教皇の日本司牧訪問 教皇の講話 日本司教団との会合 東京・ローマ教皇庁大使館、11月23日

 

日本司教団との会合
東京・ローマ教皇庁大使館、11月23日

 愛する兄弟の皆さん。

 初めに、ごあいさつせずに入ってしまいごめんなさい。わたしたちアルゼンチン人は本当に失礼ですね。すみませんでした。皆さんとご一緒できてうれしいです。日本人は几帳面で働き者だと評判ですが、それを目の当たりにしました。飛行機から教皇が降りると、すぐに動いてくれましたからね。ありがとうございます。
 日本訪問という恵みと皆さんの歓迎を、とてもうれしく思っています。日本のカトリック共同体全体を代表しておことばをくださった髙見大司教様に、とくに感謝いたします。司教様がたとのこの最初の公的な会談の場をお借りして、皆さんの共同体のお一人おひとりすべてのかたに、信徒、カテキスタ、司祭、修道者、奉献生活者、神学生に、ごあいさつしたいと思います。また、新しい天皇の即位と、令和の時代の幕開けという画期におられる、日本のすべてのかたにも、ごあいさつと祈りをお届けしたく思います。
 ご存じかどうか分かりませんが、わたしは若いときから日本に共感と愛着を抱いてきました。日本への宣教の望みを覚えてから長い時間がたち、ようやくそれが実現しました。今日、主はわたしに、皆さんと同席する機会を与えてくださいました。わたしは信仰の偉大な証人たちの足跡をたどる、宣教する巡礼者としてここにおります。聖フランシスコ・ザビエルの日本上陸、すなわち日本におけるキリスト教布教の開始から470年がたちます。彼を記念して、皆さんと心を合わせて主に感謝したいと思います。その感謝は、その後何世紀にもわたって福音の種を蒔き、敬虔さと愛をもって日本の人々に奉仕した、すべての人への感謝です。そのような献身によって、日本の教会は独特の性格を得ました。数知れない試練の中で死に至るまで信仰をあかしした、聖パウロ三木と同志殉教者や福者高山右近のことが思い浮かびます。迫害の中で信仰を守るためのそうした犠牲のおかげで、小さなキリスト教共同体は成長し、堅固になり、実を結んでいます。さらに、長崎の「潜伏キリシタン」のことも思い浮かべてみましょう。彼らは、洗礼と祈りと要理教育を通して、何世代にもわたって信仰を守ってきました。それは、この地に輝く真の家庭教会でした。当人たちは意識せずとも、ナザレの聖家族を映し出していたのです。
 主の道は、主の記憶を生きたものとし続けようとする忠実な民の日常生活において、どのようにご自分の存在が「働く」ようになさるのかを教えてくれます。主は静かなる現存であり、生きた記憶です。それは、聖霊の強さと優しさによって、二人またはそれ以上がご自分の名において集まるところに主がいてくださる(マタイ18・20参照)ことを思い起こさせてくれるものです。皆さんの共同体のDNAには、このあかしが刻まれています。それはどんな絶望にも効く特効薬で、歩むべき道を示してくれます。皆さんは、迫害の中でも主のみ名を呼び、主がいかに自分たちを導かれたかを見つめることで守られてきた、生きている教会です。
 信頼のうちの種蒔き、殉教者のあかし、時が来れば神が与えてくださるはずの実りを待つ忍耐、これらが、日本の文化と共存できた使徒職の様式を特徴づけたものです。その結果、長い年月を経て、日本社会から総じて大変好意的に受け止められている教会の顔が形づくられました。それは、教会が共通善のために多くの貢献をなしたからです。日本の歴史と普遍教会の歴史の中で重要なあの時代は、長崎と天草地方の教会と集落群が世界遺産に登録されたことでも認められています。ですが何より、皆さんの共同体の魂の生きた記憶として、あらゆる福音宣教の豊かな希望として、評価されるものです。
 この司牧訪問は、「すべてのいのちを守るため」というモットーに特徴づけられています。これは、わたしたち司教の奉仕職というものをよく表しています。司教とは、主によってその民の中から呼び出され、すべてのいのちを守ることのできる牧者として民に渡される者です。このことは、わたしたちが目指すべき現場をある程度決定してくれます。
 この国での宣教は、インカルチュレーションと対話を希求するという点が特徴的でした。これによって、西欧で発展したものに対し、新しく独自な数々の様式が展開できたのです。周知のことですが、最初期から、書物、演劇、音楽、あらゆる教材において、大抵日本語が使われました。この事実は、初代の宣教師が日本に対して抱いた愛情を示しています。すべてのいのちを守るとは、まず、じっと見つめるまなざしをもつことです。それによって、神からゆだねられたすべての民のいのちを愛することができ、まさにその民に神から受けたたまものを見いだすのです。「愛されるだけで救われるからです。すがるだけで変えていただけるのです」(「ワールドユースデー・パナマ大会晩の祈りでの講話(2019年1月26日)」)。これが、すべてのいのちを前にして、それを無償のたまものとする姿勢をもつ助けとなる、受肉の行動原理です。それは、妥当であっても副次的な他の考察を超えるものなのです。すべてのいのちを守ることと福音を告げることは、切り離された別のものではなく、また相反するものでもありません。互いに呼び寄せ合い、必要とし合っています。どちらもこの地で、イエスの福音の光に照らされた信じる民の全人的発展を今日妨げうるあらゆることに対して、注意を怠らず監視することを意味します。
