教皇フランシスコ、2018年受難の主日ミサ説教(2019.3.25)

 

教皇フランシスコ、2018年3月25日受難の主日ミサ説教

受難の主日ミサ説教

 イエスはエルサレムに入城します。典礼は、主に声を上げたたえることのできた群衆の喜びと歓迎に、わたしたちも入っていって参加するよう招いています。受難物語の終わりには薄れてしまい、苦く後味が悪くなる喜びです。このにぎわいには、歓喜と苦悩、誤りと成功の物語という、弟子としてのわたしたちの日常生活にある物語が交差しているのが見えます。今日のわたしたち、男にも女にもしばしば見られる、さまざまな感情とそれに反する思いを明らかにするからです。わたしたちは深く愛することも、それでいてまた憎むことも、しかも深く憎むこともあります。勇敢に自らを犠牲にすることもあれば、しかるべきときに「手を引く」ことをわきまえてもいます。忠節心をもちながら、それでいて完全に見捨てたり欺いたりもできるのです。
 イエスによってわき立たされる喜びは、一部の人にとっては怒りやいら立ちの原因となるということが、福音の至るところに見て取れます。
 イエスはご自分の民に囲まれ喝采と歓声を浴びながら、エルサレムに入城します。想像できます。その入城にはっきりと響く声には、ゆるされた放蕩息子の声、重い皮膚病をいやされた人の声、いなくなった羊の鳴き声、それらすべてが重なっていることが。徴税人の喝采、汚れているとされた人からの喝采。社会の片隅に追いやられた人々の歓声も聞こえます。自分の苦痛やみじめさに注がれたイエスのあわれみを体験し、イエスに従った人たちの歓声。除け者にされた多くの人から自然にわき上がる喝采と歓声です。「主の名によって来られるかたに、祝福があるように」。尊厳と希望を取り戻してくださったかたを、賛美せずにはいられません。再び信頼と希望をもてるようになった大勢のゆるされた罪人の喜びです。彼らは声を上げます。喜んでいます。喜びです。
 自分は正しい、律法と祭儀規則を「忠実に守っている」と自負する人にとって、声を上げるこの歓喜は厄介な煩わしいもので、ばかげていてありえないものです(ロマーノ・グァルディーニ『主』[The Lord, Chicago, 1959, 365]参照)。痛みや苦しみ、みじめさに対して関心を向けようとしない人にとっては、いまいましい喜びです。いかにも、彼らの多くは「なんて行儀の悪いやつらだ」と思っています。与えられた多くの好機のことを忘れ、記憶にとどめない人にとっては、うっとうしい喜びです。自己を正当化し安定を確保しようとしている人には、神のあわれみに狂喜乱舞することなどありえないのです。自分の力のみに信を置き、他者を見下す人が、この喜びを分かち合うのはいかに難しいことでしょう(使徒的勧告『福音の喜び』94参照)。
 そうして、ためらうことなく怒号を発する人々のどなり声が起こります。「十字架につけろ」。それは自然にわき出たものではなく、嘲笑、誹謗中傷、偽証によって形成され、合成された叫び声です。実際の出来事から報告談へと移行する過程で生じるどよめきであり、うわさが生む声です。事実をねじ曲げて自分に都合のよいように仕立て、そのためならば他の人を「とっちめる」ことなど気にかけない人の声です。それは(捏造された)報告談です。自分の言い分を正当化するためや、異なる考えを黙らせるために、良心のとがめを感じることなく躍起になる人の叫びです。事実に「メイキャップをほどこし」、塗りたくって、イエスの顔をゆがめ「悪党面」に変えるところから生じる声です。自分の立場を守ろうとする人、しかも、自らを擁護するすべのない人の信用を失わせることによってそうする人のがなり声です。自己満足、うぬぼれ、傲慢さによる「策謀」から発せられた叫びです。ちゅうちょせずに「十字架につけろ」と叫びます。
 こうして最後は、群衆の歓迎の声は黙らせられます。希望が砕け、夢は破れ、喜びは奪われます。最後には、心は厚い壁で覆われ、思いやりの心は冷めるのです。連帯の力を弱め、理想をくじき、視界を曇らせようとする「自分を救ってみろ」という声、「ともに苦しむこと」であるあわれみ、神の弱みであるあわれみを、消し去ろうとする声です。
 こうしたわめき声に対する最善の対抗策は、キリストの十字架を見つめ、キリストの最後の声によって自分自身に問いただすことです。イエスはわたしたち一人ひとりに対するご自分の愛を叫んで死なれました。若者、老いた者、聖なる者、罪人への愛。ご自分の同時代の人への愛、そして現代のわたしたちへの愛です。わたしたちはイエスの十字架によって救われました。福音の喜びを消す者などいないようにするためです。だれも、またどんな立場にあっても、御父のいつくしみ深いまなざしから遠く隔てられている人はいません。十字架を見つめることは、自分の所有物、選択、行動について自らに問いただすことです。それは、苦しんできた人、今苦しみにある人々に対して何を感じているかを自らに問うことです。兄弟姉妹の皆さん。わたしたちの心は何を見ていますか。心の中で、イエスが喜びと賛美の源であり続けているでしょうか。それとも、イエスが罪人や虐げられている人、忘れられた人々を優先しておられることを恥じているのでしょうか。
 とくに若者の皆さんに申し上げます。イエスが皆さんの中に呼び覚ます喜びは、一部の人にとっては、怒りやいら立ちの元になることもあります。喜んでいる若者はだましにくいからです。喜んでいる若者を意のままに操るのは難しいのです。
 ですが今日は、三つ目の声が上がる可能性があります。「ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」といった。イエスはお答えになった。「いっておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」」(ルカ19・39―40)。
 若者を黙らせたいというのは、いつの時代にもある誘惑です。ファリサイ派の人々も、イエスを担ぎ出して、彼らをなだめ黙らせるよう求めています。
 若者を黙らせ、目立たなくさせる方法はたくさんあります。若者が「ざわつく」ことがないよう、質問させないよう、議論させないよう、彼らを麻痺させて大人しくさせる方法はいろいろあります。「黙れ」と。若者をかかわらせないよう、彼らの夢が膨らまないようにし、陳腐でさもしいだけの空想にしてしまうよう、彼らを静かにさせる方法は山のようにあるのです。
 世界青年の日を祝う、受難の主日の今日、あの時代のファリサイ派に対してだけでなく、あらゆる時代の、現代のファリサイ派のような者に対してでもあるイエスの答えに、耳を傾けることが大切です。「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」(ルカ19・40)。
 愛する若者の皆さん。叫ぶかどうかは皆さん次第です。金曜日に「十字架につけろ」という者にはならずに、あの日曜日に「ホサナ」と叫ぶ人になるかどうかを決めるのは皆さんです。黙っておかずにいるかを決めるのは皆さんです。たとえ他の人たちがおとなしくしていたとしても、わたしたち年長者や指導者―しょっちゅう堕落していますが―が黙っていたとしても、また全世界が黙り、喜びが失われたとしても、わたしは皆さんに問いかけます。「叫びますか」。
 どうか石が叫びだす前に、決断してください。

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