教皇の日本司牧訪問 教皇の講話 東日本大震災被災者との集い 東京・ベルサール半蔵門、11月25日

 

東日本大震災被災者との集い
東京・ベルサール半蔵門、11月25日

 愛する友人の皆さん。

 皆さんとのこの集いは、わたしの日本訪問中の大切なひとときです。アルゼンチンの音楽で迎えてくださり、ありがとうございます。それぞれのこれまでの歩みをわたしたちと分かち合ってくださった、敏子さん、徳雲さん、全生さんに、とくに感謝します。この3名のかた、そして皆さんは、三重災害、つまり地震、津波、原発事故によって言い表せないほどの本当につらい思いをされた、すべての人を代表しておられます。災害は、岩手県、宮城県、福島県だけでなく、日本全土とそこに住む人々に影響を及ぼしました。ご自分のことばと姿で、大勢の人が被った悲しみと痛みを、そして、よりよい未来に広がる希望を伝えてくださり、ありがとうございます。全生さんはご自分の証言を終える際に、わたしに皆さんの祈りに加わってほしいと招いてくださいました。しばらく沈黙の時間を取り、最初のことばとして、1万8千人にも上る亡くなられたかた、ご遺族、いまだ行方の分からないかたのために祈りましょう。わたしたちを一つにし、希望をもって前を見る勇気を与えてくれる祈りをしましょう。
 地方自治体、諸団体、人々の尽力にも感謝します。皆さんは、災害地域の復興に取り組み、また、現在も仮設住宅に避難して自宅に帰ることができずにいる、5万以上もの人の境遇改善に努めておられます。
 とくに感謝したいのは、敏子さんが的確に指摘されたように、日本だけでなく世界中の多くの人が、災害直後に迅速に動いてくれたことです。祈りと物資や財政援助で、被災者を支えてくれました。そのような行動は、時間がたてばなくなったり、最初の衝撃が薄れれば衰えていったりするものであってはなりません。むしろ、長く継続させなければなりません。全生さんの指摘についていえば、被災地の住人には、今はもう忘れられてしまったと感じている人もいます。汚染された田畑や森林、放射線の長期的な影響などで、継続的な問題を突きつけられている人も少なくありません。
 この集いが、集まった全員によって、この惨劇を被った被災者のかたがたが本当に必要とする支援を受け続けていくための、善意のすべての人に訴える呼びかけとなりますように。
 食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です。敏子さんは津波で家を失いましたが、いのちが助かったことをありがたいと思い、助け合うために団結する人を見て希望をもっていると話してくれました。三重災害から8年、日本は、連帯し、根気強く、粘り強く、不屈さをもって、一致団結できる人々であることを示してきました。完全な復興まで先は長いかもしれません。しかし、助け合い、頼り合うために一致できるこの国の人々の魂をもってすれば、必ず果たせます。敏子さんがいわれたように、何もしなければ結果はゼロですが、一歩踏み出せば一歩前に進みます。ですから皆さん、毎日少しずつでも、前に進んでください。連帯と相互の献身に基づく未来を築くための一歩です。皆さんのため、皆さんの子どもや孫のため、そしてこれから生まれてくる次の世代のためです。
 徳雲さんは、わたしたちに影響する別の重要な問題に、どのようにこたえうるかを尋ねられました。ご承知のとおり、戦争、難民、食料、経済格差、環境問題は、それぞれを切り離して判断したり対処したりはできません。今日、問題をより大きなネットワークの一部とみなすことなく、個々別々に扱えると考えるのは大きな間違いです。的確に指摘してくださったように、わたしたちはこの地球の一部であり、環境の一部です。究極的には、すべてが互いに絡み合っているからです。思うに最初の一歩は、天然資源の使用に関して、そしてとくに将来のエネルギー源に関して、勇気ある重大な決断をすることです。無関心と闘う力のある文化を作っていくために、働き、歩むことです。わたしたちにもっとも影響する悪の一つは、無関心の文化です。家族の一人が苦しめば家族全員がともに苦しむという自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です。課題と解決策を総合的に引き受けることのできる唯一のものである、きずなという知恵が培われないかぎり、互いの交わりはかないません。わたしたちは、互いに互いの一部なのです。
 この意味でとくに言及しておきたいのが、福島第一原子力発電所の事故とその余波です。科学的・医学的な懸念に加えて、社会構造を回復するという、途方もない作業もあります。地域コミュニティで社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ、福島の事故は完全には解決されません。これが意味するのは、わたしの兄弟である日本の司教たちがいみじくも指摘した、原子力の継続的な使用に対する懸念であり、それゆえ司教たちは原子力発電所の廃止を求めたのです。
 この時代は、技術の進歩を人間の進歩の尺度にしたいという誘惑を受けています。進歩と発展のこの「技術主義」は、人々の生活と社会の仕組みを形成します。そしてそれは、しばしばわたしたちの社会のあらゆる領域に影響を与える還元主義につながります(回勅『ラウダート・シ』101―114参照)。したがって、このようなときには、立ち止まり、じっくり考え、振り返ってみることが大切です。わたしたちは何者なのか、そしてできればより批判的に、どのような者になりたいのかを省みるのが大事なのです。わたしたちの後に生まれる人々に、どのような世界を残したいですか。何を遺産としたいですか。お年寄りの知恵と経験が、若い人の熱意とやる気とともに、異なるまなざしを培う助けとなってくれます。いのちという贈り物を尊ぶ助けとなるまなざしです。さらに、ユニークで、多民族、多文化である人類家族として、わたしたちの兄弟姉妹との連帯を培うことも助けてくれるのです。
 わたしたちの共通の家の未来について考えるなら、ただただ利己的な決断は下せないこと、わたしたちには未来の世代に対して大きな責任があることに気づかなければなりません。その意味でわたしたちは、控えめで慎ましい生き方を選択することが求められています。それは、向き合うべき緊急事態にこたえた生き方です。敏子さん、徳雲さん、全生さんは、未来のための新たな道を見つける必要をわたしたちに思い出させてくれました。一人ひとりを大切に、そして自然界を大切にする心に基づく道です。この道において「わたしたちは皆、神の道具として、被造界を世話するために、おのおの自身の文化や経験、自発性や才能に応じた協力ができるのです」(同14)。
 愛する兄弟姉妹の皆さん。三重災害後の復興と再建の継続的な仕事においては、多くの手と多くの心を、あたかも一つであるかのように一致させなければなりません。こうして苦しむ被災者は、助けを得て、自分たちが忘れられてはいないと知るはずです。多くの人が、実際に、確実に、被災者の痛みをともに担ってくれていることを、兄弟として助けるために手を差し伸べ続けていることを知るでしょう。あらためて、大げさにではなく飾らない姿勢で、被災者の重荷を和らげようと尽くしたすべての皆さんに、賛美と感謝を申し上げます。そのような思いやりが、すべての人が未来に希望と安定と安心を得るための、歩むべき道のりとなりますように。
 ここにお集まりいただきましたことに、あらためて感謝いたします。わたしのために祈ってください。神様があなたと、あなたの愛する人すべてに、知恵と強い心と平安の祝福を与えてくださいますように。ありがとうございます。

