ワールドユースデー(WYD)パナマ大会 パナマからローマへ向かう帰路での記者会見

 

2019年1月27日(日)
パナマからローマへ向かう帰路での記者会見

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ジゾッティ:
 こんばんは!
 教皇様、パナマのホセ・ドミンゴ・ウジョア大司教が仰っていたように「教皇の若者たち」「イエスキリストの若者たち」という歓声がいつまでもわたしたちの耳に余韻を残しています。今回のWYD大会が偉大で力強い喜びに溢れていたことは、若者とたちの表情と同様に教皇様の表情からも伺えました。ジャーナリストの多くが気づいたと思いますが、これは教皇庁のマジステリウム(教導権)文書にはなく、また別のとても重要な意味が添えられたものです。ホンジュラスのマルタ・アビラが作曲した歌詞にも綴られているように、昨日の動画では目に見える形で示されていました。まさに、この曲はいじめに立ち向かう本質的なことを伝え、おかげで「Scholas Occurrentes1」と出会えました。これらを通じてわたしたちは、若者間でどのような悲しみの要素が存在しているかを知ることができ、同時に、幾度もの喜びをも味わいました。衝撃的だったことを一つお伝えしたいのですが、教皇様がパパモービルで通りすぎる時、その瞬間に、多くの若者たちが互いに抱きしめ合っているのを目にしました。互いに分かち合う喜び、これが若者たちの抱きしめ合う瞬間であったのだと心うたれました。これは恐らく、わたしたち大人が学ぶべきことの一つです。若者たちは、彼らが喜びに溢れた時、それを独り占めせずに分かち合う、このことに感銘をうけたので、教皇様と、そしてここにいる記者の皆さんと共有したいと思います。
 教皇様、国を飛び立つ直前の教皇庁大使館での中米ユニセフとの会合のように、教皇様ご自身もきっとたくさん驚かされたのではないかと思います。
 記者会見前に簡単なご挨拶をされたいかどうかわかりませんが、いかがでしょうか。

教皇フランシスコ:
 こんばんは。この強行スケジュールの旅を終えて皆さんお疲れのことと思いますので、まずはゆっくり休んでください。皆さんの働きに感謝します。先ほど、ジソッティが述べたように、いじめの被害者であるホンジュラス出身の16歳の少女が自らの思いを歌詞にして美しい唄声でわたしたちへ伝えたことなど、想像もできなかった驚きがありました。離陸間際の時間での、中米ユニセフとの会合、若者たちの証言を通じた証しを知ることができたこと、そのすべてがわたしの心に響きました。皆さんにとっても強行スケジュールの旅、お疲れさまでした。

ジゾッティ:
 たくさんの旅路の先に寄り集まって一つになる旅であったかと思います。だからこそ、この貴重な訪問が、各国から参加する世界をまたにかけた若者たちにとって、今WYD大会テーマが心に刻まれることとなりますように、願っています。
 ここで最初の言葉を伺うのは、パナマの地方メディアであるラジオパナマのエドウィン・カベラさんですね。エドウィンさん、宜しくお願いいたします。

エドウィン・カベラ・ウリベ(スペイン語で):
 教皇様、まず初めに、パナマの6人の証言者とわたし自身を含むパナマ国民を代表して、心一杯の感謝をお伝えいたします。わたしたちに贈られたものは本当に偉大なものです。
 早速、質問に入らせていただきますが、教皇様、先ほどボランティアたちに「この使命を経験して、心がどのように踊るかを知ることができましたね」と伝えておられましたが、教皇様にとっての今回のパナマ訪問の使命とは何だったのでしょうか。また、何に衝撃を受けて心動かされましたか。そして、今回の使命は果たされましたか。なぜかというと、ポーランド大会で中米での開催が告知された後、開催地はパナマとニカラグアの両候補とも待機しながら、最終的にパナマが開催地として選ばれた経緯があるので、パナマでの使命についてお伺いしたいのです。

