教皇フランシスコ、2016年の降誕祭ミサ説教

 

 「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(テトス2・11)。 この聖パウロのことばは、この聖なる夜の神秘を明らかにしています。神の恵みが無償のたまものとして現れました。わたしたちに与えられた幼子のうちに、神の愛が目に見えるものとなりました。

 それは「栄光の夜」です。天使たちはベツレヘムでその栄光を宣言し、わたしたちも世界中でその栄光を宣言しています。それは「喜びの夜」です。なぜなら、永遠なる神はそのときからいつまでも「わたしたちと共におられる神」だからです。神は遠くにおられるかたではありません。空の彼方や神秘的な観念の中に神を捜す必要はありません。神はすぐそばにおられます。神は人となられ、決してご自分の民であるわたしたち人間から離れません。それは「光の夜」です。イザヤによって預言された、闇の中を歩む人の上に輝く光(イザヤ9・1参照)が、ベツレヘムの羊飼いたちの上に現れ、彼らを包みました(ルカ2・9参照)。

 羊飼いたちは「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」(イザヤ9・5)ことを素直に受け止めました。そしてすべての栄光と喜びと光が、一点に交わることを知りました。それは天使によって示された「しるし」です。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」(ルカ2・12)。これこそが、すべての人がイエスを見つけるための「永遠のしるし」です。それは当時だけでなく、現代にも当てはまります。クリスマスを真に祝いたいと望むなら、このしるしについて思いめぐらす必要があります。それは、生まれたての赤子のか弱い純真さであり、飼い葉桶に寝かされた幼子の穏やかさであり、布にくるんだことに表れる愛情です。そこには神がおられます。

 このしるしによって福音は、一つの逆説を表します。福音書は当時の王、支配者、高位の権力者のことを記していますが、神はそこにはおられません。神は宮殿の輝きではなく、馬小屋の貧しさの中におられます。豪華な外観の中ではなく、簡素な生活の中におられます。力強さの中ではなく、驚くほどの小ささの中におれます。神に会うためには、神のおられる場に行かなければなりません。頭を下げ、謙虚になり、自らを小さくする必要があります。生まれたての幼子は、わたしたちに呼びかけています。本質的なものに目を向けるためにその場限りの幻想から離れ、飽くことのない欲望を捨て、決して所有できない物にいつまでも不満と未練を感じるのをやめるよう、幼子はわたしたちに呼びかけています。これらのことをうまくやめることができれば、御子の純真さの内に平和、喜び、そしていのちの輝かしい意味を見いだせるでしょう。

 飼い葉桶の中の幼子の呼びかけを受け入れましょう。そして、両親の愛情に包まれてゆりかごに寝かされるのではなく、悲惨で「尊厳を無視した飼い葉桶」に横たわる現代のすべての子どもたちの呼びかけも受け入れましょう。そうした子どもたちは、爆撃を逃れて地下に隠れたり、大都市で路上生活をしたり、難民でひしめくボートにしがみついたりしています。生まれなかった子どもたち、だれからも飢えを満たされずに泣いている子どもたち、そしておもちゃではなく武器を手にした子どもたちの呼びかけも受け入れましょう。

 光と喜びの神秘である主の降誕の神秘は、わたしたちに問いかけると同時に、わたしたちを動揺させます。それは「希望と悲しみ」の神秘でもあるからです。愛が受け入れられず、いのちが見捨てられているので、「悲しみの味」がするのです。ヨセフとマリアの前で家々の扉は閉ざされ、イエスは飼い葉桶に寝かされました。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(7節)。イエスは人々から拒絶される中で生まれ、多くの人々から無関心な扱いを受けました。現代でも同様の無関心さが存在しています。それは、降誕祭がイエスではなく自分を中心としたものとなるとき、ショーウィンドーのライトが神の光を闇へと押しやるとき、贈り物に夢中になるあまり困窮する隣人に無関心になるときです。こうした世俗のことがらは降誕祭を乗っ取っています。わたしたちは降誕祭を解放しなければなりません。

 しかし、主の降誕はとりわけ「希望の味」がします。わたしたちに闇があっても、神の光は輝いているからです。神の優しい光はわたしたちを恐れさせません。わたしたちを愛しておられる神は、貧しく弱いわたしたち人間の一人として、わたしたちの中にお生まれになり、優しくわたしたちをご自分のほうに引き寄せます。イエスはベツレヘムで生まれます。ベツレヘムは「パンの家」という意味です。イエスは「わたしたちのパン」としてお生まれになったと言っているかのようです。イエスはわたしたちにご自分のいのちを与えるためにわたしたちの人生に入ってこられます。イエスはご自分の愛をわたしたちに与えるためにこの世に来られます。イエスはわたしたちを搾取し、支配するためではなく、わたしたちを養い、わたしたちに仕えるために来られます。こうして飼い葉桶と十字架は一本の糸で結ばれます。イエスは「裂かれるパン」になられます。それは与えてゆるす愛、わたしたちの人生に光を投げかける愛、わたしたちの心に平和をもたらす愛の一本のまっすぐな糸です。

 羊飼いたちは当時、社会の周縁に追いやられた存在でしたが、神の目から除かれる人はだれ一人いません。その夜、羊飼いたちはそのことを悟りました。羊飼いたちはまさに主の降誕に招かれていました。自分に自信があり、自己満足している人は家の中で財産に囲まれていました。一方、羊飼いたちは「急いで」(ルカ2・16参照)出かけました。今晩、わたしたちもイエスの問いかけと呼びかけを受け入れましょう。そして自分が疎外されていると思っているところから、自分の限界から、さらには自分の罪から、信じる心をもってイエスのもとに行き、救ってくださる優しさに触れていただきましょう。わたしたちを引き寄せてくださる神にさらに近づきましょう。馬小屋の光景を眺めるためにしばし立ち止まり、イエスの誕生を思い描きましょう。そこにあるのは光と平和、貧しさと拒絶です。羊飼いたちと一緒に、真の主の降誕にあずかりましょう。そして孤独、いやされない傷、罪をも含む自分のありのままの姿をイエスに差し出しましょう。そうすれば、イエスのうちに、真の降誕祭の精神と、神に愛されていることの素晴らしさを味わうことができるでしょう。マリアとヨセフと共に、飼い葉桶の前に、そしてわたしのいのちのためにパンとしてお生まれになったイエスの前に立ちましょう。そして謙遜で無限であるイエスの愛を思いめぐらしながら、イエスにただこう言いましょう。「ありがとうございます。『わたしのために』こんなにしてくださって、ありがとうございます」。

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