 日本の教会は小さく、カトリック信者が少数派であることは知っています。しかしそれが、皆さんの福音宣教の熱意を冷ますようではいけません。日本に固有の状況において、人々に示すべきもっとも強く明白なことばは、普段の生活の中でのつつましいあかしと、他の宗教的伝統との対話です。日本のカトリック信者の半数以上を占める多数の外国人労働者を親切に受け入れ世話することは、日本社会の中で福音のあかしとなるだけでなく、教会があらゆる人に開かれていることの証明にもなります。わたしたちのキリストとのきずなは、他のどんな結びつきやアイデンティティよりも強く、あらゆる現実のもとに届いて触れうるものであることを示すからです。
 殉教者の教会は、より自由に話すことができます。とくに、この世界の平和と正義という緊急の課題に取り組む際にはなおさらです。わたしは明日、長崎と広島を訪問し、この二つの町の被爆者のために祈ります。そして、核兵器廃絶を求める皆さん自身の預言的呼びかけに、わたしも声を重ねます。人類史に残るあの悲劇の傷に今なお苦しんでいる人々、また「(地震、津波、原発事故という)三重の災害」の犠牲者の皆さんにもお会いしたいと思っています。今なお続く彼らの苦しみを見ると、人として、そしてキリスト信者として、わたしたちに課された義務をはっきり自覚させられます。身体や心に苦しみを抱えている人を助け、希望といやしと和解という福音のメッセージを、すべての人に伝えるという義務です。災害は人を選びませんし、身分も問いません。ただ、その激しい破壊力をもって襲いかかります。多くの人命を奪い甚大な損害をもたらした先日の台風もそうです。亡くなったかたがたとそのご家族、自宅や家や財産を失ったすべての人を、主のいつくしみにゆだねましょう。日本と世界で、神からのかけがえのないたまものであるすべてのいのちについて声を上げ、それを守ることを可能にする使命を、臆することなく果たし続けていけますように。
 ですから、皆さんを励ましたいと思います。日本のカトリック共同体の、社会のまっただ中での福音の明快なあかし、それを確実にするよう努力を続けてください。信頼を得ている教会の教育の使徒職は、福音宣教の有効な手段であり、非常に幅広い知的・文化的潮流に関与しています。貢献の質は、当然のことながら、そのアイデンティティと使命とを、どれだけもり立てるかにかかっています。
 わたしたちは、日本の共同体に属する一部の人のいのちを脅かす、さまざまな厄介ごとがあることに気づいています。それらにはいろいろな理由があるものの、孤独、絶望、孤立が際立っています。この国での自殺者やいじめの増加、自分を責めてしまうさまざまな事態は、新たな形態の疎外と心の混迷を生んでいます。それがどれほど人々を、なかでも、若い人たちを苛んでいることでしょう。皆さんにお願いします。若者と彼らの困難に、とくに心を砕いてください。有能さと生産性と成功のみを求める文化が、無償で無私の愛の文化に、「成功した」人だけでなくだれにでも幸福で充実した生活の可能性を差し出せる文化になるよう努めてください。日本の若者は、自分たちの熱意とアイデアとパワーをもって、またよい教育と周囲のよい助けを得て、同時代の仲間にとって大切な希望の源となり、キリストの愛を生き生きとあかしする生きた証人となることができます。ケリグマ(福音の告知)を創造的に、文化に根ざした、創意に富んだしかたで行うなら、それは思いやりに渇く大勢の人に強く響くでしょう。
 収穫は多いけれども働く人は少ないことを知っています。だからこそ、皆さんを励ましたいのです。家庭を巻き込む宣教のしかたを考え、生み出し、促してください。またつねに現実を直視しつつ、人々のもとに、彼らがいる場に届けることのできる養成を促進してください。どんな使徒職の出発点も、人為的に用意された場からではなく、日課や仕事のために人々がいる場から生まれます。その場所に、つまり、町中や仕事場、大学の中にいる人々のもとにまで行って、思いやりとあわれみの福音を携え、わたしたちに任された信者たちに寄り添わなければならないのです。
 皆さんの教会を訪問し、ともに祭儀を行う機会をくださったことに、あらためて感謝いたします。ペトロの後継者は、日本の教会の信仰を強めたいと思っていますが、同時にまた、信仰をあかしした多くの殉教者の足跡に触れ、自身の信仰をも新たにしたいと思っています。主がこの恵みをわたしに与えてくださるようお祈りください。
 主が皆さんと、皆さんを通して、それぞれの共同体を祝福してくださるよう祈ります。どうもありがとう。

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