教皇フランシスコ(スペイン語で):
 今回のWYD大会におけるわたしの使命はペトロの使命であり、それは形式的な表現の教えではなく、その開催地にある在りのままのものに応じて、自身の心に触れることです。それは心の動きに沿っているものなので、よくわかりませんが、わたしにとっては、自分の頭だけを使って何かの使命を果たしていくことは、想像し難いです。使命を果たすためには、心で感じることが大切で、あなたの心をうち、それがあなたの人生に衝撃を与え、それらの課題に衝撃を受けるのです。
 先ほど、空港で別れの挨拶をしていた時、大統領が黒人の少年を連れており、「見てください、コロンビア国境を越えてきた少年です。彼は母を亡くし、たった独りでした。5歳くらいでしょうか。彼は部族の言葉しか話せないので、アフリカ出身だとはわかっていますが、どこの国出身なのかさえもわからないので、しばらく養護することにしました」と言っていました。元気な頭のいい子です。しかし、母の死後、誰にも助けてもらえずに放置されていた悲劇のこの少年の人生、その事実を目のあたりにした人々に影響を与え、そして、それらの人々がこの少年の人生を助けようと関わっていくことで、それぞれの使命が彩られていきます。それこそが、理由や理屈ではないものと言えるでしょう。言い換えるなら、使命とは、常に関わりの中にあります。少なくとも、わたしにとってはそうです。恐らく、わたしのイタリア精神からそんな確信があるのでしょう。いつも若者たちに言っているのは、3つの言葉:①頭、心、手を使い、②歩きながら、③人生の中でやるべきことをやらなければならない、ということです。そして、この3つの言語の調和とともに、何を感じ、何を実行すべきかを考え、考えるべきこと実行すべきことを感じ、その感じた思い考えた思いを実行するのです。だから、わたしは、使命の工程表を提供することはできません。これらのすべてはいつもわたしを祈りへと運び、主の前に存在し続けています。時にそのまま眠ってしまうようなときもありますが、それぞれの使命の中で経験した全てを通じて、皆が信仰のうちありますようにと主にお願いします。これがわたしの経験している教皇の使命です。だから、理性では対応できないくらい断絶的な困難に直面し、理由だけに沿って対応する気にはなれないとき、自ずと別の解決方法が降りてきます。

エドウィン・カベラ・ウリベ:
 全体を通じて、今回のWYDパナマ大会は期待に応えられていましたか。

教皇フランシスコ:
 それはもちろん明らかです。このような旅の期待に対する満足度の目安は、疲労度に比例しており、わたしはこのようにすっかり疲れ果てています。

エドウィン・カベラ・ウリベ:
 最後になりますが、教皇様、パナマを含むラテンアメリカ諸国の多くが抱える共有課題の一つに、10代の少女のような若年層女子の妊娠の問題があります。昨年、パナマ国内だけでも1万人のケースがあり、他の中米諸国も同様です。カトリック教会では、批判者から性教育が非難されています。ラテンアメリカ諸国において、多くの学校や大学で性教育が実践されていますが、これについて教皇様のお考えをお聞かせください。

教皇フランシスコ:
 教育現場で、性教育を教えることは重要だと思います。性は神からの贈りものです。お金を稼ぐためや他者から搾取され使われるために強いられるような、見世物のようなものではありません。性教育の目的として、植民地化されたイデオロギーを取っ払った上での学びが提供されるべきです。というのは、植民地化されたイデオロギーに染められた性教育が学校で教えられると、人を破壊してしまいます。神からの贈りものとしての性は、厳格ではなく、「e-ducare」のように、その人から最高のものを引き出し、それらの若者たちの行く道に寄り添いながら教えなければなりません。課題は、性教育を教える側にあります。目に見えない教育現場で、教育者が性教育をタスクとして、教本に縛られて教えている現状があります。この点において、これまで「課題が入り混じった問題」を見てきました。男性優位な価値観を作り上げるものや、その他ダメージを与えるような問題が横たわっています。教育現場での性教育のないパナマにとって、わたしの性教育に対する意見がパナマの政治を左右することになるかわかりませんが、子どもたちにとっての性教育は大切です。現実的には、家庭内で両親を通してこの教育は始まっていますが、親もどのように教えていいのかわからないこともあり、各家庭によってそれぞれ状況は違います。学校はこれを補うことが期待されていますし、そうあるべきです。そうでなければ、あらゆる価値観のイデオロギーが入り込み、埋め尽くされてしまいます。

