教皇フランシスコ、第15回シノドスの閉会ミサ説教

 10月28日(日)、「世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会」は最終日を迎え、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、教皇フランシスコとシノドス参加司教らによって、閉会ミサが行われ、若者たちをはじめ約7千人が参加した。  ミ […]

 10月28日(日)、「世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会」は最終日を迎え、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、教皇フランシスコとシノドス参加司教らによって、閉会ミサが行われ、若者たちをはじめ約7千人が参加した。
 ミサ説教で教皇は、この日の福音箇所、マルコ10章46-52節に沿って、「耳を傾ける」「寄り添う」「あかしする」という、信仰の歩みの3ステップについて話した。以下はミサ説教の全訳。

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 いま読まれた箇所は、福音記者マルコが、巡回するイエスの宣教について語っている最後の部分です。イエスは死に、復活するためにエルサレムに入城するところです。バルティマイはこうしてイエスの旅にしたがう最後の弟子となりました。つまり、エリコへの道端にいる物乞いだったのが、他の人たちと並んで、エルサレムへの道を歩く弟子の一人となったのです。わたしたちもまた、互いに並んで歩いてきました。わたしたちは「協議性(=シノドス)」であり続けたのです。この福音箇所は「信仰の旅路」の基礎となる3段階を確認します。
 第1に、バルティマイについて考えましょう。その名前は「ティマイの子」という意味です。だから福音書は彼のことを「ティマイの子で、バルティマイ」(マルコ10・46)と称しています。しかしおかしなことに、その父親はどこにも出てきません。バルティマイは、家から、故郷から遠く離れて、独りで道端に座っています。彼は愛されず、見捨てられています。盲目で、誰も彼のことを聞いてくれません。話そうとすると、皆、彼を黙らせようとしました。イエスは「彼の願いを聞き入れます」。彼がイエスのところに近づくと、イエスは彼に話させます。バルティマイが何を望んでいたかを想像することは難しいことではありません。明らかに、盲目の人は、目が見えるように、再び視力を取り戻したいのです。しかしイエスは時間を取ります。聞く時間を取ります。これこそが、信仰の旅路を手助けする第一歩です。「耳を傾けること」。それが「耳の使徒職」です。話す前に聞くのです。
 こうする代わりに、イエスとともにいた多くの人は、バルティマイに黙るよう命じます(48節参照)。これらの弟子たちにとって、助けを求める人は、道端の邪魔者、予期せぬ障害物でした。「先生」の予定表より、自分たちの予定表の方を選び、他者に耳を傾けるより、自分が話す方を選びます。イエスにしたがっていますが、頭には自分の計画が入っています。このことはつねに、防ぐべきリスクです。しかしイエスにとって、助けを求める人々の叫びは障害物ではなく、挑戦です。いのちの声を聞くことはわたしたちにとっていかに重要なことでしょう。天の御父の子らは、その兄弟姉妹に関心があり、役に立たないおしゃべりにではなく、自分の隣人たちのニーズに関心をもっています。彼らは忍耐強く、愛をもって耳を傾け、それはちょうど、神がわたしたちのこと、わたしたちの祈りを聞いてくださるようであり、しかも何度も繰り返し聞いてくださいます。神は決して疲れません。わたしたちが見上げるといつも神は幸せそうです。わたしたちも、「聞く心」の恵みを願いましょう。すべての大人たちの名において、わたしは若者の皆さんに言いたいと思います。もしわたしたちが、しばしば皆さんの言うことを聞かなかったら、もし自分の心を開く代わりに皆さんの耳を埋め尽くしていたら、わたしたちのことをゆるしてください。キリストの教会としてわたしたちは、愛をもって皆さんに耳を傾けたいと思っています。二つのことは確かです。神は若々しい存在であり、若者を愛しておられるので、神の目に皆さんのいのちはかけがえのないものです。また皆さんのいのちはわたしたちの目にもかけがえのないものであり、実際、前進する必要があります。
 聞いたのち、信仰の旅路の第2段階は「隣人となること」です。イエスを見てみましょう。イエスは彼にしたがう「大きな群衆」から誰かを代理人とはせず、自らバルティマイに会いに行きます。彼に尋ねます。「あなたのために、わたしに何をしてほしいのか」(51節)。「…何をしてほしいのか」——イエスはバルティマイと完全に興味を示し、彼を避けようとはしません。「…わたしに…」——単に話すだけでなく、何かを行います。「あなたのために…」——自分であらかじめ考えていた案にしたがうのではなく、あなたの特定の状況の中で、あなたのために。このように神は働かれるのです。あらゆる人に優先的な愛をもって、直接に神はかかわります。神のわざによって、そのメッセージはすでに伝えられています。信仰はこのようにして、人生の中で花開くのです。
