教皇の日本司牧訪問 教皇の講話 青年との集い 東京カテドラル聖マリア大聖堂、11月25日

 

青年との集い
東京カテドラル聖マリア大聖堂、11月25日

 愛する若者の皆さん。

 ここに集まってくれてありがとう。皆さんのパワーと熱意を見て、聞いて、喜びと希望がわきました。本当にありがとう。そしてレオナルドさん、未希さん、雅子さん、証言に感謝します。あなたたちがしてくれたように、心の中のものを分かち合うのは、大変勇気がいることです。3人の声に、ここにいる多くの仲間も共感したはずです。ありがとう。皆さんの中には、ほかの国から来た若者もいるでしょう。中には、避難してきたかたもいることでしょう。さあ、わたしたちが望む未来の社会を、一緒に作り上げることを学んでいきましょう。
 皆さんを見ると、今日の日本に生きる若者は、文化的および宗教的に多様であることが分かります。それこそが、皆さんの世代が未来にも手渡せる美しさです。皆さんの間にある友情と、この場にいる一人ひとりの存在が、未来はモノトーンではなく、各人による多種多様な貢献によって実現するものだということを、すべての人に思い起こさせてくれます。わたしたち人類家族にとって、皆が同じようになるのではなく、調和と平和のうちに共存すべきだと学ぶことが、どれほど必要でしょうか。わたしたちは、工場での大量生産によって作られたのではないのです。だれもが、両親や家族の愛から生まれたのです。だからこそ、皆、違うのです。だれもが、分かち合うべき、自分の物語をもっているのです。(翻訳されていないことを話すときは、彼[通訳のレンゾ神父]が訳してくれます。いいですか)友情をはぐくみ、ほかの人を気にかけ、異なる経験や見方を尊重すること、それがどれほど必要でしょうか。この集いはお祭りです。出会いの文化は夢物語ではなく可能なもので、若者の皆さんには、それを実現していく特別な感性があるという話をしているからです。
 3人が投げかけてくれた質問に感銘を受けました。皆さんの具体的な経験と、将来への希望と夢を映し出しているからです。
 レオナルドさん。あなたが苦しんだいじめと差別の経験を、分かち合ってくれてありがとう。より多くの若者が、あなたのような経験について勇気をもって話すことの大切さに気づくでしょう。わたしの時代、わたしが若かったころは、レオナルドさんが話したようなことは決して口にしませんでした。学校でのいじめが本当に残酷なのは、自分自身を受け入れ、人生の新しい挑戦に立ち向かうための力をいちばん必要とするときに、精神と自尊心が傷つけられるからです。いじめの被害者が、「たやすい」標的なのだと自分を責めることも珍しくありません。敗け組だ、弱いのだ、価値がない、そんな気持ちになり、とてつもなくつらい状況に追い込まれてしまいます。「こんな自分じゃなかったなら……」と。けれども反対なのです。いじめる側こそ、本当は弱虫です。他者を傷つけることで、自分のアイデンティティを肯定できると考えるからです。自分とは違うとみなすや攻撃することもあります。違いは脅威だと思うからです。実は、いじめる人たちこそがおびえていて、見せかけの強さで装うのです。これについて―よく聞いてください―自分がほかの人を傷つけたくなったり、だれかがほかの人をいじめようとしていると感じたり、そう見えたりしたなら、その人こそ弱虫なのです。いじめられる側は弱虫ではありません。弱者をいじめる側こそ弱いのです。自分を大きく強く見せたがるからです。自分は大した存在なのだと実感したくて、大きく見せて強がる必要があるのです。先ほど(訳注:証言の後に教皇がことばをかけた際)レオナルドさんに「太っているといわれたなら、やせている君よりはましだよ、といったらいい」と教えました。わたしたち皆で、この「いじめ」の文化に対して力を合わせ、この「いじめ」の文化に対してともに力を合わせ、はっきりという必要があります。「もうやめよう!」。この疫病に対して使える最良の薬は、皆さん自身です。学校や大人がこの悲劇を防ぐために尽くす手立てだけでは足りません。皆さんの間で、友人どうしで仲間どうしで、「絶対だめ」、「いじめはだめ」、「ほかの人への攻撃はだめ」といわなければなりません。「それは間違っている」といわなければいけません。クラスメイトや友人の間でともに「立ち上がる」こと以上に、いじめに対抗する強力な武器はありません。そしていうのです。「あなたがしているのは、「いじめ」は、とてもひどいことだよ」と。
 「いじめ」る人は臆病者です。恐れは、つねに善の敵です。愛と平和の敵だからです。優れた宗教は、それぞれの人が実践している宗教はどれも、寛容を教え、調和を教え、いつくしみを教えます。宗教は、恐怖、分断、対立を教えません。わたしたちキリスト者は、恐れることはないと弟子たちにいわれるイエスに耳を傾けます。どうしてでしょうか。わたしたちが神とともにおり、神とともに兄弟姉妹を愛するならば、その愛は恐れを吹き飛ばすからです(一ヨハネ4・18参照)。レオナルドさんがはっきりと思い出させてくれたように、イエスの生き方を見ることで、わたしたちの多くは慰めを得られるのです。イエスご自身も、侮蔑され、拒絶され、さらには十字架につけられる意味までも知っていたからです。また、よそ者、避難民、ほかとは「違う」者であるとはどういうことかを知っていました。ある意味で―キリスト者の人と、そうでない人に向けてここではお話ししていますが、信仰の手本として理解してください―イエスこそ、究極の「隅に追いやられた人」であり、与えるためのいのちに満ちた、隅に追いやられた人だったのです。