「カトリック情報ハンドブック2019」巻頭特集

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「カトリック情報ハンドブック2019」
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【ページ内目次】
特集1 中浦ジュリアンと千々石ミゲル―長崎でゆかりの地をめぐる
特集2 奉仕者が知っておきたい「新しい『ローマ・ミサ典礼書の総則』に基づく変更箇所」

特集1 中浦ジュリアンと千々石ミゲル―長崎でゆかりの地をめぐる
カトリック中央協議会出版部・編

 本特集では、1582年2月に長崎を出港して3年後にローマに至り、出国から約8年半を経た1590年夏に長崎に戻った天正少年使節のうち、帰国後の生き方が対照的な2人を中心に、長崎県内のゆかりの地を紹介する。
 この両者を取り上げるには、それぞれに理由がある。
 まず中浦ジュリアンについては、本年(2018年)が、ペトロ岐部と187殉教者列福から10年にあたるということ。いうまでもなく、ジュリアンはこの188殉教者の一人である。
 一方千々石ミゲルについては、2014年から始まり3回にわたって行われた、彼の墓だとされる石碑下の発掘調査において、2017年夏に、木棺やガラス玉といったものが発掘され大きな成果を上げたことに触発された。この発見によって、ミゲルの後半生についての理解が大きく変わるのではないかという期待が高まった。
 通説では、ミゲルは棄教したとされている。本稿は、その通説に対する批判や新たな説の開陳を目的とするわけではないが、筆者の感想や、許される範囲と思われる推測・想像については述べさせていただく。
 また、殉教者である福者と棄教したとされる者、それぞれの生き様を比較しようなどという意図はまったくない。多くの資料の助けを借りながら史跡等の概略や背景を紹介し、筆者が得た印象を綴っていく。
 また本稿では、本書2016年版の巻頭特集「キリシタン史跡をめぐる――九州編③」では取り上げることのできなかった長崎県内の史跡を中心に紹介するので、ささやかではあるが、その補遺の役割を果たせればと思っている。

 7月3日(火)
 大変な日に出発することになってしまった。
 午前3時に始まったサッカーのW杯決勝トーナメント1回戦、日本VSベルギーをテレビ観戦しているときには、この日に長崎空港へと向かう飛行機は全便欠航であることがすでに分かっていた。台風7号の影響である。
 天候だけは致し方ない。東京駅で8時半発の、のぞみ17号・博多行に乗車した。博多から特急かもめに乗り換えて、長崎に入るつもりである。だが、東京駅で尋ねたところ、かもめにも一部運休が出ているとのことで、先行き不透明な旅立ちとなった。
 新幹線はほぼ予定どおり、約5時間後には博多に着いたが、かもめは佐賀より先は運休になっているとのことで、長崎までノンストップの高速バスに乗り込んだ。
 乗車時に、場合によっては先に進むのをあきらめ、途中下車してもらう可能性もあるとのインフォメーションがあった。実際、大村近辺では、高速の外の景色がまったく見えないほどの豪雨で、ここで降ろされたらどうしようといささか不安も覚えたが、何とか松山町(浦上教会そばのバス停)まで到着できた。
 雨はいまだ強く降っているが、強風が吹き荒れているので傘がさせない。身体を曲げて頭で雨風を受けながらトランクを引っ張り、ホテルのロビーに駆け込んだ。
 結局この日は、長崎に着くことができただけで、それ以上のことは何ら果たせなかった。計画を組み立て直し、翌朝晴れ間が広がることを祈りつつ、早々に就寝した。
 7月4日(水)
 起床時にはまだ一面の曇り空だったが、徐々に青空が勝ってき、やがては台風一過らしい晴れ間となった。ホテルの窓から見上げる空に、日中の気温上昇が予感される。テレビのニュースは台風の被害を伝えている。市内でも、街路樹が根こそぎ倒されたところがあるほどだ。また、台風とは別に、前線の影響で、北海道では大雨の被害が発生している。
 関東ではすでに梅雨明けが宣言されていたが、西日本はまだだった。梅雨が明ける前に発生した台風が上陸するなど、かつてはほとんどなかったと思う。専門的なことは分からないが、地球温暖化の影響はこうしたことにも表れているのだろう。
 9時にMさんと待ち合わせる。今日は終日、Mさんの運転で島原半島を回る。初対面の人と接するのは得意ではないのだが、大柄な体型ながらも終始にこやかにしておられるMさんには、同世代ということもあって、最初から緊張を覚えることがなかった。仕事ではありながらも、最後まで愉快な時間を過ごさせていただいた。
 実は今回、2016年版特集の取材でお世話になったCさんに、また同行をお願いしていた。しかし、当人は非常に残念がっていたのだが、Cさんのほうに如何ともしがたい事情が生じ、出発の半月ほど前にキャンセルということになってしまった(しかしながら、ありがたいことに、今回の日程中Cさんはとても心配して何度もメールをくださり、新幹線乗車中にも、特急がだめなら高速バスがあるといったアドバイスまでくださった)。そこで、2016年までカトリック中央協議会で出版部長を務めておられた長崎教区の嘉松宏樹師に急遽相談し、Mさんを紹介していただいたのである。
 諫早までは高速で、以降は国道57号(島原街道)を進み、50分ほどで千々石に入り、最初の目的地である専照寺に向かう。千々石第一小学校の裏手、静かに広がる田園風景の中にひっそりと建つ古刹である。門前の道路からは、彼方に輝く橘湾が望まれる。昨日からは一転して、青空が眩しい。
専照寺山門

専照寺山門

 ごく最近建て替えられたと思われる山門(以前の山門を写真で見たが、古びた佇まいに実に味がある。いささか残念であった)をくぐると左手に、獅子口というのだろうか、過去の本堂のものであろう棟飾りの大きな瓦が置いてある。
 本堂左右には、見事なイチョウの大木が天を衝いている。陽の光を浴びて青葉が輝いているが、地面に目を移すと、台風で引きちぎられた葉とともに、緑の丸い実が無数に転がっている。時期が早いようにも思うが、熟す前の銀杏だろうか。
 本堂裏手に回り、幾棟かの住宅の向こうに山並みを眺めていると、カエルの元気のよい声が盛んに耳に届く。だが聞こえる音は、ただそれだけ。生活音もいっさい聞かれない。小学校から響く歓声もない。
 ここはコレジヨの跡地と推定されているのだが、それについての案内文が掲げられているわけでも、碑が建っているわけでもない。ただ、その知識をもってこの地に立てば、迫害の中で各地を転々としたコレジヨが、ここでは1年も営まれずに有家へと移り、そしてその跡地に仏寺が建っている―そのことが何を意味するのかをあれこれ考えさせられる。現地を訪れるということには、そういった意味がある。単に何かを見るだけではないのだ。足を向けること、そこに立つこと、それ自体が思いをはせる糸口になる。
 次は、2016年版特集でも紹介した、雲仙市役所千々石支所駐車場に建つ千々石ミゲルの像を訪う。
千々石ミゲル像

