教皇の日本司牧訪問 教皇のスピーチ 殉教者への表敬 長崎・西坂公園、11月24日

 

殉教者への表敬
長崎・西坂公園、11月24日

 愛する兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

 わたしはこの瞬間を待ちわびていました。わたしは一巡礼者として祈るため、皆さんの信仰を強めるため、また自らのあかしと献身で道を示すこの兄弟たちの信仰によってわたしの信仰が強められるために来ました。歓迎に心から感謝いたします。
 この聖地にいると、はるか昔に殉教したキリスト者の姿と名が浮かんできます。1597年2月5日に殉教したパウロ三木と同志殉教者をはじめ、その苦しみと死によってここを聖なる地とした、あまたの殉教者です。
 まごうことなくこの聖地は、死についてよりも、いのちの勝利について語ります。聖ヨハネ・パウロ二世はこの地を、殉教者の丘としてだけでなく、まことの真福八端の山と考えました。自己中心、安穏、虚栄から解き放たれ、聖霊に満たされた人々のあかしに触れることができる場です(使徒的勧告『喜びに喜べ』65参照)。ここで、迫害と剣に打ち勝った愛のうちに、福音の光が輝いたからです。
 ここは何よりも復活を告げる場所です。あらゆる試練があったとしても、死ではなくいのちに至るのだと、最後には宣言しているからです。わたしたちは死ではなく、全きいのちであるかたに向かって呼ばれているのです。彼らは、そのことを告げ知らせたのです。確かにここには、死と殉教の闇があります。ですが同時に、復活の光も告げ知らされています。殉教者の血は、イエス・キリストがすべての人に、わたしたち皆に与えたいと望む、新しいいのちの種となりました。そのあかしは、わたしたちの信仰を強め、献身と決意を新たにするのを助けてくれます。わたしたちが日々黙々と務める働きによる「殉教」を通して、すべてのいのち、とくにもっとも助けを必要としている人を保護し守る文化のために働くことが身に着いた、宣教する弟子として生きるためです。
 わたしが殉教者にささげられた記念碑の前まで来たのは、このような聖なる人々と会うためです。「地の果て」に生まれた若いイエズス会士の謙虚さに心を重ね、日本の最初の殉教者の歴史に、霊感と刷新の深い泉を見いだしたかったのです。すべてをささげた彼らの愛を忘れないようにしましょう。記念館に丁重に納められ尊ばれる過去の手柄の輝かしい遺物にとどまるのではなく、その愛が、この地で使徒職を生きたすべての人の魂の生きる記憶となり、燃える炎となって、福音宣教の熱い思いを刷新し、絶えることなく燃え立たせてくれますように。今の日本にある教会が、すべての困難と展望を含め、十字架の上から放たれた聖パウロ三木のメッセージに日々耳を傾けるようにとの招きを感じ、道、真理、いのちであるかたの(ヨハネ14・6参照)福音の喜びと美を、すべての人と分かち合えますように。わたしたちに重くのしかかり、謙虚に、自由に、大胆に、思いやりをもって歩むことを妨げるものから、日々解き放たれますように。
 兄弟姉妹の皆さん。この場所から、世界のさまざまな場所で、今日も信仰ゆえに苦しむキリスト者、殉教するキリスト者とも心を合わせましょう。自らのあかしによって21世紀の殉教者たちは、勇気をもって真福八端の道を歩むのかと、わたしたちを問いただしています。彼らのために、彼らとともに祈りましょう。そして、すべての人に、世界の隅々に至るまで、信教の自由が保障されるよう声を上げましょう。また、宗教の名を用いたすべての不正に対しても声を上げましょう。「人間の行動と人類の運命を巧みに操る全体支配主義と分断を掲げる政略、度を超えた利益追求システム、憎悪に拍車をかけるイデオロギー」(「人類の兄弟愛に関する共同文書(2019年2月4日、アブダビ)」)に対して。
 わたしたちの母、殉教者の元后に、そして自らのいのちをもって主の驚きのわざを告げた聖パウロ三木と同志殉教者に取り次ぎを願いましょう。彼らの献身によって、皆さんの国、そして教会全体が、宣教の喜びを呼び覚まし、それを保つことができますように。

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