レオナルドさん。自分にないものばかりに目を向けることもできますが、自分が与え、差し出すことのできる人生を見いだすこともできます。世界はあなたを必要としている、それを決して忘れないでください。主は、あなたを必要としています。今日、起き上がるのに手を貸してほしいと求めている多くの人に、勇気を与えるために、主はあなたを必要としておられるのです。人生に役立つことを一つ、皆さんに話したいと思います。人を軽んじ蔑むとは、上からその人を見下げることです。つまり、自分が上で、相手が下だと。相手を上から下へ見てよい唯一正当な場合は、相手を起き上がらせるために手を貸すときです。わたしも含め、この中にいるだれかが、だれかを軽んじて見下すなら、その人はどうしようもない奴です。でも、この中のだれかが、手を差し伸べ起き上がらせるために、下にいる人を見るのなら、その人は立派です。だから、だれかを上から下へ見るとき、心に聞いてみてください。自分の手はどこにあるか。後ろに隠しているだろうか。それとも立ち上がらせるために差し伸べているか、と。そうすれば幸せになります。分かりましたか。いいですか、分かりましたか。分かりませんでしたか。しんとしていますね。
 それには、とても大切なのにあまり評価されていない資質を向上させることが求められます。他者のために時間を割き、耳を傾け、共感し、理解するという能力です。それがあって初めて、自分のこれまでの人生と傷が、わたしたちを新たにし周囲の世界を変え始めることのできる愛へと開かれるのです。人のために時間を割かず費やさず、「時間を浮かせ」ても、多くのことに時間が奪われ、1日が終わると空虚でくらくらしてしまう―わたしの国では、吐きそうなほどお腹いっぱいに用事を詰め込む、という言い方をします―のです。ですから、家族のために時間を取ってください。友人のために時間を取ってください。でもそれだけでなく、神のためにも、祈りと黙想をもって―各自、自分の信仰に従って……。そうするのが難しいときも祈ってください。あきらめてはいけません。かつて、ある思慮深い霊的指導者がいいました。祈りとは基本的に、ただそこに身を置いているということだと。心を落ち着け、神が入ってくるための時間を作り、神に見つめてもらいなさい。神はきっと、あなたを平和で満たしてくださるでしょう。
 これはまさに、未希さんが語ろうとしたことです。彼女は、競争力、生産性ばかりが注目される慌ただしい社会で、若者がどのように神のために時間を割くことができるかを尋ねました。個人や共同体、あるいは社会全体でさえ、外的に高度に発展しても、内的生活は貧しく委縮し、熱意も活力も失っていることがよくあります。中身のない、お人形さんのようになるのです。すべてに退屈しています。夢を見ない若者がいます。夢を見ない若者は悲惨です。夢を見るための時間も、神が入る余地もなく、ワクワクする余裕もない人は、そうして、豊かな人生が味わえなくなるのです。笑うこと、楽しむことを忘れた人たちがいます。すごいと思ったり、驚いたりする感性を失った人たちがいます。ゾンビのように心の鼓動が止まってしまった人たちです。なぜでしょうか。他者との人生を喜べないからです。聞いてください。あなたたちは幸せになります。ほかの人といのちを祝う力を保ち続けるならば、あなたたちは豊かになります。世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人がなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔の見えないことがほとんどな社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います。貧しい人々の中でも、もっとも貧しい人々の中で働いていたマザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことをいっています。「孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です」。心に聞いてみたらいいと思います。「自分にとって、最悪と思う貧しさは何だろう。自分にとっていちばんの貧しさは何だろうか」。正直であれば気づくでしょう。わたしたちが抱えうる最大の貧しさは孤独であり、愛されていないと感じることだと。分かりましたか。わたしの話はつまらない?(若者たちは「ノー」と返答)もう少しで終わります。
 この霊的な貧困との闘いは、わたしたち全員に呼びかけられている挑戦であり、あなたがた若者には特別な役割があります。それはわたしたちの優先事項に、わたしたちの選択に、大幅な変更を要求するからです。もっとも重要なことは、何を手にしたか、これから手にできるかという点にあるのではなく、それをだれと共有するのかという点にあると知ることです。何のために生きているかに焦点を当てて考えるのは、それほど大切ではありません。肝心なのは、だれのために生きているのかということです。次の問いを問うことを習慣としてください。「何のために生きているかではなく、だれのために生きているのか。だれと、人生を共有しているのか」と。事も大切ですが、人は欠けてはならないものです。人間不在なら、わたしたちは人間らしさを失い、顔も名もない存在になり、結局はただの物、いくら最高級でも、ただの物でしかないのです。いくら最高の品でも、それは単なる物です。けれどもわたしたちは物ではありません。人間なのです。シラ書には、「誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ」(シラ6・14)とあります。だからこそ、いつも次のように問うことが大事なのです。「わたしはだれのためにあるのか。あなたが存在しているのは神のためで、それは間違いありません。ですが神はあなたに、他者のためにも存在してほしいと望んでおられます。神はあなたの中に、たくさんの資質、好み、たまもの、カリスマを置かれましたが、それらはあなたのためというよりも、他者のためのものなのです」(使徒的勧告『キリストは生きている』286)。他者と共有するため、ただ生きるのではなく、人生を共有するためです。人生を共有してください。