ジゾッティ:
 教皇様、次にローマレポーツのハビエル・ブロカルさんからの質問です。

ハビエル・マルチネス・ブロカル(スペイン語で始まり後半イタリア語で):
 教皇様、まず最初に、4日間でパナマ人になった更新記録—たった4日間でパナマ国民の心を掴んだことに、お祝い申し上げます。
 一つお伺いします。イタリア語で返答していただきたいので、ここからイタリア語に切り替えます。
 この期間、多くの若者たちとお話しされたと思いますが、その中には困難にぶつかり、教会から離れていた若者たちもいます。何が若者たちの困難となり、教会から離れる要因となっているのでしょうか。ご意見をお聞かせください。ありがとうございます。

教皇フランシスコ:
 若者が教会を離れる要因としては、多くのことが横たわっています。その中には個人的な事情もありますが、多半数の要因の一つは信徒、司祭、司教からの証しが欠乏しているように思います。教皇たちの証しが欠けているとは、あまりにも残酷なのであえて言いませんが[笑い]、教皇たちも含みます。証しの欠乏です。もし、司牧者が通訳者、司牧事業担当者の役割のみで、人々の近くに居ないのであれば、それは証しのある司牧とはいえません。司牧者は、人々とともにいなくてはならず、羊飼いのように群れなければなりません。教会信徒である群れの行く先に立ち、道を示していかなければなりません。その群れの中で、人々の臭いをかぎ、人々が何を受け止め、何を必要とし、何を感じているのかを理解し、護衛の世話をするために時には群れの後につくのです。
 しかし、司牧者が情熱をもっていない場合、人々は放棄され無視されたと感じ、孤児のように感じてしまい、教会は孤児が孤独を感じる場所となってしまいます。
 もちろん、司牧者にだけ強調しているのではなく、信徒や主日ミサに与ることだけで自身をカトリック信徒だと呼ぶ偽善者においても、同じことが言えます。それらの人々は賞与を払うかわりに、袖の下で賄賂を払い、ビジネス目的のみならず人々を搾取した利益で、カリブ海での贅沢な休暇を過ごしています。そして、「わたしは主日ミサに与っているからカトリック信徒だ」というのです。もしあなたがこのような行動をとっているなら、それは証しに背いた行為です。これが、人々を教会から遠ざける要因だと思います。司牧者、信徒として皆さんの証しが必要です。
 わたしの意見としては、証しを示すことができなければ、自身をカトリック信徒と呼ぶべきではありません。かわりに、「わたしはカトリックの教育を受けましたが、いい加減なので、全世界に罪を告白します」、「どうかわたしを模範にはしないでください」と言ってください。カトリックが完璧だとのおごりをもっている人々のために、あえてこれを伝えなければならないのです。
 律法学者とともにイエスに起こった出来事のように、歴史は繰り返します。「主よ、わたしはこのような乏しい罪人でないことに感謝します」と言うのも正しいことではありません。証しの欠乏です。もちろん、若者たちが教会から遠ざかる理由は他にもありますが、これが最もよく見られる要因の一つです。

ジゾッティ:
 教皇様、ここでパリスマッチ社のキャロライン・ピゴッツさんへ繋ぎます。

教皇フランシスコ:
 その前に、わたしと一緒にこのWYDパナマ大会を祝ったブノワ・デ・シネティ神父という素晴らしい司祭とパリから参加した200人もの青年たちに感謝したいです。

キャロライン・ピゴッツ:
 教皇様のお言葉は彼にとっても光栄なことです。ここに彼からの手紙も預かっていますので、来週にお渡しいたします。

教皇フランシスコ:
 とても素晴らしい、わたしに贈られた彼の書籍2にも感謝します。

キャロライン・ピゴッツ:
 教皇様、この4日間どんなときにも、教皇様は若者たちと素晴らしい集中力で心を合わせてお祈りしていました。その中には、信仰に基づく人生に入りたいと願う若者たちもいたことと思います。同時に、幾人かの若者たちがきっと修道者の道へと進むことでしょう。おそらく、終身独身性が困難に見えて、躊躇する人もいるかもしれませんが、「東方典礼」のように、カトリック教会でも既婚男性が司祭になることを認める可能性はあるのでしょうか。

