教皇フランシスコ、「いつくしみの特別聖年」に際して与えられる特別免償に関する書簡

2015年9月1日、教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」(2015年12月8日~2016年11月20日)に際して与えられる免償に関する書簡を、新福音化推進評議会議長のサルバトーレ・フィジケッラ大司教宛に送りました。以下はその全訳です。
免償とは、すでにゆるされた罪に伴う有限の罰の免除(軽減)です。信者は、一定の条件を果たすとき、これを自分のために、また死者のために、教会の奉仕職を通して獲得します(『カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)』312、『カトリック教会の教え』220~221頁参照)。


新福音化推進評議会議長、サルバトーレ・フィジケッラ大司教様

 「いつくしみの特別聖年」を間近に控え、わたしは、すべての信者が神のいつくしみと真に出会う時としてこの聖年を祝うために注目すべき、いくつかの点に焦点を当てたいと思います。この聖年が、御父が近くおられ、その優しさに手が届きそうであることを体験する機会となるよう望みます。そうすれば、一人ひとりの信者の信仰が強められ、その信仰のあかしがさらに実り豊かなものとなるでしょう。

 まず、わたしは、これから聖年の恵みを体験するすべての信者に思いを寄せます。その中には各教区にいる信者もローマへの巡礼者も含まれます。わたしは免償が神のいつくしみを真に体験するものとして、各人に届くよう望みます。神のいつくしみは、人間を受け入れ、ゆるし、犯した罪を完全に忘れてくださる御父のみ顔のうちに、人間一人ひとりに訪れます。免償を体験し、得るために、信者は、真の回心を心の底から望んでいることの表れとして、すべての司教座聖堂、教区司教によって指定された教会、そしてローマの4大バジリカの中で開かれる「聖なる扉」を小巡礼するよう招かれています。また、いつくしみの扉が開かれている巡礼地聖堂と、伝統的に聖年の教会として指定されてきた教会でも免償が得られることとします。その時が、いつくしみに関する振り返りのもとに行われるゆるしの秘跡とミサと結びついていることが何よりもまず重要です。これらの秘跡は、信仰告白、教皇であるわたしのための祈り、そしてわたしが教会と全世界の幸せのために心に抱いている意向のための祈りを伴ったものである必要があります。

 わたしはまた、さまざまな理由により、「聖なる扉」をくぐることができない人々、とりわけ病者や、自宅にこもりがちな独り暮らしの高齢者のことを考えます。主に近づく体験として自らの病気と苦しみに耐えることは、彼らにとって大きな助けとなるでしょう。主は受難と死と復活の神秘のうちに、痛みと孤独に意味を与える崇高な道を示しておられるからです。その試練の時を、信仰と喜びに満ちた希望のうちに生き、たとえさまざまなメディアを通してであっても、聖体を拝領し、ミサや共同体の祈りに参加することは、彼らが免償を受けるための方法となります。わたしはまた、自由を束縛されている受刑者にも思いを寄せます。聖年には、つねに恩赦を受ける機会が制定されてきましたが、その中には、刑罰を受けるに値しながらも、自らが犯した不正義を認め、心から社会に復帰することを望み、そのために熱心に努めている多くの人々が含まれます。ご自分のゆるしをもっとも必要としている人々に寄り添うことを願っておられる御父のいつくしみに、そうした人々が皆、目に見える形で触れることができますように。受刑者は刑務所の礼拝堂で免償を受けることができます。自室の入り口を通るたびに自らの思いと祈りを御父に向ける姿勢が、彼らにとって、聖なる扉をくぐることを意味するものとなりますように。神のいつくしみは、人々の心を変えることも、また服役期間を自由な体験に変えることもできるからです。

 この特別聖年に、わたしは精神的、身体的な慈善のわざの豊かさを再発見するよう教会に求めています。イエスご自身が教えておられるように、いつくしみの体験は、具体的なしるしのあかしのうちに目に見えるものとなります。一人の信者がそれらの行いの中の一つ以上を自ら果たすなら、その人はその都度、聖年の免償を必ず受けるでしょう。したがって、あわれみをもって生きるよう努めましょう。そうすれば、誰も排除しない御父の愛の力による、完全で徹底的なゆるしの恵みを受けることができるでしょう。こうして聖年の免償は完全なものとなり、信仰と希望、愛のうちに祝い、体験される出来事の実りとなるのです。

 さらに、聖年の免償は亡くなった方々のためにも受けることができます。わたしたちは、死者が残した信仰と愛のあかしによって、彼らとつながっています。したがって、わたしたちは、ミサで死者を思い起こすたびに、聖徒の交わりの神秘のうちに死者のために祈ります。御父のいつくしみ深いみ顔が、あらゆる過ちの残存から彼らを解放し、永遠の祝福で包んでくださいますように。

 現代の深刻な問題の一つは、いのちに対する関係性が変わったことにほかなりません。無神経な考え方が広まったために、新しいいのちを歓迎する個人的、社会的な感性が失われています。中絶という悲劇が、まるでそれに伴う深刻な危害が認識されていないかのように、表面的な認識のもとに一部の人々によって行われています。一方、多くの人々が、現在、挫折を経験しながらも、それしか取るべき道はないと信じています。わたしは、中絶を頼みの綱としているすべての女性のことを特に考えます。その決断を下すよう彼らを仕向けた圧力があることを、わたしは十分認識しています。それは実存的、道徳的な悲劇です。わたしは、この苦しく痛ましい決断のために心に傷を負っている多くの女性と会いました。行われたことは深い過ちですが、真理においてそれを理解することによって人は希望を失わずにいることができます。神のゆるしは、悔い改めている人を拒否しません。特に、御父と和解するために、心からゆるしの秘跡にあずかる人はなおさらです。こうした理由により、わたしは、この聖年の間、堕胎の罪を犯しても、心から悔い改め、ゆるしを願っている人の罪をゆるす権限を、いかなる状況においても、すべての司祭に与えることを決断しました。司祭たちが、犯した罪の重大さを説明するために熟慮し、彼らを心から受け入れることをことばで表現することによって、この重大な任務を果たすことができますように。さらに、ご自分の現存によってすべてを新たにしておられる御父の真正で寛大なゆるしを得ることによる、真の回心への道を指し示すことができますように。

 最後に、聖ピオ十世会の司祭が司牧する教会に、さまざまな理由により参加することを選んでいる信者の皆さんのことを考えます。いつくしみの特別聖年は誰も除外しません。彼らはよい信仰を持ち、秘跡を執行していますが、司牧的な観点から見て不安定な状況にあると、さまざまな地域の司教がわたしに報告してくれました。わたしはこの会の司祭や上長との十全な交わりを回復するための解決策が、近い将来、見いだされると信じています。一方、それらの信者の善に応える必要があることに促され、わたしは、特別な配慮として、いつくしみの特別聖年の間に聖ピオ十世会の司祭からゆるしの秘跡を受けた信者の罪のゆるしを、有効かつ合法なものとすることを認めます。

 いつくしみの聖母のとりなしに信頼しつつ、わたしはいつくしみの特別聖年の準備を聖母のご保護にゆだねます。

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