千々石ミゲル像

 台座には「至純の人 千々石ミゲル」、そう刻まれている。続く解説には、帰国後の彼について「1591年、京都の聚楽第で豊臣秀吉に謁し、同年天草でイエズス会に入会、イルマンとなった。ほどなくして、ミゲルはイエズス会を脱会。1606年棄教した」と記されている。さらに「今日、なお後世の人々をして、千々石清左衛門の波瀾に富んだ生涯に、最も共鳴を抱かせるゆえんは、彼の至純な人間的生き方に対する景仰心の表れとも言える」との頌詞が続く。
 前にも書いたのだが、このミゲルを称えることばには、少々辟易してしまう。あまりにも浮かれたことばで、はっきりいって空疎だ。考えるべきは彼の内的苦悩であるのに、それを「波瀾に富んだ生涯」などという通り一遍なことばで表現していることに甚だしく違和感を覚える。
 しかし、それはともかく、「1606年棄教した」と、ここではその年も含めて断言している。1606年というのは大村喜前が棄教した年で、この主人に従ってミゲルも信仰を捨てたと考えるのが通説であるからだ。
 ミゲルの棄教について自分なりに想像をめぐらせてみたいというのは、今回のテーマの一つである。わたしは以前からミゲルの棄教について、彼の複雑な胸の内をあれこれと思ってきた。そして冒頭にも述べたが、彼の墓と推定される碑の発掘調査で、信心用具の可能性があるガラス玉が出土したことなどから、ミゲルはイエズス会脱会後も生涯にわたってキリスト教信仰を保ち続けたのではないかという理解の可能性も高まった。報道に接しながら、何か決定的な大発見があるかもしれないと、わたしも胸高鳴らせていた。
 しかし、出土品をもってすべてが明らかになるわけではなく、もちろん、確定的なことは何もいえない。信仰は、その人の心深くの問題だからである。ただ、こうした研究が、通説に一石を投じ、異なる理解の可能性を示唆することは間違いない。
 往復8年半もの歳月を費やして、それこそいのちがけでローマまで行き帰国を果たしたミゲルが、使節の正使の一人であったことへの高い誇りをもっていたことは間違いないと思う。そして帰国後に、母親の強固な反対(千々石家にとってミゲルはただ一人の跡取りであった)を押し切ってイエズス会に入会し司祭叙階を目指したのだから、脱会の理由が中途半端なものであるはずがない。その理由をマカオ留学のメンバーに選ばれなかったことに求める説を幾人かの人が唱えている。それに対して批判的見解を加えられるわけではないが、強い矜持がために深く自尊心を傷つけられたということは考えられるとしても、ただそれだけのことで、後足で砂をかけるがごとくミゲルが会を去ったとは、そして、深く自分を愛してくれた恩師ヴァリニャーノを裏切るとは、わたしにはどうしても考えられないのである。要するに、腑に落ちてくれない。
 一方、日本側の史料『伴天連記』には、ミゲルについて「エキレンジャのユルマンして居たりしを、伴天連を少うらむる子細有て、寺を出る」との記述がある。「伴天連を少うらむる子細」とは、一体なんだったのだろうか。
 また、メスキータのアクアヴィヴァ総長あての書簡(1607年11月3日)には「これほど叙階が遅れていれば、ヨーロッパ人と同じように彼らもやはりそれを悲しんでいますが、ただそれを謙虚に愛情を示しながら上長に打ち明けます。千々石ミゲル以外にはこの理由で脱落した日本人がいないことは、私に大きな教化を与えました。千々石も、もし適当な時機に応用倫理学を学んでいたら、いま大村のキリシタンにこれほど大きな害を与えている事態には至らなかったでしょう。綱を強く引くことは良いが、切れるほど引きすぎてはなりません」(結城了悟『天正少年使節――史料と研究』)とある。これをそのままに理解すれば、日本人をなかなか司祭叙階しようとしない宣教師たちへの反発ゆえに脱会したということになる。『伴天連記』にある「伴天連を少うらむる子細」をこのこととして理解することもできよう。
 確かに当時、日本人に対しては司祭叙階へのハードルを上げる向きがあったことは事実である。そこにミゲルの自尊心を重ね合わせるなら、脱会の理由として理解できないこともない。だがこれにしても、「いつまでも叙階させないならやめてやる」といった理解は、単純すぎるように思えてならない。彼の内面は、そんな紋切り型の理解が成立するようなものだったのだろうか。いのちを賭した旅を経た男は、もっと強い存在なのではないか――そうどうしても考えてしまうのだ。冒険も努力もせずにちっぽけな矜持に齧りついているようなつまらない人間と同じであるはずがないと――。
 旅は人間を鍛える。ましてやミゲルが経験したのは、いのちの保証のまったくない、死ぬのが普通といってもいいくらいの旅なのだ。
 素人の空想に過ぎない浅い考えを、くどくどと述べすぎただろうか。しかし、イエズス会脱会の理由を何に求めるかによって、彼の棄教の理由、あるいはそれが本当に棄教であったのかについての理解が変わってくるように思うのだ。主人に従って教えを棄てた、その通説を超えた別の選択肢が見えてくるかもしれない。これについては、史料を紹介しつつ、追々考えていくつもりである。
 逆光なので写真が撮りにくい。だが、午前の透明な陽を浴びて、素焼きのような茶色い像が輝くかに見える。思春期の、まさに微妙な年齢の、気負いも怯えも恥じらいも含んだかの表情が初々しい。この表情が伝えるものを、台座の文章も率直に伝えればいいのにと思う。
 次に、道路を挟んでこの市役所支所の向かいに位置する釜蓋城址へと向かう。前回、すでに夜になっていたので行くのをあきらめた場所だ。その際には、下の駐車場に車を停めて歩いて登っていかなければならないと思ったのだが、脇に自動車の通れる道が続いていて、上まで車で行くことができる。Mさんは、もちろん過去に行かれたことのある場所もあったようだが、一つ一つの目的地への道順や駐車スペースの有無を細かに調べてくださっていたので、最後までスムーズに回ることができた。本当にありがたかった。
 自動車を降りて少し進むと児童公園があり、その横に、さらに上へと向かう石段がある。それが行き着く頂上には、天守閣に似せた展望台が建っている。
 展望台の一段下には祠のようなものが建っていて、二体の石仏が収められており、脇には「千々石町指定文化財 石仏・神父像(キリシタン遺物)」と記された標柱が立っているが、それ以上の詳しいことは分からない。向かって右が笏をもった公家装束の像(菅原道真?)で、左は、摩耗がひどくはっきりとは分からないが、薬壺を手にした薬師如来のようである。
釜蓋城址の千々石ミゲル顕彰碑

