タグレ枢機卿、福者ユスト高山右近 記念日ミサ説教[当日の動画も](2018.2.3)

(動画は最下部に) ルイス・アントニオ・タグレ枢機卿(マニラ教区) 福者ユスト高山右近殉教者 記念日ミサ説教 2018年2月3日 マニラ教区(フィリピン)司教座聖堂、無原罪の聖マリア聖堂 親愛なる、キリストにおける兄弟姉 […]

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ルイス・アントニオ・タグレ枢機卿(マニラ教区)
福者ユスト高山右近殉教者 記念日ミサ説教
2018年2月3日
マニラ教区(フィリピン)司教座聖堂、無原罪の聖マリア聖堂

親愛なる、キリストにおける兄弟姉妹の皆さん、

 わたしたちは今日、神に賛美と感謝をささげます。一つの共同体になる機会を与えてくださった神に感謝します。ここでわたしたちは、神のことば、存在、霊によって新たにされ、さらに、教会と社会に与えられる聖なる人々というたまものにより新たにされたのです。今日わたしたちは、福者ユスト高山右近というたまものを神に感謝します。
 本日、すべての皆さんを歓迎し、とくに日本の司教様方、そして日本からの巡礼者の皆さんを、心より歓迎いたします(拍手)。マニラの司教座聖堂の無原罪の聖マリア聖堂によくいらっしゃいました。皆さんがフィリピンでの滞在を楽しんでいただくよう希望します。また福者右近に思いを巡らせながら、弟子であること、キリストに従う気持ちを、皆さんが新たにする経験をされるよう願います。フィリピン人の皆さんは、福者右近を受け入れるよう願っています。右近はここ、マニラで殉教しました。日本からやってきて、わたしたちの土地、大地を、信仰のあかしと英雄的な行いによって祝福しました。
 わたしは日本語が話せなくて申し訳ないです、この説教を日本語に訳することができませんが、英語のできる皆さんが、おそらく後で友人の皆さんに、わたしがお話ししたことをお伝えください。

 キリスト者は苦しみを賛美するのか、といぶかしがる人がいます。そうした人は、「どうしてあなたがたは十字架上のイエスを礼拝するのか。加えて、苦しんだ殉教者の記憶をも崇敬する」と質問します。わたしたちは苦しみを、何かおしゃれなこと、魅力的なことだと考えているのでしょうか。この世が経験するあらゆる苦しみに、もっともらしい理屈をつけているでしょうか。
 福者右近の記念日の朗読箇所は、キリスト教的な理解を与えてくれていると思います。わたしたちは決して、苦しみや痛みを他者に押しつけることを奨励しているのではありません。そうではなく、イエスが苦しみをどのようにご覧になっているかにわたしたちは目を向けます。そして福音書を読むと、イエスは苦しみをご自分の宣教の中に統合していることが分かります。苦しみそのものを受け入れているということではなく、宣教の文脈の中で、イエスは苦しみの意義を見いだすのです。イエスの使命は、すべての人を救うという御父のみ旨を成就することです。
 イエスはその使命を成就することにより、御父を賛美します。もしご自分の使命が成就する中に苦しみが含まれているなら、イエスは「はい」と答えられます。イエスはご自分の使命に対し「はい」と答えられるのです。もし使命の中に苦しみが内包されているなら、使命を受け入れたように、苦しみも受け入れました。したがって、それは神を賛美する瞬間となります。それはまたイエスが、地に落ちて死ぬ、一粒の麦となる瞬間です。それは他者とともにする苦しみです。イエスの苦しみにより、イエスは大地と一つになり、人類と一つになり、苦しむ被造界と一つになるのです。イエスの苦しみは連帯の行動です。
 したがってわたしたちは、単に苦しみを楽しんでいるのではありません。意味のある苦しみです。使命のための苦しみであり、他者のための苦しみです。ですから、それは単なる苦しみではなく、他者が生きるために、自分のいのちをささげることです。
 世は苦しみを見ていますが、イエスはいのちのたまものを見ています。それはまったく異なる視点です。だからミサの時にわたしたちは思い起こすのです。「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ」「これはあなたがたのために流されるわたしの血」と。

