教皇フランシスコの2015年復活徹夜祭ミサ説教

2015年4月4日、教皇フランシスコはサンピエトロ大聖堂で復活徹夜祭のミサをささげました。教皇はこのミサの中で、イタリア、ポルトガル、アルバニア、ケニア、カンボジア出身の10名の洗礼志願者に洗礼を授けました。以下はそのミ […]

2015年4月4日、教皇フランシスコはサンピエトロ大聖堂で復活徹夜祭のミサをささげました。教皇はこのミサの中で、イタリア、ポルトガル、アルバニア、ケニア、カンボジア出身の10名の洗礼志願者に洗礼を授けました。以下はそのミサ説教の全訳です。
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 今夜は寝ずに過ごす夜です。主は寝ずに起きておられます。「見守るかた」はご自分の民を奴隷状態から解放し、自由への道を切り開くために見守ってくださいます(詩編121・4参照)。

 主は見守り続けておられます。その愛の力によって、神の民は紅海を渡り、イエスは死と陰府の淵を渡ります。

 使徒たちにとっても、それは悲しみと恐れに満ちた眠れない夜でした。彼らは高間に閉じこもり続けました。しかし、婦人たちは、イエスのからだに香油を塗るために、主日の明け方に墓を訪れました。彼女たちは途方に暮れながら自問しました。「どうやって中に入ったらいいのだろう。誰が墓石を転がすのだろうか。」しかし、この偉大な出来事の最初のしるしが現れました。大きな石はすでに墓のわきに転がしてあり、墓は開いていたのです。

 「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えた」(マルコ16・5)。空の墓という偉大なしるしを最初に目にしたのも、この墓に最初に入ったのもこの婦人たちでした。

 「墓の中に入ること。」この徹夜祭は、婦人たちの体験について考えるのにふさわしい夜です。その体験は、わたしたちにも語りかけています。だからこそ、わたしたちは、眠らずに愛を傾けてくださる神の神秘に入るためにここにいるのです。

 この神秘に入らずに復活祭を迎えることはできません。それは何か知的なものでも、知ったり読んだりできるものでもありません。それ以上のものです。

 「その神秘に入ること」は、不思議に思い、思い巡らすことができること、すなわち沈黙の中で耳を傾け、静かにささやいておられる神の声を聞き分けられることを意味します(列王記上19・12参照)。

 この神秘に入るためには、現実を恐れてはなりません。自分の中に閉じこもったり、よく分からない事柄から逃げたり、問題を見て見ぬふりをしたり、否定したり、忘れ去ったりしてはなりません。

 この神秘に入ることは、居心地のよいところから出ること、わたしたちを引きとどめている怠惰さや無関心さを克服すること、そして真理と美と愛を求めて出かけることを意味します。それは、わたしたちの信仰、忠実さ、さらにはわたしたちの存在そのものを試す問いかけに対する真の答えを懸命に探し求めることなのです。

 この神秘に入るためには、謙虚になる必要があります。身を低くしてへりくだり、非常に高慢で厚かましい「自分」という台座から降りるのです。そして謙虚になることについて再び考え、自分の本当の姿を認識するのです。わたしたちはゆるしを必要とする罪人であり、強さも弱さも抱えています。この神秘に入るためには、身を低くしなければなりません。それは力や偶像を放棄することであり、神を賛美することです。賛美せずに、神秘に入ることはできません。

 イエスの弟子である婦人たちは、このことをつぶさに教えています。彼女たちはその夜、マリアとともに寝ずに起きていました。そしておとめマリアは、彼女たちが信仰と希望を失わないように支えました。だからこそ、彼女たちは恐れと悲しみにとらわれることなく、明け方に香油をもって出かけたのです。その心には愛という油が塗られていました。彼女たちは出かけて行き、墓が空なのを見いだしました。そして中に入ります。彼女たちは見つめながら前に進み、神秘に入りました。母なるマリアとともに神を見つめるすべを、彼女たちから学ぶことができますように。そうすれば、わたしたちも死からいのちに至る神秘に入ることができるでしょう。

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