教皇フランシスコ:
 カトリック教会でも、東方典礼のように、職に従事する前に独身制をとるか結婚するかの選択できるようになることはあり得るかもしれません。

キャロライン・ピゴッツ:
 しかし、現在、ラテン典礼でも、この選択をしようと考えているとの見方がありますが、いかがでしょうか。

教皇フランシスコ:
 ラテン典礼においては、「わたしは、教会法の独身制を変えるより、自身の人生を捧げることを選びたい」と言った聖パウロ6世の言葉が頭をよぎります。1968年、1970年の最も困難な時期に勇気づけられた言葉なので、心を離れません。個人的には、独身制は教会のための賜物であり、独身を選択制にすることにはあまり同意できませんが、僻地のような特段の事情がある場所においては、例外を認めざるを得ないという可能性があります。太平洋にある諸島など、そこに司牧の必要性があるような場合です。しかしどんな特段の事情があっても、その司牧者は信仰のうちに生きなければなりません。ここにフリッツ・ロビンガー司教の書籍3に思想家たちの関心深い論議がありますが、わたしとしてはこのような決断ができません。個人的な思いではありますが、わたしの決断としては、職に就く前の独身制の選択、この決断はとらないことは確かでしょう。わたしは閉鎖的でしょうか。多分そう言えるでしょう。しかし、この決断を神が下す前に現したくないのです。ロビンガー司教の話に戻りますが、「教会は感謝の祭儀(ミサ)によって存在し、ミサによって教会がある」と彼は述べています。しかし、太平洋諸島のようにコミュニティにミサがないなら、キャロライン、どう思いますか…。

キャロライン・ピゴッツ:
 アマゾンも同様です。

教皇フランシスコ:
 多分、アマゾンもそうであるように、多くの場所にあり得るでしょう。ロビンガー司教曰く「誰がミサを司式するのか。仮に助祭や修道女、信徒など、コミュニティの指導者ならばあり得るのでしょうか」と、これはあくまでも彼の思想ですが、「既婚者である高齢者の中には、使命をもって奉仕している人がいて、その人がミサやゆるしの秘跡、病者の塗油を担うのなら、それは『聖職の務め』の実践だ」と彼は言っています。司祭の与えられた使命には3つの贈りものがあります:統治すること、聖化すること、そして、教えることです。もちろん、すべて霊的な方法での使命です。これが与えられた使命なのです。司教はこの「聖職の務め」を教える権能を提供するかもしれませんが、これは理論にすぎません。この書籍が面白いのは、もしかしたらこの課題を考慮する上で役に立つかもしれないからです。司祭数不足で司牧上の課題がある。まだ十分な祈りで内省できていないので、確実ではありませんが、思想家たちの研究ではそのように言っています。一つの例が、南アフリカの派遣宣教者であったロビンガー司教(当時司祭)、今は高齢ですが、この例を挙げるのは、それらのような研究が不可欠だからです。1950年代頃の革命時代、社会主義国で働かざるを得なかった国の役人と話したことがあります。司教団は陰ながらに信仰分野の役割を担う者として、優れた農夫を叙階しました。そして30年後、危機が静まった後に、立ち向かっていた課題は解決されたのです。その司教が、麻を身にまとい、地を耕す担い手である多くの農民とともに共同祈願を祈った時の気持ちを話してくれました。カトリック教会の歴史では、このようなことが起こります。つまり、あらゆることを研究し、考察し、祈るべきだということを意味します。

キャロライン・ピゴッツ:
 カトリック信徒に改宗したプロテスタントもいます。

教皇フランシスコ:
 教皇ベネディクトが残した功績について尋ねているのですね。確かにその通りです。聖公会司祭「Anglicanorum coetibus」がカトリックに改宗し、まるで東方典礼でのように婚姻生活を保つ、この点について触れるのを忘れていました。水曜日の教皇謁見で、祭服を着た多くの聖公会司祭と夫人、手をつないだ子どもたちの姿を目にしたことがあります。現実に起こっていることを可視化する機会でした。その通りです、思い出させてくれてありがとう。

ジゾッティ:
 さて、次はDPA通信のレーナ・クリムカイトさんからの質問です。

レーナ・クリムカイト:
 教皇様、金曜日の十字架の道行の日、一人の若者がとても強い表現で中絶について言葉を発していました。ここで、あらためて繰り返したいのですが、「残酷な非難をあびて、天国へ叫ぶ墓、母の子宮を開けて、罪のない命を奪う墓、神がわたしたちに人間らしさを取り戻させ、命をしっかりと守るように、わたしたちを脅かす法律を永遠に消してください」と言っていました。わたしの意見としては、これはある意味、困難に直面している女性にとっては極端な立場に見えます。しかし、あなたのいつくしみあるメッセージとして、教皇様はどのようにお考えでしょうか。

