教皇フランシスコ、ボスニア・ヘルツェゴビナでの司祭、修道者、神学生へのあいさつ

6月6日、ボスニア・ヘルツェゴビナを司牧訪問中の教皇フランシスコは、サラエボ大聖堂で行われた司祭と男女修道者、神学生との集いの中で挨拶を述べました。三人の代表者から紛争中の信仰体験を聞いた後、教皇は用意してあった原稿を用 […]

6月6日、ボスニア・ヘルツェゴビナを司牧訪問中の教皇フランシスコは、サラエボ大聖堂で行われた司祭と男女修道者、神学生との集いの中で挨拶を述べました。三人の代表者から紛争中の信仰体験を聞いた後、教皇は用意してあった原稿を用いずに、その体験に対する自らの思いを伝えました。以下はその全訳です。

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 挨拶を事前に用意してきたのですが、先ほど、司祭と修道者からなる三人のかたがたの証言を聞いて、それらに対するわたしの思いをこの場で伝える必要を感じています。

 彼らは自分の人生について、自分の体験について、多くの悲惨でありながら美しいことについて話してくれました。準備してきた挨拶の原稿も意味深いものなので、枢機卿にお渡しします。

 証言で伝えられているのは、皆さんの国の人々の記憶です。過去を忘れてしまった人に未来はありません。これは皆さんの両親の信仰体験です。話してくださったのは三人だけですが、彼らの背後には、同じような苦しみを受けた数多くの人々がいます。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、皆さんには、自分の歴史を忘れる権利はありません。それは、報復のためではなく、むしろ平和を築くためです。こうした証言を、なにか奇異なものとして受け止めてはなりません。それは、証言の中の人々が愛したように、自分も愛するためです。皆さんの血にも、皆さんの召命にも、これら三人の殉教者の召命と血が脈打っています。そしてそれは、多くの修道者、多くの司祭、そして多くの神学生の血と召命でもあります。ヘブライ人への手紙の記者は、信仰を伝える指導者のことばを忘れてはいけないと記しています。先ほど証言した三人の方々は、信仰体験を伝えることを通して、どのように信仰を生きたらよいか伝えています。同じ記者は、最初の殉教者であるイエス・キリストを忘れてはならないと記しています。これらの人々は、イエスの足取りをたどっているのです。

 平和を築くために、記憶を呼び戻してください。いくつかのことばがわたしの心を打ちました。そのうちの一つが、何度か繰り返された「ゆるし」ということばです。主に仕えるよう聖別されながらも、人をゆるすことができない人は、何の助けにもなりません。けんかをした友人や、口論になった相手や、嫉妬している姉妹をゆるすのは、それほど難しいことではありません。しかし、あなたの顔をなぐり、拷問を加え、虐待し、銃殺すると脅した人をゆるすのは難しいことです。しかし、この三人の方々は実際にゆるしただけでなく、他の人にもゆるすよう説いたのです。

 また、強制収容所での120日間の体験にも心を打たれました。わたしたちは、何度、先人のことを忘れ、先祖の苦しみを忘れるよう仕向けられてきたことでしょうか。これらの日々は、一日単位ではなく、分単位で数えます。なぜなら、一分一分、一刻一刻が拷問だからです。不潔で、食糧も水もないところに、暑さと寒さに耐えながら長い間過ごすのです。わたしたちは、歯が痛いと不満を言い、リビングにテレビが欲しいと訴え、食事がおいしくないと上司や上長に不平を言います。しかし、どうか皆さんの祖先のあかしを忘れないでください。彼らがどれだけ苦しんだか考えてください。最初に証言した司祭は、6リットルの輸血を受けなければ生きられませんでした。彼のことを考えてください。そして、イエス・キリストの十字架にふさわしい人生を送ってください。

 世俗的な修道女、司祭、司教、神学生は、まねごとをしているだけで、教会の助けにはなりません。彼らは殉教者を忘れています。彼らはわたしたちの唯一の栄光である、十字架にかけられたイエス・キリストの記憶を失っているのです。

 もう一つ、わたしが心を揺り動かされた話があります。それは兵士から梨をもらった話と、ムスリムの女性から食べ物を分けてもらった話です。その女性は今はアメリカに住んでいるそうです。わたしたちは皆、兄弟姉妹です。残酷な人にも思いがあります。その人が何を考えたのかは分かりません。自分の心の中に聖霊を感じたのかもしれませんし、もしかしたら自分の母親のことを考えたのかもしれません。そして、「誰にも内緒で、この梨を食べなさい」と言ったのでしょう。また、自分の信仰を超えて歩み寄ったムスリムの女性は、愛のうちにありました。彼女は神を信じ、よい行いをしたのです。

 すべての人の幸せを求めましょう。一人ひとりの人間が可能性と、善の種を持っています。わたしたちは皆、神の子どもなのです。

 これらのあかしに身近に触れられる皆さんは、幸せです。どうかそれらのあかしを忘れないでくさい。皆さんのいのちは、記憶とともに成長します。わたしは、子どものころに父を亡くし、その後、母も姉妹も亡くして孤児となった司祭の話を思い起こします。彼は、愛の実り、夫婦の愛の実りでした。また、殉教した修道女のことも考えます。彼女も一つの家族の一員でした。またフランシスコ会の修道士の二人の姉妹も修道女でした。先ほど話された枢機卿のことばについて考えます。家庭という人生の庭で何が起こっているのでしょうか。悲惨なことが起きています。家庭が実りを結んでいません。家庭に多くの子どもが生まれ、多くの召命も生まれるよう、家庭のために祈ってください。

 最後に、これは残酷な歴史ですが、今日も世界中で戦争により、数え切れないほど多くの残虐行為が行われています。皆さんはつねにこの残虐さの対極にいてください。優しさと兄弟愛とゆるしにあふれた態度を示してください。そしてイエス・キリストの十字架を担いでください。母なる教会は、皆さんが小さい者、小さい殉教者、イエスの十字架の小さなあかし人となるよう望んでいるのです。

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