 この中で、どのくらいの人がお子さんたちの親御さんですか(会衆が手を挙げる)。そう、皆さんは、よい親になるという使命をもっています。その使命のある部分には、多くの苦しみがあります。皆さんは臆病になります。自分自身に対してではなく、子どもたちに対して、です。病気になっても、仕事に行かなければなりません。そして皆さんは、子どもたちに対する使命のために苦しみを抱いています。どんなに子どもたちが大きくなっても、皆さんは子どもたちのことが心配です。皆さんは日々苦しんでいます、子どもたちのことが心配だからです。しかしそれは彼らに対する使命だからであり、子どもたちとの一致、連帯があるからです。それは役に立たないものではなく、子どもたちに対するいのちのたまもの、他者に対するいのちのたまものです。
 ですから、苦しみを楽しんでいるから、苦しみを探し求めているわけではありません。違います。それは愛であり、使命であり、自分を明け渡すことです。イエスのように、だれかが苦しみ、死にゆくときに力を与えます。愛があれば、皆さんは意味のある形で、いのちを他者に明け渡すような形で、苦しむことができます。

 だから第一朗読でパウロが語ったことは次のことを思い起こさせます。神のために苦しむとき、他者のために苦しむとき、使命のために苦しむとき、愛の発露として自己をささげることで苦しむとき、その時皆さんは、神と一つになっています。
 苦しんでいるときに、「神はどこにいるのか、神はわたしを見捨てられたのか」と尋ねる人がいます。しかし聖パウロは言います。「なに一つ、神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。福音書のイエスは語ります。「わたしのいるところに、あなたがたもいてほしい」。
 イエスはわたしたちを死に至るまで愛しています。わたしたちがイエスと一つに結ばれていてほしいと願っています。なに一つ、わたしたちをキリストの愛から引き離すことはできません。キリストがまず、わたしたちを愛されたからです。キリストは、愛によって耐えうるすべての苦しみを身に帯びながら、わたしたちを愛しておられます。
 だからわたしたちは、なにを恐れることがあるでしょう。わたしはなにも恐れません。愛です。愛していれば、苦しみに耐える力が得られます。人々は愛しますが、苦しみを恐れる人は、愛することを知りません。それが愛です。神に対して、人に対しての愛は、たとえ死にあっても、だれかに力を与えます。

 わたしたちは福者ユスト高山右近の中に示された、右近を通して示されたキリストの愛を祝っています。彼は危険を理解していました。イエスのみ顔から目を背ける機会もありました。しかし彼は言います。「そうはしない。わたしは信仰を保ち、イエスに忠実であり続ける」。
 世は言います。「右近、あなたは気がおかしくなったのか。どうして自分のいのちを守らない」。彼は確かに気がおかしくなっていたかもしれません。愛のために、おかしくなっていたのです。彼は愛していたので、愚か者になりました。そしてイエスはその愛のための代価を払いました。
 しかしいま、イエスの愚かさがわたしたちの知恵となりました。イエスの弱さが、わたしたちの強さとなりました。イエスはわたしたち皆に、恐れるな、とおっしゃいます。愛、愛です。そして皆さんが愛するとき、キリストからもたらされる強さからだれも引き離すことはできないことをわたしたちは知っています。
 わたしたちは日々、殉教者=あかし人となるよう招かれています。血による殉教を待つ必要はありません。日々、日常生活の中で、イエスとともに、イエスの愛のあかし人となるよう呼ばれています。皆さん自身を、皆さんのいのちを、皆さんの使命のために、他者のためにささげてください。苦しむ人々と一つになってください。なに一つ、皆さんをキリストの愛から引き離すものはありません。

 栄光の賛歌を歌っていた間、小鐘をたくさん鳴らしていました。それはいいのです。歴史資料によると、右近とその家族、同伴者がここマニラに上陸したとき、たくさんの教会が鐘を鳴らしたそうです。マニラの司教座聖堂も含めて。
 スペインからの宣教師たち、イエズス会士たち、こちらの信者たちは右近を歓迎しました。当時すでに、みんなは右近が、苦しみの中にあってさえ「否」と言わない愛の殉教者=あかし人だと分かっていたのです。ですからいま、教会が右近を認めたことを幸いに思います。そして日本から、フィリピンから、世界中に、普遍教会にあかしをもたらします。喜びのうちに、神に感謝し、右近を通して、聖ロレンソ・ルイスを通して、日本とフィリピンが一つになりましょう。
 世界に向けて、イエスの心からわき出る力の、愛の力のあかしを届けましょう。
 沈黙のうちに、イエスからのたまものに、宣教のたまものに、福者右近のような偉大な殉教者のたまものに対し、引き続き、神に感謝をささげましょう。
(暫定訳)

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