教皇フランシスコ:
 いつくしみのメッセージは全ての人類が発展していく上でみんなのためにあるものです。いつくしみそのものがそうですが、ゆるされていないことが問題なのではなく、大切なのは、現実に直面している女性に寄り添うことです。残酷な悲劇が横たわっています。これについての論文を書いている学者と話したことがあるのですが、胎内に宿る胎児の細胞には記憶さえあるそうです。これは一つの理論にすぎません。
 しかし、一人の女性が自身のしたことを悟った時には、罪を罰するのではなく、罪に向き合い罪を告白させるべきです。これは、いつくしみから出てくるものであり、わたしがこれまで中絶に対する責任を追及してきた理由もこの点にあります。多くの場合—いつもとも言えますが、母は我が子に出会わなければいけません。そして、彼女たちが怒りで泣き叫ぶようなときは—あなたの子は天に居ます―と語りかけて、唄えなかった歌を声にして唄ってください。そうすると心が癒されます。これが母と子の和解の方法なのです。神とともに居るなら、和解はすでに存在します。それが神のゆるしであり、神はいつもゆるしてくださいます。一方で、いつくしみのもう一つの意味は、彼女自身が身をもってこれを経験しなければならないということです。中絶の悲劇を悟るためには、その人は罪の告白の中に自身を置かなければならず、それこそが惨いことです。

ジゾッティ:
 教皇様、ありがとうございました。次は、テレビザのヴァレンティナ・アラスラキさんからの質問です。わたしの記憶が正しければ、テレビザは確か使徒的プレスとして150年を迎えようとしています。

ヴァレンティナ・アラスラキ(スペイン語で):
 教皇フランシスコ、この度のWYD大会開催地パナマでの発言で、ご自身がベネズエラ人と親しい立場として、現在ベネズエラで起こっている人権問題に対して心に留め、すべての人間の人権に敬意をもち平和的解決へ向けるよう呼びかけられました。ベネズエラの人々は、より詳しいことが知りたいと、あなたのお言葉を期待されているかと思います。多くの国に支援しているフアン・グアイドの承認を通じて、平和的解決が見出せるのではないかと、人々は知りたがっています。また一方では、短期間の自由選挙も呼びかけているようです。ラテンアメリカ出身の教皇であるゆえ、人々はあなたの支援を求めていますが、支援の可能性と助言をお願いいたします。ありがとうございます。

教皇フランシスコ:
 苦しんでいる人々がたくさんいるベネズエラにおいて、どのような立場の人々であっても、そこで苦しんでいる全ての人々を支えます。あえて言葉にするとしたなら、「互いに言い分を聞き合うこと」です。うまく言えませんが、わたしには役割があり得るでしょう。しかし、場合によっては、軽はずみな発言になりかねませんし、さらなる破壊の要因にもなり得るでしょう。わたしはもっと慎重に発言を考慮すべきであったと、これまでを内省しています。ベネズエラの人々とともにいると信じていますので、わたしの親近感たる思いをここに言葉にします。現在ベネズエラで起こっている人権侵害でわたしは苦しんでいます。
 だからこそ、それらの人々にとっての平和的解決を求めています。何よりもわたしが恐れているのは血の戦いです。わたしが恐れているのは、人々が血まみれになることです。そして、この平和的解決に向けて働きかける人々の偉大な寛容を求めます。ベネズエラにおけるこの暴力的問題はわたしにとっても脅威です。というのは、コロンビアの平和構築において尽力が尽くされた後、警察学校で何が起きたかを考えてみてください、悍ましいことです。血を流すことは解決ではないのです。これ以上の争いを生まないためにも、わたしはこのような姿勢でいなければなりません。「バランスをとる」という言葉を選ぶのではなく、すべての人にとっての羊飼いでいなければならないのです。そして、もし手助けが必要ならば、それは、互いに向き合う合意協定の中で求めるべきです。その方法こそが、平和に向けた道筋です。ありがとう。