釜蓋城址の千々石ミゲル顕彰碑

 さらに展望台の脇には、ミゲルの顕彰碑と、城の由来を記した銅板が建っている。顕彰碑には「天正遣欧少年使節 DON MICHAEL 千々石清左衛門之碑」と陽刻されているが、その書体が実に特徴的である。極太のゴチック体だが、たとえば「遣」の字のしんにょうの上の点や「清」の字のさんずいの上二つの点などが丸に置き換えられている独特な書体なのだ。こうした顕彰碑に用いられることはあまりないような書体だろうが、それにまったく違和感がない。一見ポップでありつつも、軽薄であるどころか重厚感を漂わせている。すばらしいセンスに驚嘆させられた。だいぶ苔むしてきているので少々文字が見にくくなってはいるが、それも含めて味である。碑は1960年に城山の麓に建てられ、1987年に展望台が築造された際に、この地に移設された。なお、裏側にはミゲルの生涯を簡単に記した銅板が嵌め込まれている。「日本人として、初めて西洋の地をふみ、先進文化を輸入し、日本を彼の地に紹介した最初の人で、その功績は永く日本文化史上に輝くであろう」との表現はシンプルでいい。
 展望台からの眺めが、まさに絶景だ。昨日はさんざんざわついたのであろう緑がかった橘湾の海面はすでに穏やかで、長崎方面の山が水平線の向こうに見晴るかされる。
 釜蓋城は、千々石ミゲルの父である千々石大和守直員の居城である。天正5(1577)年に龍造寺隆信率いる数万の兵に攻め込まれ、必死に応戦しつつも力尽き、直員はわずか25歳で自刃した。その直員の一粒種がミゲルである。
 麓の橘神社へと戻っていく。途中、幾人かのかたが、飛散した枝葉の片付け作業を行っていた。立派な桜並木だ。幸いなことに、ここには根こそぎ倒れた樹はないようである。
 神社もまた立派だ。こういう社の屋根は、背後の山の緑と実にマッチする。両者は一体なのだ。来訪者は多いようで、この日も観光バスで乗り付けた団体がいた。また、若い夫婦が新生児を抱いてお宮参りに来ていた。儀式の様子を少し眺めていたのだが、宮司さんというのは実にサービスがいいようで、スマートフォンを借り受けて、記念撮影までしてくれている。それはともかく、夫婦はまさに幸せそのもので、こちらも気持ちがよくなる。親がわが子を死に至らしめるような陰惨な事件がたびたび報道される世の中だが、すべての新しいいのちが歓迎されるものであってほしい、あらためてそう思う。
 ここで、少年使節に関して書かれたある人の論文の中の注を一つ、引用したいと思う。「千々石町のミゲールの父親の城にあった丘にミゲールの記念碑がある。今日この城跡には橘神社と桜樹の立派な公園がある。林の一隅に記念碑が建っていて、青銅にミゲールの歴史が刻まれている。この美しい場所を訪ねることは、あれほど議論された使節の家系に関して、数多の文書を読むよりも正しい知識を与えてくれる」(『九州キリシタン史研究』)。筆者はディエゴ・パチェコ師、すなわち結城了悟神父である。
 こんな注を論文に付す人は、後にも先にも結城神父しかいないと思う。ちょっと他の人にはまねができない。そして心底凄いと思うのは、こんなことを書いても、俗っぽくも、また説教臭くもならないということだ。それは、ご自分の胸の内を、そのまま吐露しているからに他ならないだろう。気取って格好つけているわけではないのだ。
 境内をしばし散策した後に次の目的地に向かおうとしたとき、千々石大和守直員を祀る神社を訪れていないことに気づいた。先ほど出会った清掃をしている人に場所を尋ねると、今下りてきた道の途中にあるとのこと。どうやら気づかずに通り過ぎてしまったようだ。
天満神社

天満神社

 再び展望台方面に少し上っていくと、右手にしめ縄の張られた石鳥居があり、その先には急な石段が続いている。天満神社である。天満宮なので当然祭神は菅原道真だが、直員が合祀されている。
 石段を登りつめると、あまり古くはない瓦屋根の社が建っている。とくに手前の拝殿はごく新しい。本殿はトタンが巡らされた質素なものだが、屋根の装飾などには、昔の建物の資材がそのまま使われているようである。右手には小さな滝があって、さすが台風直後、流れに勢いがある。
 滝音だけが耳に届く中で、緑に包まれてしばし佇み、若くして自らいのちを絶った戦国の武将を思った。もし彼が、はるかヨーロッパへとわが子が旅するときまで生きていたならば、いったいそれをどのように思っただろうか。おそらく、大切な跡取りにそんな冒険をさせはしなかっただろう。
 極端に急な石段を慎重に下り(濡れ落ち葉が実に怖い)、自動車に戻った。千々石を後にし、加津佐へと向かう。
 加津佐での最初の目的地は岩戸山。島原半島の突端近く、二つの海水浴場に挟まれてちょこんと突き出た岬に、聳えているといったら不正確な表現になってしまう、標高わずか96メートルの山である。
 極端な方向音痴であるがゆえに、過去の取材では、広島の高松山、岡山の鶴島など、山で何度か痛い目を見てきた。しかし今回は、Mさんという頼れる同行者がいる。台風による倒木が道をふさいでいないかといったことが心配なだけで、気持ちには十分な余裕があった。だが、やっぱりおかしなことになってしまった。もちろんMさんのせいではない。
 苔むした急な石段を上り山門をくぐる。目指すは穴観音である。この登山口の反対側に位置する、絶壁に口をあけた洞穴である。
 掃除をしていたお寺の人に尋ねると、いつもなら15分ぐらいで行けるけれど、台風の後だからどうだろうと、微妙な返事が返ってきた。まあ、行けないようだったら引き返せばいい、このときはそれ以上のことは思わなかった。
 急な石段を手すりにつかまりながら上ると、突き当たりには、礎石のみとなった観音堂跡がある。その裏手に延びる道を行かなければならなかったのだが、草木が茂っていてそれがよく見えなかった。一方、左手には、割合はっきりと認識できる道がある。なので、それを進んでしまったのである。
 最初は順調だったのだが、やがて道なき道を進むことになってしまった。大量の雨水を吸って、当然足元は悪い。何度か転げ落ちそうになりながら、右へ行き左へ行き、彷徨い続けた。クマゼミの大合唱(なぜかこの虫、われわれがその場所に着くと、突然一斉に鳴き始める)は、暑さを余計に感じさせるが、つねに何かしらにつかまっていなければならないような足場なので、ゆっくり汗をぬぐうことができない。藪蚊を追い払う余裕など当然ない。
 何となく崖のように見えるものを先に見ては「あれじゃないですかねえ」などといいつつ進み、「違いますね」で終わることを1時間近く繰り返して、結局は登山口からはやや東側の麓に降りてしまう羽目になった。
 もう一度登山口に戻ると、Mさんのほうから「もう一度行ってみましょう」といってくださった。正直わたしからは、再トライはいいだせなかった。実に頼れるお人である。
岩戸山観音堂跡(この裏に穴観音への道が続く)

岩戸山観音堂跡(この裏に穴観音への道が続く)

 この再トライは何の問題もなく、いたって順調に運んだ。観音堂跡裏手の道(自然石の石段)に、すぐに気づいた。あとは比較的まめに標識が立っている(ぜひ、この観音堂跡の場所に、標識を立ててくださるようお願いしたい)。山道だから楽ではないが、さほど厳しいというほどでもない。しかし、張られたロープを頼りにしなければならない急坂を経て「穴観音80M」の標識前を過ぎると、最後に難所がある。
穴観音への道1(鉄鎖の外、竹の向こうは断崖絶壁)

穴観音への道1(鉄鎖の外、竹の向こうは断崖絶壁)

穴観音への道2(岩に打ち込まれた鉄の取っ手)

穴観音への道2(岩に打ち込まれた鉄の取っ手)

 丈高い草で視界の広がりはないが、鉄鎖が低い位置に張られた先は断崖絶壁である。足を滑らせれば、まあ生命はないだろう。岩に打ち付けられた鉄の取っ手だけを頼りにわずかな幅を登る。竹の濡れ落ち葉が足をすべらせることしきりで、いやでも慎重になる。
 登りつめた先には、ぽっかり広がる空間があった。崖肌が抉り取られて上部が天井のような形状になっている空間で(奥行に差はあるが、外海の次兵衛岩と同じような感じだ)、地面には砂が堆積している。奥の中心には小さな祠があり、その両脇には何体もの石の観音像が安置されているが、中には首を失っている像もある。
 ここは少年使節と直接関係のある場所ではない。しかし、ある意味で今回もっとも訪れたかった場所でもあった。あきらめずに来てよかった。Mさんに感謝したい気持ちでいっぱいだった。
 穴観音――かつてここは、仏教の著名な霊場であった。しかし、領主有馬氏がキリシタンとなり、領内にもキリシタンが増え、仏僧たちが追放されたりするようになったころ、悪魔との戦いという名目で、宣教師たちによる非常に不愉快な暴力行為が行われた場所なのである。宣教師のフロイス自身が、それを詳しく書き残している。
穴観音