***

(以下の証言は、教皇の講話に先立って行われた)

加藤敏子さんの証言
 わたしは岩手県の宮古市にありますカトリック幼稚園の園長をしております、加藤敏子と申します。
 わたしはあの津波の日、職場におりました。幼稚園から帰宅した女の子が1人亡くなりました。その日から、園長として子どもたちにいのちの尊さ、自分のいのちを守る術を伝えていくこと、そして子どもたちのいのちを守るために最良の選択をしなければいけないことの重さを考え続けています。
 自宅は街ごと津波に呑まれてしまいました。
 津波対策として街を囲むように築かれた防潮堤が壊れました。それは、海外からも視察に来るほど大規模なものでした。人間が知恵や力を尽くして作り上げた人工物は壊され流されてしまいましたが、自然が造ったものは壊れませんでした。人間が自然に対峙するなどできないこと、自然とともに生きる知恵こそ必要だということを学びました。
 その日の朝、家を出るまであった日常が街ごとなくなる、沢山の人が一瞬で亡くなったということをそのまま受け入れることができず、目の前のやるべきことに追われながら、わたしはどこかで考えることをやめてしまったような気がします。がれきの中で自宅のあった場所に立ったとき、生かされていること、生きていること、ただそれだけに感謝することができ、すっきりとした開放感を感じたことを覚えています。
 この震災を通して、失くしたもの以上に与えられたものがたくさんありました。世界中の多くの人たちが心を寄せてくださり、人と人とのつながりで助け合って生きていく姿に希望をもつことができました。
 8年過ぎて、ようやくあのときの前と後を少しずつつなげて考えるようになりました。
 何が大事で、何を守らなければならないか。何もしなければゼロだけど、一歩踏み出せば一歩分だけ前へ進むこと。昨日の続きの今日が重なって、その先の明日へつながっていくことが当たり前ではないことを知らされ、いのちがいちばん大事で、失くしてよいいのちなどないこと。
 今地球上で困難に陥っている小さな人たちのいのちがどうぞ守られますようにと祈りながら、生かされている自分に何ができるかを考え、一つ一つ積み重ねていきたいと思います。