 そしてこれこそが、あなたがたがこの世界に差し出すことのできる、すばらしいものなのです。若者は、この世界に何かを差し出さなければなりません。社会における友情、あなたがたの間の友情をあかししてください。友情は可能です。それは、出会いの文化、受容、友愛、そして一人ひとりの尊厳、とりわけ、もっと愛され理解されることを必要としている人の尊厳に対する敬意、それらを基盤とした未来への希望です。攻撃したり軽蔑したりすることなく、他者のもつ豊かさを評価することを身に着けるのです。
 わたしたちの助けとなる考え方があります。身体を生かすには、呼吸をしなければいけません。意識せず行っていることです。だれもが無意識に呼吸しています。本当の意味で充実して生きるには、霊的な呼吸も覚える必要があります。祈りと黙想を通して、心の動きを通してわたしたちに語りかける神に、耳を傾けることができます。また、愛のわざ、奉仕のわざによって他者にかかわる、外的な運動も必要です。この内的外的な動きによってわたしたちは成長し、神はわたしたちを愛しているだけでなく、わたしたち一人ひとりに使命を、固有の召命を託しているのだと気づくことができます。それを知れば知るほど、他者に、それも具体的な人々に、自分を差し出すまでになるのです。
 雅子さんは、自身の学生時代と教師としての経験から、そうしたことについて話してくれました。若者が、自分のよさや価値に気づくには、どのような助けを与えたらよいかを尋ねてくれました。もう一度繰り返しますが、成長するには、自分らしさ、自分のよさ、自分の内面の美しさを知るには、鏡を見てもしかたありません。さまざまな発明がありますが、ありがたいことに、まだ魂のセルフィーはできません。幸せになるには、ほかの人の助けが必要です。写真をだれかに撮ってもらわないといけません。つまり、自分の中にこもらずに、ほかの人、とくに、もっとも困窮する人のもとへと出向くことです(同171参照)。皆さんに一ついいたいことがあります。自分のことを見過ぎないでください。鏡ばかりを見ないでください。見つめ過ぎて、鏡が割れてしまう危険がありますからね。もうすぐ話は終わります。もう時間ですね。ともかく、とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、しばしばひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民のかたが、ここでわたしたちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、あかしになります。なぜなら多くの人にとってはよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです。
 かつて、賢い教師がいっていました。知恵を培うための鍵は、正しい答えを得ることよりも、正しい問いを見いだすことにあると。それぞれで考えてください。「答えられるだろうか。ちゃんと答えられるだろうか。正解できるだろうか」。はい、と答える人がいれば、それはそれはおめでとうございます。でも、また別の問いを考えてみてください。「正しい質問ができるだろうか。人生について、自分自身について、他者について、神について、途切れることなくそうした問いへと導く心があるだろうか」と。正解すれば試験には合格しますが、正しい質問がなければ、人生の試験には合格しません。皆が雅子さんのように教職に就いているわけではありませんが、皆さんにも期待しています。次世代のためによりよい未来をどうやって築くか、あるいは人生の意味について、もっとも優れた問いを自らに向けられるように、突き詰められるように、そしてまた、それをする他者を助けられるようになってください。
 愛する若者の皆さん。熱心に聞いてくれてありがとう。皆さんが割いてくれたこの時間のすべてに、そして皆さんの人生の一部を共有できたことに感謝します。夢を黙殺しないでください。夢をごまかさないでください。夢見る余裕をもってください。視野を広げ、広い地平を目指すことに熱意を燃やして、待っている未来を見つめ、ともに夢を実現する熱意をもちましょう。日本にはあなたがたが必要であり、世界にもまた、自覚をもった、目覚めている皆さんが必要です。寛大な、明るい、情熱的な、皆のための家を築く力をもつあなたがたが必要なのです。皆さんが霊的な知恵をはぐくみ、正しい質問をすることを覚えることで、鏡を見るのを忘れ、他者の目を見ることを覚えられるよう、祈ることを約束します。
 皆さんと、皆さんのご家族とご友人に、豊かな幸せを願いつつ、わたしの祝福を送ります。そしてわたしにも幸せを願い、皆さんの祝福を送ってくださることを忘れないでください。
 本当にありがとう。