穴観音

 まずはこの場所についてのフロイスの描写を、少々長くなるが引用しておきたい。「途中のある地点まで来ると、そこからはどのように手を尽し、手を加えても、まるで三角形の一隅のようなところにある洞窟の入口までは進むことができないように見える。往昔、仏僧たちは、悪魔の入れ知恵によって、その岩山に手の平ほどの幅の(狭い)道を刻み込んだ。だがそそり立つ岩肌に刻みこまれたそのような狭い道は、何らか手の支え(を作ら)なくては誰も通ることができなかったので、同じ岩に幾つかの鉄輪をその鋲で打ちこんだ。これらの鉄輪から幾つかの鉄の鎖がぶら下がっていて、洞窟に入って行く者はその鎖を握りながら進むほかはなかった」(松田毅一・川崎桃太訳『日本史10西九州篇Ⅱ』。以下同)。
 現地を訪れた者には瞬時に理解できる。現在この洞穴に行き着くために通らねばならない道は、フロイスの時代のそれとほぼ変わりないのである。あえていえば、上の引用の直後に「そこから下を眺めるならば、どのように勇気のある者でも、一変して目の光を持たぬ者のようになるであろう」とあるのだが、先ほど書いたように丈高い草と、そして洞穴の正面には竹が群生しているので、彼方の水平線は見渡せても、下への視界は利かない。そのことが異なる点である。そしてこの事実は、現在この地を訪れる者にとって、かなり幸いなことである。
 キリシタンから迫害されていた仏僧たちは、難を逃れるためにこの洞窟に仏像を秘匿した。そのことに感づいたイエズス会副管区長のコエリュは「それらの偶像を破壊したいという望みに駆られて」、二人の修道士とフロイス、そして数人の若者とともにここに来、大量のそれら仏像を持ち出し、持ち出すことのできなかった大きな仏像一体と「礼拝所や祭壇」には火を放った。
 次に彼らは「口之津で教理(を習っている)少年たちを召集」してその仏像を託した。「少年たちは、仏像を曳きずって行き、唾をはきかけ、それにふさわしい仕打ちを加えた」。さらに、寒い季節ゆえ薪が欠乏していた口之津の司祭館で「それらの仏像はただちに割られて全部薪にされ、かなりの日数、炊事に役立った」、そうフロイスは記録している。
 正当化の余地など絶無である悪行であることは言を俟たない。このように暴走してしまう可能性が、宗教にはつねに付きまとう。それは、信仰の対象が何であるかといったことによるのではない。人間が不完全なものであるからだ。
 なぜわたしがこの地に行きたいと思ったのか。それは、この許すことのできない暴力が振るわれた場所を訪れたうえで、千々石ミゲルのイエズス会脱会や棄教について考えたいと思ったのである。まったくの想像に過ぎないが、ミゲルは決定的な何かを見てしまったのではないだろうか。そして、それを許容することができなかったのではないだろうか。もしそうであるならば、それは逆説的にミゲルの信仰の強固なることを証明しうる。その信仰が純粋であったからこそ、彼は負の側面を受け入れがたかったのだ。その推測は成り立ちうる。
 もし本当にミゲルが何かを見てしまったのだとすれば、それは何だったのだろう。それが推測できるような史料は何もない。だから安直な想像は控えるべきだが、もしかしたら、ここに紹介するような他宗教への暴力的、非人道的な姿勢であったのかもしれない。少なくともこのフロイスの記録は、今のわたしたちをも大いに不快にさせる。ちなみに、少年使節の旅において彼らを引率したメスキータは、ヴァリニャーノの指示によって、キリスト教や欧州の負の側面を少年らに見せないよう厳重に努めた。
 一方、この地についてまったく違った印象をもたらす、『日本史』の訳注で触れられている二つの事柄についても紹介しておこう。
 一つはコエリュやフロイスの振る舞いとはまったく異なる、ヴァリニャーノの考えである。彼は在日イエズス会員の内規に「我らは彼ら(仏僧たち)に対してはなはだ大いなる愛情を示さねばならぬ。ことに我らは、彼らの不幸を喜ぶような態度をとったり、彼ら、および他の人々を軽蔑したり、彼らについて悪口を言うことを慎まねばならぬ。そのような態度を日本人は非常に嫌悪するのであって、それによって我らは信望を高めないばかりか悪い評判を生ずるに至る」と記しているそうである。ヴァリニャーノは決して日本人を低くは見なかった。日本人の聖職者を誕生させることにも積極的だった。そういう人物が少年使節の教育者であったことは、彼らにとって本当に幸せなことであったろうと思う。
 もう一つは、島原の乱後に、逆にここがキリシタン弾圧の場所になったという加津佐に伝わる伝説で、この話は谷真介の『キリシタン伝説百話』にも収録されている。それによると、加津佐でキリシタンの残党狩りをしていた役人が、だれ一人見つけられずに舟で対岸の天草に向かっていたところ、この洞穴から煙がかすかに立ち上っているのに気づき、舟を戻して、洞穴へと登っていった。案の定そこにはキリシタンが潜んでいて、彼らは石や木材を投げて応戦したが、やがて投げるものがなくなって「祀ってある地蔵尊の首を打ち欠いて投げ」たのだが、それも続かず、観念して縛についたというものである。先に書いたとおり、現在でも首を欠いた観音像が何体か祀られてある。もちろん、それがこの伝説と結びつくのかは分からない。
 砂から頭を出している岩に腰かけ、汗をぬぐってしばし休息してから下山した。まったくMさんにはとんでもないことに付き合わせてしまったが、行けてよかったと喜んでくださり、救われる思いだった。この経験は、歴史に対する理解を間違いなく豊かにしてくれる。絶壁に作られたわずかな幅の道を進んで洞穴にたどり着いたこと、その困難を身体で実感したことで、仏像を隠した仏僧たちの必死さにも、それを持ち出して薪にした者たちの恐ろしい執念にも、より具体的に思いをはせることができるようになる。また一つ、貴重な体験ができた――車に乗り込む前に、シャツについた草やら虫やらを払いながら、そう強く思った。
 国道251号をわずかに東に進む。川を渡ってから住宅街のほうに入り、まずは円通寺礎石を見る。古には壮大な寺であったそうだが、有馬氏がキリシタンとなって廃されたといわれている。ツタの絡まった六角形の礎石は、上部が10センチ程度円形に浮き上がっている。山門の礎石と推定されているそうである。周囲は大木が葉を茂らせて薄暗く、台風の影響で水が出てじめじめしていた。
加津佐セミナリヨ、コレジョ跡

加津佐セミナリヨ、コレジョ跡

 次にそこからわずかに南に進んだところ、立派な庭をもった邸宅の前に「セミナリヨ、コレジョ跡」との案内板が立っていて、この加津佐のコレジヨで、日本で初めて活版印刷が行われたとの解説がなされている。
 国道方面に戻った川の近くの墓地の一角に、島原半島には大量にあるキリシタン墓碑の一つがある。鉄の柵で周りを囲まれていて、方形が2基、カマボコ型が2基である。方形のうちの1基は、珍しい横長だ。
 少し南下して、赤いアーチの「なんばん橋」を渡る。この橋、道幅が極端に狭い。自動車一台がやっと通れるほどである。すれ違うのは不可能で、もしかち合ったならば、太鼓橋のようなアーチ状であるにもかかわらず、どちらかがバックするしかない。
 余談だが、このあたりのことをネットであれこれ調べていたときに、この橋について「対向車が来ると離合できないくらいせまい」と説明する記述を見つけた。「離合」ということばの使い方が理解できない。調べてみると、西日本、とくに九州では、自動車がすれ違うことを「離合する」というのだそうだ。
口之津海の資料館・口之津歴史民俗資料館