ジゾッティ:
 教皇様、ありがとうございました。さて、カトリックニュースサービス(CNS)のフゥンノ・アロチョ・エステヴェスさんからの質問の番です。

フゥンノ・アロチョ・エステヴェス:
 こんばんは、教皇様。
 ユースグループとの昼食の分かち合いの時、一人のアメリカ人女性がカトリック信徒の痛みと怒り、具体的にはアメリカ合衆国内の虐待問題について、質問されたと聞いています。この問題においては、多くのカトリック信徒が教会のために祈っていますが、ここしばらく続いている「司教による虐待のニュース」を聞いて、人々は裏切られた想いで絶望し、すっかり信頼をなくしています。教皇様、信仰と司教のもとで再構築されるための来る2月の司教との会合に対して、どのような展開を期待されているかをお聞かせください。

教皇フランシスコ:
 この方は利口な人です。彼は、この旅の初めから同行し、素晴らしい働きを果たしました。質問をありがとう。考えていたのは、C9(教皇の助言機関である枢機卿顧問会議)を説得することです。なぜなら、司教の一部は事の事情をしっかり理解しておらず、事の善悪の分別がついていないため、何をすべきかがわからなかったからです。そして、この問題を考える「カテケジス」を司教協議会へ提供すべき責任を感じました。ですから、当該会議の執行者C9を説得したわけです。カテケジスは、まず、少年少女が虐待されるとはどういう意味なのか、どのようなことを指しているのか、というこの惨事に対しての大切な気づきがありました。わたしが定期的に参加している被害者との会合での、ある方の言葉を覚えています。その方は40年間祈ることができず、苦しみ続けているというのです。これは、悲惨なことです。だから、まずは、この問題を認めることが大切です。そして、何をすべきだったかその手段を知ることです。なぜなら、司教団は虐待問題に対して何をすべきかがわからず、また、人々にとって遠い存在となり、時に司教の果たすべき知恵が人々に辿り着かなかった、こう言ったほうがわかりやすいでしょう。それゆえ、プログラムは全ての司教協議会へ繋がり、司教団がやるべきこと、大司教、協議会会長の役割などが創造されるべきです。
 しかし、明確でなければなりません。司法用語でいえば規約が明確でなければならないことと同じです。これが重要な点ですが、その前の道筋として先ほども述べたように、事をより深く知っていくことです。したがって[2月の会議では]、誰かの証明によって気づかされますように、すべての教会に赦しがもたらされますように、と祈るつもりです。その準備に向けて進めています。一つ加えたいのは、わたしのこれまでの発言で、大きな期待をもたれすぎたことです。現実に向けて、もう少し現実的な低い位置を目指しながら、期待をもたなければなりません。なぜなら、虐待の問題はこれからも続いていくからです。それは人間の課題の一つであり、人間はどこにでも存在します。いつか読んだ統計が示していたのですが、この問題の50%が報告され、その50%のうちの20%が人々へ聞こえ、そして判決を受けたのはそのうち5%だったとあります。酷いことです。惨憺たることです。わたしたちがもっと深くこの問題に対することを理解し、気づいていかなければならない人間の大惨事の一つです。
 そして、教会の問題を解決していくことによって、もっと深く理解することによって、この問題が重なる家庭や社会の中でも問題解決へと向かうことができるでしょう。しかしまずは、わたしたちが気づき、それぞれの場所で規約を持ち、前進しなければなりません。これこそが手段であり、それによって、成果が期待できます。

ジゾッティ:
 これ以上の質問を受ける時間があるかどうかわかりませんが、おそらく、簡単な一つであれば受けられるのではと思います。ANSA通信のマヌエラ・トゥリさん、既に夕食の準備ができているようなので、もし大急ぎで質問していただけるなら、どうぞ。

マヌエラ・トゥリ:
 こんばんは、教皇様。
 今回のWYD期間、教皇様は「移住者が社会の悪だと見るような思考は完全に間違っている」と述べてこられました。イタリアでは、よくご存知のように、移住者に関する新しい政策によってカステルヌオーヴォ・ディ・ポルトのCARA(庇護申請者および条約難民の受入センター)が閉鎖されました。これまで、移住者が包括的に受け入れられる試みがあり、子どもたちも学校へ通ってきましたが、現状、そうした移住者さえも根こそぎにされる危機に直面しています。2016年の聖木曜日、教皇様がカステルヌオーヴォ・ディ・ポルトに移住者を招き、祈られたことを踏まえ、このイタリアの新しい難民政策に対してのご意見をお聞かせください。カステルヌオーヴォ・ディ・ポルトは教皇様が2016年に聖木曜日を祈られた場所であり、そして、今、子どもたちを含めて、移住者がこれまで培ってきたことを散乱させてしまう危機に立たされています。