***

(以下の証言は、教皇の講話に先立って行われた)

小林未希さんの証言
 日本のカトリックの青年を代表してごあいさつする機会をいただき、とても光栄に思います。教皇様とは直接英語でお話ししたかったのですが、ここにいる皆さんにも聞いていただきたく、日本語でお話しすることをお許しください。
 今の日本は生産性を重視する社会で、とても忙しいように感じます。残念ながらこうした日本において、立ち止まって振り返り、ただ祈るということに価値を置く人はほとんどいないと思います。しかし、少しの間日常から離れ、神様のもとで1週間を振り返り、祈り、また神様とともに日々の生活を送る、という日常と非日常の往復は、現代を生きるうえで必要だと感じています。以前東ティモールの学校へ行ったとき、毎晩ミサにあずかり、静かに祈り、聖堂に響きわたる声で歌っていた生徒の姿を見て、自然と神様とともに生きている姿が美しいと感じました。この日常と非日常の往復があることで日常をより豊かに生きることができると思います。変化の速い世の中でも思考停止に陥らず、考え、神様に判断基準を置いて生きることができます。
 今の日本はある意味豊かな世の中です。いのちの危険を感じることはほとんどなく、何かを信じなくても生きていける世の中かもしれません。こうした環境で青年は、何を通して神様に出会っていくのでしょうか。出会う場所があるのでしょうか。
 満天の星を見て、神様の偉大さやここに神様がいるという幸せを感じると同時に、自分の無力さに気づかされる機会も、余裕がないために失われているかもしれません。信仰について語り、深め合うことができる仲間が周りにはいないかもしれません。神様を信じることがマイノリティである日本において、日々の生活の中で信仰をもって生きる人の姿を見ることが難しければ、信仰をもって生きる意味を見いだすことはできないかもしれません。信仰をもって生きるあこがれの姿、モデルが見つからないことは残念なことです。
 大阪の釜ヶ崎には、人々からは邪魔者扱いをされ、社会サービスを享受できていない日雇い労働者がいます。また外国からの技能実習生は、一部では使い捨ての労働力のように扱われ、搾取されています。
 こうしたところに、教会だからこそ果たせる役割があるのではないでしょうか。神様のものさしは、社会のものさしやわたしたちの価値基準とは異なります。一人ひとりを大切にする視点があるはずです。教会は外に出て行くことで初めて生きたものとなるのではないでしょうか。そして教会に集う人たちもまた、信仰をもって社会の中で生きていくことが求められていると思います。
 日本は豊かな国だと申しましたが、もちろん課題も多く存在します。今後グローバル化によって、さらにさまざまな背景をもつ人が住む世の中になります。こうした日本社会の中で、教会がどのような役割を果たし、青年はどのように神様と出会って生きていくのか、これらについてのお考えをお伺いしたいと思います。