田中徳雲さんの証言
 本日は、このような機会をいただきまして、ありがとうございます。
 わたしの住んでいたところは、地域のシンボル的なお寺です。場所は原発から北西に約17キロのところにあります。
 農業と漁業が中心の、自然豊かなのどかな場所でした。多くの人々は三世代、四世代が同居して住んでおり、先祖から伝わる歴史と文化を大切にしていました。町には1000年続くといわれる神事、相馬馬追いがあります。
 わたしたちは、受け入れがたい厳しい現実の中で、一時は途方に暮れました。しかし、少しずつではありますが、やがて立ち上がり、この現実を受け止め、歩み始めています。そして便利な時代の恩恵を受けて生活してきたこと、つまり被害者ではあるが同時に加害者でもあることを自覚し、反省しています。
 原発の問題のみならず、天変地異や異常気象、海洋汚染などの環境問題、そして戦争、難民、食糧、経済格差や心の荒廃など、多くの問題をいかに自分の問題として捉えることができるか。謙虚さを保ち、正しく理解し、反省すべきところは素直に反省すること。そして何より大切だと思うことは、地球の声を聞くことです。わたしたちは地球の一部、環境の一部です。りんごの木に例えていうならば、一人ひとりが果実だとすると、地球は樹木です。その果実から樹木への意識の目覚めが必要です。樹木こそが、わたしたちの本性です。果実から樹木に意識が覚醒すれば、毛虫が蝶になるように変化が起こり、問題はひとりでに解決されてゆくと思います。
 わたしたちは今、生き方が問われています。
 成長から成熟へ。自らが変化の一部になりましょう。
 ありがとうございました。

鴨下全生さんの証言
 親愛なるパパ様。
 僕は福島県いわき市に生まれました。8歳だったときに原発事故が起きて、被曝を逃れるために東京に避難しました。でも父は、母に僕らを託して、福島へ戻りました。父は教師で、僕らの他にも守るべき生徒たちがいたからです。母は、僕と3歳の弟を連れて、慣れぬ地を転々としながら避難を続けました。弟は寂しさで布団の中で泣きました。僕は避難先でいじめにも遭い、死にたいと思うほどつらい日々が続きました。やがて父も、心と体がボロボロになり、仕事を続けられなくなりました。それでも避難できた僕らは、まだ幸せなのだと思います。
 国は、避難住宅の提供さえも打ち切りました。僕は必死に残留しているけれど、多くの人がやむなく汚染した土地に帰っていきました。でも広く東日本一帯に降り注いだ放射性物質は、8年たった今も放射線を放っています。汚染された大地や森が元どおりになるには、僕の寿命の何倍もの歳月が必要です。だからそこで生きていく僕たちに、大人たちは、汚染も被曝も、これから起きる可能性のある被害も、隠さず伝える責任があると思います。嘘をついたまま、認めないまま、先に死なないでほしいのです。
 原発は国策です。そのため、それを維持したい政府の思惑に沿って賠償額や避難区域の線引きが決められ、被害者の間で分断が生じました。傷ついた人どうしが互いに隣人を憎み合うように仕向けられてしまいました。
 僕たちの苦しみは、とても伝えきれません。だからパパ様、どうかともに祈ってください。僕たちが互いの痛みに気づき、再び隣人を愛せるように。残酷な現実であっても、目を背けない勇気が与えられるように。力をもつ人たちに、悔い改めの勇気が与えられるように。皆でこの被害を乗り越えていけるように。
 そして、僕らの未来から被曝の脅威をなくすため、世界中の人が動き出せるように、どうかともに祈ってください。

PAGE TOP