする皆様の努力に対し、心から感謝します。これらすべての活動において、皆様は共同体の必要に対処するだけでなく、教会と社会の対話を深めるための機会も生み出しています。この対話は極めて重要です。なぜなら、それは相互理解をはぐくみ、共通善に向けた協力を促進すると同時に、福音を告げ知らせるための新しい道を切り開き、これからイエス・キリストと出会う人々を招いているからです。わたしたちが、福音を告げ知らせることに決してちゅうちょせずに、自分のよい行いによって、キリストをあかしすることができますように(ヤコブの手紙2・18参照)。

 宣教活動を実り豊かなものにするためには、「潜伏キリシタン」の模範から多くを学ぶことができます。信者の数は少なく、彼らは日々、迫害にさらされていました。しかし、彼らはイエスとの人格的な結びつきに目を向けることによって信仰を貫くことができました。この結びつきは、祈りに徹した生活と、共同体の福祉のために尽力することの上に築かれました。このように、信者がキリストとの人格的な結びつきを固め、小教区や教会共同体が信者に日々、寄り添い、支えるなら、現代の教会もまた、さらに力強くなり、宣教活動の実を結ぶことができるでしょう。

 「潜伏キリシタン」は、教会の秘跡を十分に受けることはできませんでした。しかし、今日の皆様の地方教会では、多くの献身的な司祭が信者の霊的なニーズに応えています。司祭に求められるものは大きく、多くの責任が課せられているために、司祭が人々に尽くそうと思っても、彼らとかかわる時間が持てないことも珍しくありません。わたしは、司祭が自分に託された人々のために働くのに必要な時間と自由を確保できるように、皆様が司祭と協力するようお勧めします。神学校にいる間だけでなく、生涯を通じて司祭の人間的、霊的養成に特に気を配ってください。そうすれば、司祭は福音を力強く告げ知らせることができるでしょう。司祭たちが皆様を、いつでも息子を受け入れる父親のように、また人生の幸せも困難も分かち合い、つねに傍らにいる兄弟のように感じることができますように。このように司教と司祭が強い兄弟愛と交わりによって結ばれていれば、若者は司祭職への招きを識別し、受け入れやすくなるでしょう。

 皆様の共同体は、男女修道者のあかしによって、さらに強められています。彼らの奉献は、天の新しいエルサレムをあらかじめ示すものであり、彼らの働きは、地上にキリストの国を築くために役だっています(黙示録21・1-2参照)。わたしは、日本の修道生活というたまものに対して、また外国出身の修道者と日本の共同体出身の修道者に対して、皆様とともに感謝の意を表します。彼らは、司祭や信徒リーダーと一つになって、日本の教会のために惜しみなく尽くし、社会に信仰という実りをもたらしています。皆様から支えられていることを修道者たちがつねに認識しますように。また、皆様が司教職において、修道者と協力する新たな機会を模索しますように。

 教会生活を育み、福音宣教を行うためには、信徒の活発かつ十分な参加が必要であることを、日本の「潜伏キリシタン」は思い起こさせてくれます。信徒の使命には二つの側面があります。小教区と地方教会の生活に参加することと、キリスト者のあかしを通して社会秩序を整えることです。こうした使命は、特に家庭内で果たされます。家庭内では、あらゆる年代の人々が信仰を持ち、信仰が社会におけるわたしたちのすべての関係を照らしています(教皇フランシスコ回勅『信仰の光』53-54参照)。もし、わたしたちが結婚講座や人生のさまざまな段階での養成を充実させ、家庭を力づけるために心を配り、資源を傾けるなら、小教区と地方教会はより実り豊かなものになり、社会と文化は福音の香りに包まれるでしょう。日本の信者のあかしを通して、「教会はその真の普遍性を表して、『この多様な顔の素晴らしさ』を示します」(『福音の喜び』116)。多くの場合、こうしたあかしは失われています。しかしそれは、信者が宣教する弟子になることを望まないからではなく、彼らが自分にはその能力がないと考えてしまうからです。司牧者である皆様にお願いします。信者が自らの召命に深く感謝するよう導いてください。そして彼らがその招きに勇気をもって存分に応えられるように、彼らを具体的に助け、導いてください。

 兄弟である司教の皆様。皆様とその地方教会が日々、行っているキリスト者のあかしに感謝します。こうした思いのもとに、わたしは、教会の母であるマリアの取り次ぎに皆様をゆだねます。そして、平和のしるしと主における喜びとして、心から使徒的祝福を送ります。

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