工藤雅子さんの証言
 本日はとても貴重な機会をいただき、ありがとうございます。
 わたしは今、中学校の教員として、保健体育を教えています。
 教育実習のとき、毎日、生徒38名全員と一緒に、心と足を揃えて、大ムカデの競争の練習に励みました。このとき、仲間と夢中になれること、努力することのすばらしさを感じ、生徒とともにわたしも成長することができました。こうして教員の道に進む決意ができました。
 しかし、教員への道は甘くありませんでした。このときばかりは、それまで毎日できなかった朝夕のご供養(祈り)を実践し、周りのかたの助けや励みをいただきながら、おかげさまで無事に試験に合格することができました。そして、目指していた今の職業に就くことができました。
 日本ではいじめや自殺のニュースが絶えず、生徒たちは、友人関係のトラブル、教師や学校に対する不安等を抱えています。そして、携帯電話やパソコン、ゲーム機などの普及によって、友達と語り合ったり、競い合ったりすることを億劫に感じ、一人殻にこもっている生徒が多いと感じています。
 わたしの学校にも、他者と比較し、劣等感や優越感を感じ、自分を好きになれない、自己肯定感が低い、その一方で、他者の努力を、成果を認められず、ひがむ心が沸いてしまう、そんな子どもたちがいるように感じます。朝、どんよりした表情の生徒に声をかけてみると「親と喧嘩した。わたしを邪魔もの扱いした」「兄弟と比べられた」等のことばが出てきました。成績のよい人に対して、「どうせあの子は頭の出来が違うんだ」「先生にいい顔をしているんだ」と、だれかと比べ、攻撃的になっています。
 それは、同時にわたしの姿でした。わたしも自分を兄や他者と比べ、だれよりも優れていたい、認められていたいと思っている自分がいました。
 生徒の気持ちが分かる一方で、教員として、生徒の話を聞く他に、どのようにかかわったらよいのでしょうか。
 教皇様、どうぞご指導のほうをよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

レオナルド・カチュエラさんの証言
 僕は両親が二人ともフィリピン人で、フィリピンに生まれて、小学校4年生のころに日本に移住しました。僕たちにとって、ほかの国で生活するというのはとても大変でした。ことばもまったく話せないし、文化や習慣の違いもありました。その中で僕がもっとも苦しんだのはいじめの問題です。
 僕が小中学生の時、同じクラスの男子にいじめられていました。「外国人だからダメ」「でぶ」「キモい」と、聞こえるように小声でいわれ、目が合うだけで嘲笑され、いつの間にか笑えなくなり、毎日〝消えたい〟と思うようになりました。
 陰口に気づいてからは、毎日人の目線が気になりました。その場にいるだけで、生きていることを否定され続けている気分しかありませんでした。暴力を振るわれたことはなかったが、ことばが、視線が、表情が、見えない圧迫感が、僕を追い詰めていきました。学校では一人でいる時間が増え、ほかの人たちとも距離ができてしまいました。休み時間などに、友達があまりいないため、他のグループに入ろうとすると、みんなが僕を避けるような感じで、離れていきました。これが毎日続き、学校に行くのが嫌になって、1週間ほど学校に行けない時期もありました。この毎日がとてもつらくて、何回か自殺をしようかと考えたこともありました。
 だけど、その中で教会の人やイエス様のことばに何度も救われました。日曜日に教会に行って、すごく気持ちが楽になるときもありました。教会の神父さんやリーダー、仲間たちからの優しいことばや、イエス様に教わったこと、聖書の中でも「恐れてはならない、わたしはあなたとともにいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」ということばが僕をすごく支えてくれました。
 今、いじめは日本だけではなく、世界のいろいろな場所で大きな問題となっています。また、いじめに会う場所は、学校などの現実社会からネット社会にまで広がっています。ただ「幸せに生きたい」というだけなのに、生き抜くことができない人たちがたくさんいます。
 教皇様、教えてください。この世界に広がる差別やいじめの問題に、わたしたちはどのように向き合っていったらいいのでしょうか。

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