口之津海の資料館・口之津歴史民俗資料館

 対向車には出会うことなく無事に橋を渡り切ると、すぐ先に、赤レンガの門構えが印象的な、口之津海の資料館・口之津歴史民俗資料館が建っている。玄関の両脇には、ブーゲンビリアが蔦のような枝を伸ばしていた。花はもう終わりかけであったが、ピンク色が白い外壁と美しいコントラストをなし、南方の雰囲気を醸し出している(なお、正確にはピンク色の部分は花ではなく苞である)。
 海の資料館、歴史民俗資料館、与論館、歴史民俗資料館・別館と、四つの建物に分かれているのだが、あれやこれや、農具から電化製品、軍服や戦時中の生活用具、海外の土産物に至るまで、実に種々雑多な品々が展示されている。地域住民から多くの寄贈があったようで、所蔵品すべては展示しきれないので一定期間ごとに入れ替えを行っているとの説明が掲げられていた。
 口之津港は大型船が入港するのに適した深さがあり、風を防ぐ地形でもあって、天然の良港として、永禄10(1568)年から天正10(1582)年の間に、幾隻かの南蛮船が来港している。海の資料館には、赤い十字の印が入った帆を張った南蛮船の模型が展示されていた。サン・フェリーペ号の模型もあった。当時においては、最新技術の粋を集めて造られた大型船であったのだろうが、今のわたしたちが見れば、こんな小さな船で、しかも風を頼りに、欧州から喜望峰を回ってインド洋を横断し、アジアまで航海してきたなどということは、正気の沙汰とは思えない(先に「幾隻」と書いたが「幾艘」のほうがふさわしいか)。実際に海難事故は珍しいことではなく、16世紀のインドとゴアの間のポルトガル船の航海においては「一割強の船数が遭難し消失した」そうである(『九州三侯遣欧使節行記』岡本良知訳注)。
 出港時にはわずか13歳ほどであった少年使節の面々がどれほどの不安を抱いたであろうかは、察するに余りある。大海の荒波にあっては、こんな船は木端も同然であったろう。少年たちが激しい船酔いに死ぬかのごとき思いを味わったのも当たり前だ。
 2階の一角に、マリア観音が2体展示されていた。1体は白磁製で「内部に1613年3月22日付、42名の口之津信徒が殉教の覚悟を誓い合った連判状(複製)が秘蔵されていた」との解説が添えられている。「複製を秘蔵していたということ?」と戸惑いを覚えたが、観音像の背後には連判状のコピーが立て掛けてある。コピーは複写とはいっても複製とはいわないし、これが観音像の内部に納められていたわけではないだろう。
 また、もう1体の背後には、あの偽キリシタン遺物である仏像付の十字架が、何の説明書きも添えられることなく飾られている。これを見るのはもう何度目のことか。この偽物は全国に浸透している。ゆゆしきことだ。
 最後に、トイレにあった張り紙を紹介したい。すぐそこが海なので、建物の内にも外にも、何匹ものフナムシが走り回っているのだが、この生物について、写真を掲げたうえで「ゴキブリではありません。海岸に見られる『フナムシ』です。毒性はありません」と断っている。これには大笑いしてしまった。わたしは海辺の育ちではないが、小学生の夏休みには、父が毎年何度も磯遊びに連れて行ってくれ、それが夏の最大の楽しみだった。だからこの等脚類の生き物には昔から親しみがある。もっとも決して気持ちのいい外見ではないし、とにかくすばしこいので、採集の対象にしたことはないが……。 おそらく何ら知識をもたない都会人が、こんなゴキブリみたいな生き物がたくさん走り回っているなんて、どれだけ不衛生なんだ!――そんなふうにクレームでもつけたのだろう。こんな貼り紙をしなければならなかった職員のかたに同情したくなった。
「伝 口之津教会跡」碑

「伝 口之津教会跡」碑

 資料館を後にし、もう一度なんばん橋を渡って、すぐ左に入り、口之津教会跡を訪れる。向かって左に「伝 口之津教会跡」と刻まれた角柱状の碑が建っている。中央と右はプレート状の碑で、日本語の解説と、英語、韓国語、ポルトガル語による説明がそれぞれ刻まれている。日本語解説冒頭には「今も、この地に佇めば、素朴で清らかな聖歌の調べが、オルガンの音にのって心地よく耳に響いてくるようである」と、詩的なことばが綴られている。当時、オルガンが果たして当地にあったかどうか―。
 アルメイダは1568年10月20日付のベルショール・カルネイロ司教にあてた書簡の中で、この地について次のように書いている。「口之津は小さな町で、およそ千二百名の住民はすべてキリシタンにして一人の異教徒もいないため同地は非常に平穏である」(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集第Ⅲ期第3巻』)。続けてアルメイダは、当地での「聖木曜日の行列」なるものがいかに感動的なものであるかを綴り、信徒たちの敬虔な信仰をたたえている。
南蛮船来航の地碑

南蛮船来航の地碑

 次に島原街道まで戻り、「南蛮船来航の地」へと向かう。南島原市役所口之津庁舎の裏手にある口之津開田公園の入り口付近に、1941年に建立された塔状の苔むした碑がある。自動車道路からは少し奥まっているので、辺りはひっそりとしている。碑は古いものだが、背後の公園は新しい。
 しかし、この公園がなんとも異様であった。南蛮からの連想なのかは知らないが、西洋式のシンメトリーの公園ながらも植木は日本風で、中心付近には白い西洋建築風で橋のような形状の見晴らし台が建っているというちぐはぐぶりを呈しており、またその白が風雨で汚れてしまっていて、みすぼらしさが漂っている。周囲の風景ともまったくマッチしておらず、なんでこんなものを造ってしまったのかと呆れてしまう。地方議会の先生たちは、ここで恋人たちが愛を語らうとでも考えたのだろうか。残念ながら人影はまったくない。碑の横に立つ簡単な年表を記した解説の板は分かりやすく、とくにその最後にある「フロイス、口之津に居住し京都から届いた本能寺の変をこの地からヨーロッパに発信した」との記述は、激動する戦国の世の日本を記録し続けた宣教師の姿をリアルに浮かび上がらせる。碑自体にも存在感があって、それだけならばなかなかいい雰囲気なのだが、公園の存在がそれを壊してしまっているのが惜しまれる。さっと散策しただけで、早々に次の目的地に向かった。
 口之津は島原半島の突端であるので、ここからは半島の東側、すなわち島原湾川を北上していくことになる。
 原城の前を今回は通過する。このときには「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録決定からわずか数日しか経っていなかったのだが、国道には、はや「世界遺産」と記された看板が立っていた。
有馬のセミナリヨ跡

有馬のセミナリヨ跡

 
そのまま北へと進み、日野江城へ。途中、有馬のセミナリヨ跡に立ち寄る。黒御影の柱状の碑には、長崎純心女子学園の片岡千鶴子理事長の書が刻まれている。
 1580年、ヴァリニャーノの指示により、有馬と安土にセミナリヨが、豊後にコレジヨが設立された。日本人聖職者の育成の重要性を痛感していたヴァリニャーノは、神学校の設立とその維持を、日本のイエズス会に対し、義務として課したのである。
 2年後に長崎を出港することとなる天正少年使節の4名は、この有馬のセミナリヨの1期生となった。2016年の特集でもいくつかを紹介し、今回もここまで千々石コレジヨや加津佐コレジヨを紹介したが、戦や迫害の影響によりセミナリヨやコレジヨは各地を転々とした。有馬には1580~1587年、1587~1588年、1601~1612年の都合3期セミナリヨが存在した。計20年という期間は、キリシタン時代の34年間にわたるセミナリオの歴史の中でもっとも長い。1601年からのセミナリヨについては、有馬晴信が妻を迎えるための邸宅の敷地を提供し、壮麗な教会と修道会本部が併設されていたという。一時は100人を超える生徒がそこで学んでいた。ペトロ岐部も金鍔次兵衛もここの学徒であり、少年使節の伊東マンショや中浦ジュリアンは、帰国後には教鞭を執った。
 ヴァリニャーノは、細かなセミナリヨ規則を定めている。どのような子弟が入学するにふさわしいか、入学した者にはどのような環境、どのような服装が適切か、何をどのような順番で学んでいくのか、果ては食事や来訪者への対応など、生活の細部にまでわたったこの規則は、ミゲルやジュリアンが机を並べてどのような日々を送っていたかを想像するのに大いに助けとなる(訳文は北有馬町役場発行『「有馬のセミナリヨ」関係資料集』に収録されている)。そして、ヴァリニャーノが、日本の少年たちを深い愛情をもって育てようとしていたことがよく理解できる。
有馬川殉教巡礼地

