教皇の日本司牧訪問 ミサ説教(王であるキリストの祭日)長崎県営野球場、11月24日

ミサ説教(王であるキリストの祭日) 長崎県営野球場、11月24日  「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)。  典礼暦最後の主日の今日、イエスとともに十字架につけら […]

ミサ説教(王であるキリストの祭日)
長崎県営野球場、11月24日

 「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)。

 典礼暦最後の主日の今日、イエスとともに十字架につけられ、イエスが王だと気づき、そう宣言した犯罪人の声に、わたしたちも声を合わせます。栄光と勝利には程遠いそのときに、嘲笑と侮辱の声高な叫びの中で、あの盗人は声を上げ、信仰を宣言しました。それは、イエスが聞いた最後のことばであり、そして、ご自分を御父にゆだねる前のイエスの最後のことばがあります。「はっきりいっておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)。盗人の後ろ暗い過去は、一瞬にして新たな意味を得たかのようです。すなわち、主の苦悶にそばで寄り添うということです。その瞬間は、主の生き方を確証づけることにほかなりません。いつどこにおいても、救いは差し出されるのです。カルワリオ、それは無秩序と不正義の場、無力と無理解が、罪なき者の死を前に茶化す者たちの無関心と自己正当化のささやきや陰口と重なる場のことです。それが、この悔い改めた盗人の姿勢によって、全人類にとっての希望という語に変わるのです。苦しむ罪なき人に対しての自分自身を救えというあざけりやわめき声は、最後のことばにはなりません。むしろ、心を動かされるに任せ、歴史を作るまことの形としていつくしみを選ぶ者たちの声を呼び起こすのです。
 今日ここで、わたしたちの信仰と約束を新たにしたいと思います。あの悔い改めた盗人と同じく、わたしたちは、失敗、罪、限界のある自分の過去をよく分かっています。けれどもそれが、わたしたちの現在と未来を既定し、決定づけるものであってほしくはありません。わたしたちは、「自分自身を救ってみろ」と軽々しく無関心にいってしまえる、面倒を避ける空気に染まりがちなことを知っています。多くの罪なき者の苦しみを、ともに背負うことの意味を忘れてしまうことも少なくありません。この国は、人間が手にできる壊滅的な力を経験した数少ない国の一つです。ですからわたしたちは、悔い改めた盗人と同じように、主を、苦しむ罪なき人を弁護し、その人に仕えるために、声を上げ、信仰を表明する瞬間を生きたいのです。主の苦しみに寄り添い、その孤独と放置を支えたいと思います。そして今一度、救いそのものである、御父がわたしたち皆に届けようとするあのことばを聞きましょう。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。
 救いと確信―。それは、聖パウロ三木と同志殉教者、そしてあなたがたの霊的遺産に刻まれた無数の殉教者、彼らがそのいのちをもって勇猛にあかししてきたものです。わたしたちは彼らの足跡に歩みを重ねたいと思います。その歩みと同じく、勇気を携えて信仰を告げるために歩みたいと思います。十字架上のキリストから与えられ、差し出され、約束された愛こそが、あらゆるたぐいの憎しみ、利己心、嘲笑、言い逃れを打ち破るという信仰です。その愛には、よい行動や選択をできなくさせる無意味な悲観主義や、感覚を鈍らせる物的豊かさに、ことごとく勝利する力があります。第二バチカン公会議は、そのことを思い出させてくれました。真理から遠いのは、この世には永遠の都はないといって、来る都を探し求めているつもりで地上での務めをないがしろにし、注意を怠る人です。まさに、告白する同じ信仰で、神に呼ばれた召し出しの崇高さを示し、それが透けて見えるほどにすべきなのです(第二バチカン公会議『現代世界憲章』43参照)。
 わたしたちの信仰は、生きる者たちの神への信仰なのです。キリストは生きておられ、わたしたちの間で働かれ、わたしたち皆をいのちの充満へと導いておられます。キリストは生きておられ、わたしたちに生きる者であってほしいと願っておられるのです。キリストはわたしたちの希望です(使徒的勧告『キリストは生きている』1参照)。わたしたちは毎日こう祈っています。主よ、み国が来ますように。こう祈りながら、自分の生活と活動が、賛美となるよう願っています。宣教する弟子としての使命が、来るべきものの証言者や使者となることならば、わたしたちは、悪や悪行に身を任せてはいられません。反対にその使命は、家庭、職場、社会、どこであれ、置かれた場所で、神の国のパン種になるよう駆り立てるのです。聖霊が人々の間に希望の風として吹き続けるための、小さな通気口となるよう駆り立てるのです。天の国は、わたしたち皆の共通の目的地です。それは、将来のためだけの目標ではありません。それを請い願い、今日それを生きるのです。病気や障害のある人、高齢者や見捨てられた人たち、難民や外国からの労働者、彼らを取り囲んで大抵は黙らせる無関心の脇で、今日それを生きるのです。彼らは皆、わたしたちの王、キリストの生きる秘跡なのです(マタイ25・31―46参照)。なぜなら「もしわたしたちが本当にキリストの観想によって出発したのであれば、あのかたがご自分を重ねたいと望んだ人たちの顔に、あのかたの姿を見いださなければならない」(聖ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『新千年期の初めに』49)からです。
 あの日、カルワリオでは、多くの人が口を閉ざしていました。他の大勢は嘲笑し、盗人の声だけがそれに逆らって、苦しむ罪なきかたを擁護できたのです。それは、勇気ある信仰告白です。わたしたち一人ひとりの決断にかかっています。沈黙か、嘲笑か、あるいは告げ知らせるか。親愛なる兄弟姉妹の皆さん。長崎はその魂に、いやしがたい傷を負っています。その傷は、多くの罪なき者の、筆舌に尽くしがたい苦しみによるしるしです。過去の戦争で踏みにじられた犠牲者、そして今日もなお、さまざまな場所で起きている第三次世界大戦によって苦しんでいる犠牲者です。今ここで、共同の祈りをもって、わたしたちも声を上げましょう。今日、この恐ろしい罪を、身をもって苦しんでいるすべての人のために。そして、あの悔い改めた盗人のように、黙りも嘲笑もせず、むしろ、自ら声を上げ、真理と正義、聖性と恵み、愛と平和のみ国を告げ知らせる者が、もっともっと増えるよう願いましょう。

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