 信仰は人生を通じて伝えられます。信仰が純粋に教義の定型句に関心があるのなら、頭にだけ語りかけ、心に触れない危険があります。行動にだけ関心があるのなら、単なる、諭すような社会活動になってしまう危険があります。そうではなく、信仰は「人生です」。それは、わたしたちの生活を変えてきた、神の愛の中で生きています。わたしたちは、「教義」と「活動主義」の間で選択することはできません。わたしたちは、神のわざを、神ご自身のやり方で、実行するよう呼ばれています。つまり、神に向かって突き進むことにより、互いの一致の中で、兄弟姉妹と並んで、「親密さ」の中で、なのです。親密さとはつまり、信仰心を伝えるための秘訣であり、二義的な要素ではありません。
 「隣人となること」とは、神の新しさを、兄弟姉妹の生活の中にもたらすことです。それは、簡単な答えや速攻の解決といった誘惑に対する「解毒剤」として働きます。仲間内から外に出て、「わたしたちの仲間の一人」ではない、しかし神が熱心に探し求めていた人を抱きかかえ、キリスト者として隣人になれるかどうか自問してみましょう。聖書の中でよく見かける誘惑はつねに存在します。自分の手を洗う誘惑です。今日の福音箇所の中で群衆が行うことです。それはカインがアベルに対し行ったことであり、ピラトがイエスに行ったことです。彼らは自分の手を洗いました。しかしわたしたちはキリストに倣いたいと思っており、キリストのように手を汚したいのです。キリストは、バルティマイのために道で立ち止まる「道」(ヨハネ14・6参照)です。盲人を助けるために身をかがめる「世の光」(ヨハネ9・5参照)です。主はわたしたち一人ひとりのために手を汚されてきたことを理解しましょう。十字架を見上げ、そこから始め、神は罪と死においてわたしの隣人となられたことを思い起こしましょう。神はわたしの隣人となられたのです。すべてはそこから始まります。そして、神の愛から、わたしたちも隣人となり、「新たないのちの運び手」となります。あらゆる人の教師ではなく、聖なるものの専門家でもなく、人を救う愛のあかし人となるのです。
 第3段階は、「あかしすること」です。イエスの求めに応じて、バルティマイを呼び出した弟子たちのことを考えましょう。彼らは黙らせるための硬貨をもって乞食に近づいたわけではなく、助言をしに近づいたわけでもありません。彼らはイエスの名において行くのです。実際、彼らは三つのことばしかかけてなく、その三つはイエスのことばです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」(49節)。福音書の他のあらゆるところで、イエスだけが「安心しなさい」と語ります。というのも、イエスだけが、彼に聞き入る人々を「元気づける」からです。福音書の中で、イエスだけが「立ちなさい」と言い、心と体をいやします。イエスだけが「呼びかけ」、彼にしたがう人の生活を変え、倒れている人が立ち上がるよう助け、神の光を人生の暗闇にもたらします。とても多くの子どもたち、とても多くの若者たちが、バルティマイのように自分の人生に光を探し求めています。彼らは真の愛を探し求めています。そして、こうした大群衆の中でイエスだけを探し求めたバルティマイのように、彼らもまた人生を探し求め、しかししばしば空約束しか見つけられず、真に心配してくれる人はごくわずかです。
 模索する兄弟姉妹たちはわたしたちのドアを叩いてくるはずだと期待しているようでは、キリスト者とは言えません。彼らのところに出かけていき、わたしたちではなくイエスをもたらすべきです。イエスがわたしたちを、弟子たちのように派遣し、わたしたちは他者を励まし、イエスの名において彼らを立ち上がらせるのです。わたしたちがそれぞれの人に「神は、あなたが神によって愛されることをゆるすよう、あなたに願っています」と伝えるために、イエスはわたしたちを派遣します。こうした解放する、救いのメッセージの代わりに、どれほど頻繁に、わたしたちは教会の中に自分自身を持ち込み、自分の「レシピ」、自分の「ラベル」を持ち込んでしまうことでしょう。主のことばを自分自身のことばとする代わりに、どれほど頻繁に、わたしたちは自分の考えを主のことばとして売り歩くことでしょう。どれほど頻繁に、人々はイエスの優しい存在よりも、わたしたちの組織の重さを感じることでしょう。こうしたケースにおいてわたしたちは、NGOや政府関係機関のように行動し、主の喜びのうちに住む、救われた共同体として行動していないのです。
 「耳を傾けること」「隣人となること」「あかしすること」。今日の福音箇所にある信仰の旅路は、イエスが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52節)と語り、素晴らしい驚きの形で結末を迎えます。しかしバルティマイはなんの信仰告白もせず、なんのよい行いもしていません。彼は単にいつくしみを願っただけでした。救いの必要性を自分の中で感じることは、信仰の始まりです。それこそがイエスと出会う直接の道です。バルティマイを救った信仰は、神についての明確な考えをもつこととはなんの関係もなく、神を探し求め、神との出会いに憧れる中に存在したのです。信仰は、出会いとかかわるものであり、理論とではないのです。出会いの中でイエスはそばを通り、出会いの中で教会の心は躍るのです。そのとき、説教ではなく、わたしたちの人生のあかしが働くことが証明されるのです。
 この「ともに歩む旅路」に参加したすべての人々に、皆さんのあかしに対し、「ありがとう」と申し上げます。わたしたちは、率直さのうちに、神の民に奉仕する望みをもって、一致して働きました。どうか主がわたしたちの歩みを祝福してくださいますように。そうすれば、わたしたちは若者に耳を傾け、彼らの隣人となり、彼らの前にイエスに対する、わたしたちの人生の喜びのあかしをもたらすことができるのです。

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