教皇フランシスコ:
 イタリアで何が起こっているかは聞かされています。この旅に没頭していたので、詳しいことはわかりませんが想像できます。移住者の課題は極めて複雑な問題です。自分たちの国は移住者で作られた国なのかを自問し、これまでの記憶を辿らなければいけない問題です。わたしたちアルゼンチン人は全てが移民です。アメリカ合衆国も同様です。この記憶が過去の歩みです。誰だったか覚えていませんが、一人の枢機卿か司教が「記憶の欠乏」と呼ばれるすばらしい記事を綴っていました。これも重要な点です。
 ここでわたしが使いたい言葉は、移住者を受け入れるために心を開き、迎え入れること、寄り添うこと、総合的に取り込まれるように促し、運ぶことです。さらに加えるなら、為政者は、統治者の美徳たる慎重さを用いるべきです。これがこの会見で最後に伝えたいことです。確かに難しい質問です。1970年代—軍事政権下のコンドル作戦の時代―に、多くの移民を南米から受け入れ、包括的に取り入れることに成功したスウェーデンの事例が頭をよぎりました。
 もう一つ、移民が直ちに受け入れられたサン・エジディオの事例もあります。しかし、昨年、スウェーデンは、「完全な体制が整っていないので、一時的に受け入れを休止する」とのことでした。これが慎重な政策です。そして、奉仕、愛、連帯においての課題もあります。繰り返しますが、イタリアやギリシャは他の側面で成功事例とはなっていないとしても、国家は移住者を歓迎することに対して寛大でした。トルコもある意味そうです。ギリシャはとても寛容的で、イタリアもまさに同様です。2013年、わたしがランペドゥーサを訪ねた時が始まりでした。しかし、現実に目を向けるべきなのは確かです。
 そして、移住者の母国を支援することによって移住者問題を解決する手段もあり、そのための重要なことがあります。移住者が訪れる背景には戦争や飢餓の要因があります。それゆえ、飢饉のあるところに投資すること、欧州諸国はそれらの国々の成長に貢献していくことも可能です。しかし、そこにはいつもアフリカの話題があり、アフリカを利用すべきという固定観念があります。それは、悲しいことですが歴史的背景にもつながります。中近東からの移住者は、他の出口を見つけました。レバノンは素晴らしく寛大で、100万人を超えるシリア人を受け入れました。ヨルダンも同様で、移住者が再統合されるように精一杯に尽くしながら、受け入れを寛大に開いています。トルコも同じく、いくらかの移住者を受け入れています。そして、イタリアでもいくらかの移住者を受け入れています。ですので、この難民・移住者の受け入れ問題は、わたしの頭に浮かんだこれらのことを考慮して、偏見を持たずに、話さなければならない複雑な問題ということです。

ジゾッティ:
 教皇様、ありがとうございました。それでは、よい夕食を、そしてよい旅を。
また1週間のうちに、お会いしましょう。

教皇フランシスコ:
 こちらこそ、みなさんの働きに感謝します。
 最後に一つパナマについて伝えたいのですが、新しい感覚を覚えました。ラテンアメリカは知っていましたが、パナマはそれほど知らなかったようです。わたしに降りてきた思いを言葉にすると、パナマは称賛されるべき国家です。あの地で何人もの高潔な人たちをみつけたことをこの機にみなさんに伝えたいです。そして、もう一つ伝えたいのは、コロンビアから戻りカルタヘナなどでの経験を話した時、欧州では見られない光景—パナマの人々が子どもたちを抱えながら「ここに勝利あり、ここに未来あり、ここに誇りあり」と言っている姿—を目にしました。パナマ人のこの国民たる誇りとは何を意味しているのでしょうか。欧州の冬季、イタリアでは氷点下を経験しますが、自分にとっての誇りとは何かを考えさせられました。観光すること、別荘を持つこと、子犬を飼うこと、それとも子どもを育てることでしょうか。ありがとう。わたしにとって、みなさんの祈りが必要です。わたしのためにお祈りください。
ありがとう。

ジゾッティ:
 教皇様、ありがとうございました。

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