有馬川殉教巡礼地

 ここから最後の目的地、日野江城に登る前に、Mさんが有馬川殉教巡礼地に案内してくれた。川沿いに三角形の敷地が整えられている。
 有馬の殉教者として、アドリアノ高橋主水をはじめ8名が、ペトロ岐部と187殉教者に数えられている。ここはその8名を記念して2008年の列福式の際に長崎教区によって制定された巡礼地なのだが、Mさんに教えられるまでは、その存在をまったく知らなかった。白く塗られた木製の十字架と大理石の祭壇が据えられており、年1回ほど、野外ミサを行っているとのことである。
 さて3年ぶりの日野江城である。前回の訪問時には、発掘調査のため足場が組まれ、階段遺構全体に覆いが施されていたのだが、それはきれいに撤収されていた。しかし、今回の台風以前のことのようだが、一部で崩落が起きたらしく、頂上は立ち入り禁止になっていた。倒れている樹木もあって、斜面がところどころビニールシートで覆われている。
 以前にも書いたことだが、有名な原城とは違い、この日野江城を訪れる観光客はほとんどいない。激しい戦闘が繰り広げられた場所でもないので、そうした関心から足を向ける人もいない。それがため、何ともいえない風情が感じられるのだ(夕景が殊におすすめである)。しかし世界遺産登録によって、ここも観光地化されてしまうのだろうか。そうならば少々さみしい気もする。
 この日、天気は最後まで晴れだった。青空のもと、島原湾を見晴るかす。手前に広がるのは水田風景である。400年以上前、この城下はキリシタンの町であった。そしてセミナリヨでは、聖職者を目指して少年たちが学んでいた。伊東マンショ少年も、千々石ミゲル少年も、中浦ジュリアン少年も、原マルチノ少年も、いつの日か司祭に叙階されることを夢見て、日夜研鑚を重ねていたのである。選ばれし者の自負をもって、だれもが真剣で、だれもが懸命だったろうと思う。難しいラテン語とも必死になって格闘したことだろう。セミナリヨには音楽や体育の授業もあったし、散歩の日課もあった。そんなときには、緊張から解放されて、少し心休まったのかもしれない。
日野江城址

日野江城址

 心地よい風に吹かれながら、階段遺構のあたりをぶらぶらする。前回は積まれた石がほとんど剥き出しになっていたわけだが、今では元のように埋め戻されている。そう考えれば、前回訪れることができたのは幸運であった。天正18(1590)年に帰国を果たした少年使節の4人は、当時20歳代の若き領主であった有馬晴信に旅の報告をするため、この石段を間違いなく上っている。自分たちにとって出発点となったセミナリヨがあった有馬の土を再度踏んだとき、たくましい若者に成長した彼らの胸の内には、どのような思いが込み上げてきただろうか。そして若い領主は、はるか欧州のローマでパッパとの謁見を果たしたという夢のような話を聞いて、どんな表情を浮かべたのだろう。旅の苦労と感激とを語る4人のことばを、膝を乗り出してむさぼるように聴くさまが目に浮かぶ。一人の男として、とてつもない冒険を経験した年下の彼らに、嫉妬の念すら抱いたかもしれない……。
 想像は尽きない。ここ日野江城は、こんなふうにとりとめなく、あれこれとものを思うには、もってこいの場所だ。足元の遺跡を見つめたり、彼方の海を眺めたりを繰り返していると、自然にさまざまなことが頭に浮かんでくる。だが、はや夕刻が迫っている。離れた場所を同じように散策しているMさんを追いかけるかのように、帰路に向かうべく歩を速めた。

 7月5日(木)
 起きた時点ですでに、今すぐ泣き出しそうな空である。前日とは打って変わって、予報は終日雨。それも強い降りになるらしい。
 8時40分ごろ、嘉松師がホテル前まで迎えに来てくれる。この日は嘉松師の運転で大村湾をぐるりと一周する。
 まず向かったのは伊木力。千々石ミゲルの墓とされる石碑が建つ地である。現在の住所表記でいえば諫早市多良見町山川内になる。
 県道33号を行き、野川内公民館のあたりで山のほうへと入っていくと、長崎本線線路下に穿たれた、短いがちょっと味のある古めいたレンガ造りのトンネルがあり、それをくぐるとすぐ右手に「千々石ミゲルの墓と思われる石碑」との看板が、速度制限標識の下方に括りつけられている。Mさん同様、嘉松師も各所の道順等を事前に詳しく調べてくださっていて、迷うことなく、すんなり到着できた。
 雨はまだ降り出していない。看板の矢印が示す坂を見上げると、屋根に守られた大きな石碑が見える。手前には四阿が建っていて、小公園のように整備されている。
千々石ミゲル夫妻の墓とされる石碑

千々石ミゲル夫妻の墓とされる石碑

 やや急な坂と丸太を組んだ階段を登り、石碑の前に立つ。大きい。堂々とした板状の自然石である。高さはわたしの身長よりもあり、幅も優に1メートルはある。上部の「妙法」という大きな陰刻ははっきり読まれるが、その下に3行に分かれて彫られている戒名と没年月日は、摩耗によってやや見にくい。裏に回ると左下に「千々石玄蕃允」との文字が、これは割合くっきりと見ることができる。
 この石碑、元々は千々石ミゲルの四男である千々石玄蕃の墓であると言い伝えられてきたそうなのだが、石造物研究家の大石一久により2003年12月から行われた調査によって、千々石ミゲル夫妻の墓である可能性が濃厚になった。その経緯は大石の『千々石ミゲルの墓石発見』に詳しく述べられている。最初の調査で大石は、石碑裏面に刻まれているのは、「銘の入れ方からみて」被葬者ではなく、施主であることを確信した。ミゲル夫妻の墓であろうことが徐々に明らかになっていった際の興奮を大石は同書に綴っているが、どんどんと気持ちが盛り上がっていく過程がぐいぐいと伝わってくる文章で、思わず引きこまれる。
 その後、先に述べたように、2014年から発掘調査が実施され、2017年には木棺や信心用具の一部であると思われるガラス玉などが出土し、千々石ミゲルは棄教したという通説は覆される可能性があるとも報じられた。
 しかし、千々石ミゲルの生涯については、あまりにも史料が乏しく、核心的なことはほとんど分からない。したがって、彼について考えるには想像をたくましくするしかない。
 片岡弥吉は「一六〇六年喜前が宣教師を領内から追放し、法華宗になったとき、ミゲルもまたキリシタンを捨てた」と書いている(『日本キリシタン殉教史』)。これが一般的な説である。
 しかしわたしには、どうしても解せない点がある。上の引用に片岡は「しかし、法華宗に入ったのではなかったようである」と続けている。家康による禁教令に先だって教えを棄て領内から宣教師を追放した喜前は、幕府の動向をいち早く見抜いた人であった。彼は棄教後、法華宗の熱心な宗徒であることをアピールした。そこに戦略的な思惑があり、それがある種のパフォーマンスであったことは否定できないだろう。ならば、もし、仕えていた藩主の棄教に従うかたちでミゲルが教えを棄てたのであれば、彼もまた法華宗に帰依したと考えるのが自然ではないだろうか。そうでないのであれば、喜前にとっては少々勝手が悪いことになるのではなかろうか。
 ルセナはその回想録の中で、ミゲルの棄教について次のように書いている。「大村の殿やその家臣・親戚のある人々が棄教した時に、彼もまた信仰を棄てて異教徒、否甚だしい異端者か無神論者になった(釈迦や阿弥陀を崇拝しないから異教徒であるとは思われない)。それだから彼が棄教した後に私は彼と徐ろにゆっくり話して、洗礼で受けた信仰を心から棄て去り、キリストのことをマホメットと比較するほど悪く考え、邪悪のマホメットがキリストを神ではないと考えたように、このミゲルも同じことを考えていることを、私は知った」(ヨゼフ・フランツ・シュッテ編、佐久間正・出崎澄男訳『大村キリシタン史料――アフォンソ・デ・ルセナの回想録』)。このルセナの報告についてディエゴ・パチェコ師は「彼の証言から感情的なものを除いても、これは最も真実に近い証言であり、秀れた報告である」との評価をしている(『九州キリシタン史研究』)。
 またモレホンは、「病気になり殆んど手足がなえて、イエズス会を脱会した」ミゲルは「異教徒にならなかったし、また決して教会を迫害しもしなかった。むしろキリシタンやヨーロッパの事物を大層好意的に話した」との証言を残している(野間一正・佐久間正訳『続日本殉教録』)。
 ミゲルは法華宗に帰依しなかったというこれらの証言を、どう理解すればよいのだろう。想像の域を出るものではないが、ミゲルの棄教は、何か表面的なものであったように思えてならない。ルセナが書いている、ミゲルが述べたという反キリスト教的な弁舌は、モレホンの証言とは正反対の内容であるが、このように相反する証言が残っているということに微妙に引っ掛かりを感じる。どちらかが事実誤認をしているといったことではないように思われるのである。
 ルセナに対してミゲルは、相手を試すかのような議論を仕掛けたのではなかろうか。それは、ミゲルのうちに存していた教えに対するこだわりから来るものではなかったのではないか。宣教師たちに対する何かしらの反発意識があり、あえて教義や信仰の本質的部分について、突っかかるように議論をふっかけた、それがルセナには反キリスト教的に受け取られた、そんなふうには考えられないだろうか。
 またわたしには、天正遣欧使節の正使を務めたミゲルが、その偉業を果たした者であるとの矜持を簡単に捨てることができたとは思えない。モレホンは「キリシタンやヨーロッパの事物を大層好意的に話した」と証言しているが、『破提宇子』の著者である不干斎ハビアンのように真に棄教していたのであれば、その強い矜持は反作用を起こし逆のベクトルへと彼を向かわせるはずで、こんな中途半端な姿勢でいることはありえないと思うのである。少なくともシンパシーは維持されていたからこそ、「好意的に話」すという余裕が、彼のうちにあったのではないだろうか。
 ミゲルが棄教した後、「大村の殿はたびたび彼を殺させようとした」とルセナは証言している。なぜだろう。理由はよく分かっていない。この理由を「棄教」の真偽に求めようとするのは突飛な考えだろうか。難を逃れてミゲルは「従兄弟の有馬殿の許へ身を寄せ」るのだが、そこでも有馬の家来に殺されそうになっている。これは一体何を意味しているのか。
 ディエゴ・パチェコ師は「釈迦も阿弥陀も拝まないという言葉はローマにおけるポルトガル関係顧問フアン・アルバレス神父が『ローマ名誉市民、聖マルコス騎士団員が法華宗の信徒になった』と考えて驚いた時の言葉と矛盾しない。ミゲールが日蓮宗の信徒になったことは大村喜前に強制されたのであって、他の信仰に入ろうとしたのではなく、ただキリスト教を棄てたことの外面的表示にすぎない」と含みのある解釈を述べている(『九州キリシタン史研究』)。多様な理解が成り立つと思うが、ミゲルに対して喜前による法華宗(日蓮宗)への帰依の強要があったと考えるのは自然なことだ。そうであるのに、ルセナもモレホンも、他宗教に帰依したのではないと証言しているのである。殿の前でミゲルが法華宗徒を偽装していたのであれば、宣教師たちが他宗教には帰依していないと理解することはないだろう。さすがに当時、堂々とキリシタンのままでいることはできなかっただろうが、仏教徒になることはおろか、そのふりをすることすら、彼のプライドは容認しなかったのではないか。
 先に触れたように、ミゲル夫妻の墓と推定されるこの石碑には「妙法」との陰刻がある。これは「法華宗(日蓮宗)の宗旨にのっとり建塔された」ことの証拠になるのだそうだ(大石前掲書)。この墓がミゲル夫妻のものであり、施主が四男の玄蕃であるならば自然なことである。さらに大石は、地元の井手さんというかたの話を紹介しているのだが、この墓には「大村に対して恨みをもって死んだので、大村の見えるこの地に、大村を睨みつけるように葬った」との伝承が残されているそうだ。地図を広げてみれば分かるが、確かに大村方面に向いている。
 こうした発見があり、正式な発掘調査も実施されたことで、千々石ミゲルの生涯について、多くの人があらためて思いを致すことになったのは、すばらしいことだと思う。わたしの個人的な感想や想像を長々述べてしまったが、これも論争の間口が広がった一端と寛恕していただきたい。
 車に乗り込むと雨が降ってきた。大村湾を時計回りに進むコースをとって、国道206号を北上する。次に向かうのは琴海にある自證寺という日蓮宗の寺院である。
 琴海中学校のはす向かい、206号沿いに建つ寺である。車を降りるときには、幸いにも雨が止んだ。
 自證寺は、万治元(1658)年に大村藩の家老浅田安昌によって、祖母自證院の菩提を弔うために建てられた。浅田純盛の妻であった自證院は大村純忠の息女マリナであり(確定はできないとする説もある)、その俗名は「お伊奈」である。2016年の特集で、大村にあるこのお伊奈の墓を紹介したが、この自證寺の歴代住職墓地には自證院の墓がある。したがって、両墓は同一人物の墓ということになる。また千々石ミゲルは大村純忠の甥なので、マリナとは従姉弟の関係になる。
 千々石玄蕃の長女は浅田氏に嫁いだが、浅田氏一族の菩提寺である当寺に伊木力の墓に刻まれているのと同じ戒名が書かれた位牌が残されていることを大石が紹介している(大石前掲書)。この事実も、あの石碑をミゲル夫妻の墓だと推定する決め手の一つになったそうだ。
 新しいコンクリート造りの本堂と古い木造の本堂とが建つ境内をしばし散策していると、急にどしゃ降りになった。あわてて車に乗り込む。206号を北上し大串で県道に入り、西濱で国道202号に入って、さらに北上する。
 次に向かうのは西海市中浦。いうまでもなくジュリアンの故郷である。
 最初の目的地は、権現岩という山のようにそびえ立つ巨岩。根本には岩倉神社が建つのだが、この岩について、ジュリアンの出自である小佐々一族の「祖神ともいわれる」(?)なる説明が『旅する長崎学2キリシタン文化Ⅱ』(長崎文献社)にはある。どういうことなのかよく分からないが、中浦へと向かう途次にあるのでとりあえず寄ってみようと、そんな程度の気持ちで目的地に挙げていた。
 しかし嘉松師が事前にグーグルマップの航空写真で確認したところ、細い山道を進まねばならないらしく、台風による倒木でもあれば先に進めないかもしれない、とのことであった。確かに昨日も今日も、国道や県道では、あちこちで枝葉や飛来物の除去作業が行われていた。山中の細道なれば、そんな作業がすぐに行われるはずがない。
 西海市の市街地を抜けトンネルをくぐると、多以良という地域に出る。すぐに202号の東に並行する道に入り、保育園の先で、さらに東の山道に入っていくと、いきなり極端なヘアピンカーブがある。途中いくつかの分岐があるので、事前に地図で確認しておくのが無難だ(グーグルマップでは権現岩という名称がしっかり表示される。便利な世の中である)。
 奥に行くに従って、路面に飛散している枝葉の量が増えていく。後輪が何度もそうした枝を巻き込んで嫌な音を立てる。難しければ戻ってもと嘉松師には告げたが、道が細いので、Uターンも難しい。昨日といい今日といい、好意で手伝ってくださるかたにとんでもない無茶をさせてしまっている。身の縮む思いだ。
 しかし、ここでも嘉松師の事前調査のおかげで、道には迷わず岩の麓に到着できた。さらに、幸いなことに雨も止んだ。
権現岩

権現岩

 いやはや、聞きしに勝る奇岩である。圧倒的な迫力だ。歴史的背景を抜きにしても、一見の価値はある。なんと形容したらよいか、緩い円錐のような形状で、横に幾本もの断層が細かく走っており、ヨーロッパアルプスの最高峰にその名が由来するモンブランケーキを思わせる。あるいは、木ねじの先端が逆さに立てられているといえばよいか。頂上には樹木が茂っていて、緑の帽子をかぶらされているかのようである。
 麓には桜の木が何本も植わっている。ちょっとした広場のような空間もあるので、花見にはもってこいの場所だろう。
 その広場に車を停めて下車すると、わたしたちが来たのとは反対の方向から1台の車が走って来、結構なスピードで通り過ぎて行くのを二人して呆然と見送った。間違いなく地元の人だ。この程度のコンディションは慣れたものなのかもしれない。
 おもちゃ箱をひっくり返したかのごとく散らばっている小枝を踏みしめて、岩の裏側に回る。しめ縄が張られた石の鳥居が建っていて「岩倉神社」とある。奥には、瓦葺きの、木と波板でできた質素な社があるのだが、瓦が一部飛んでしまっている。周囲には根こそぎ倒れた木もある。
 社の奥に回ると、岩肌に向かって石造りの階段が設えてあり、その先には、やはり石の小さな祠がある。ぽつぽつと降り出した雨の中で見たその光景には、ある種の神々しさを感じた。古より日本人が、こうした自然に力を感じ神格化してきた心情はよく分かる。
 足元に転がっていた半ば白骨化した野犬の死骸に嘉松師と二人で驚いていると、雨脚が強くなってきたので車へと戻る。
 再び国道に出て少し進むと、多以良川に架かる下多以良橋の手前右手に「長崎県指定史跡 小佐々氏墓所 キリシタン墓」と書かれた看板が立っている。看板前の路肩に自動販売機が設置されていて少々のスペースがある。そこに車を停め、川沿いの小道を進む。依然雨は降っていて足元が悪い。
 少し行くと解説の書かれた看板があり、墓所の左手の山には城が、墓所の右手には南蛮寺(教会)がかつてあったことが説明されている。その横のやや急な石段を登りつめると、樹木の鬱蒼と茂る薄暗い墓所に出る。写真を撮るには傘が邪魔で、さらには藪蚊が鬱陶しい。
小佐々氏墓所全景

小佐々氏墓所全景

 大きな礎石状のものを取り囲むように何基かの石灯籠があり、左手には大小2基の、上部が切妻屋根の形状をしたキリシタン平墓がある。大きな礎石のようなものの後方には、数段の石垣のような桝形の建造物がある。大瀬戸町教育委員会による解説によれば「この墓所にある正面の切石平塚とその後方の二基の石積みの墓は、日本の墓碑としては極めて珍しい特異な様式であり、また大小二基のキリシタン墓地(屋根型墓)の保存状況も良好なことから貴重な史跡として、平成二年十一月十六日に長崎県文化財に指定された」そうである。確かに、この解説の板を読む前に全体を見渡したとき、礎石のようなものや石垣のようなものを、墓とは認識できなかった。
墓所内キリシタン墓のうちの1基

墓所内キリシタン墓のうちの1基

 また、同解説には「多以良の領主小佐々弾正純俊と、その甥の中浦の領主小佐々甚五郎純吉の武勇と戦功を称えて建立された墓所と伝えられる」との記述もある。この小佐々甚五郎純吉が中浦ジュリアンの父である。若き日に、すなわちジュリアンがごく幼いころに戦でいのちを落としている。千々石ミゲルも、龍造寺氏との合戦で釜蓋城が落城し父が自刃したころには、まだ赤子であった。すなわちこの二人には、実の父の記憶がないのである。だから、ヴァリニャーノやメスキータが注いだ愛情は、実父の愛を知らない彼らにとって、いっそう特別なものだったのではなかろうか。子弟の間に強固なきずなが生まれたであろうことは、容易に想像できる。ミゲルは父亡き後に自分を育ててくれた母の反対を振り切って、イエズス会に入会したのである。また、そのきずなが、使節を務めたことへの矜持を、いっそう強めたであろうことも推測させる。
 ここでは雨が止んでくれない。ミゲルの墓を先に訪ったことでジュリアンが拗ねてしまったか。そんなつまらない冗談を頭に浮かべつつ車に戻った。
 このすぐ先には「トトロのバス停」なるものがあることを後日知ったのだが、そんなものには気づくことなく、そのまま北上を続け中浦に入る。西濱以降、ここまでの道は、多以良の山中を除けば五島灘に面していて、絶景スポットがいくつもある。天気さえよければ最高のドライブコースで、水平線の先に横たわる五島列島を臨むこともできるはずだ。しかし残念なことに、どこまでいっても眼前に広がるのはモノトーンの景色ばかり、空も海も灰色一色である。また今度観光で来て楽しめばいいよと嘉松師が慰めてくれたが、正直悔しくてならなかった。しかし、だれを恨めるわけでもない。
 七釜郵便局の前に中浦ジュリアン記念公園という標識があり、そこを左折する。坂道を下っていくと、トイレの設置された駐車場がある。そこに車を停め左手に進んでいくと、右手に緩い傾斜の階段があって、その先に西洋の城のような建物が見える。ここが記念公園である。雨は小降りになった。
中浦ジュリアン記念公園入り口

中浦ジュリアン記念公園入り口

 階段の上り口に、解説文が焼かれたタイルがはめ込まれているのだが、その中に「当時の航海には常に危険が伴い、数々の困難の中、少年達が使命を果たし帰国できたことは歴史上の壮挙といえる。/8年半に及ぶこの大旅行は日本では長い鎖国の間忘れられていたが、ヨーロッパの各地では大きな話題となり、16世紀90種類を越える書物が出版された」とある。「歴史上の壮挙」、まさにそうだ。少年たちは、とてつもなく偉大な事業を遂行したのである。しかし、そうであるにもかかわらず、現在の日本でのこの史実に関する認知度は、正直低すぎる。わたしには高校生と中学生の娘がいるのだが、彼女たちに訊いたところ、歴史の授業では習わないそうだ。後の、支倉常長が率いた慶長遣欧使節に比すれば、認知度に随分な開きがあるように思われる。
 なぜだろう―。それは、慶長の使節は伊達政宗が派遣したものであるのに対し、天正の使節は――表向きこそ大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代ではあるが――ヴァリニャーノの企画・立案によるものであって、少年たちの身分は偽られ書状も偽造されたことは、2015年の特集で大分を取り上げた際に書いたとおりである。つまり、慶長使節は日本の大名が主体であるのに対し、天正の使節は、あくまでも外国人宣教師が主体なのである。このことが、日本史における扱いの差を生じさせている。
中浦ジュリアン像

中浦ジュリアン像

 階段の先の塔は、少年使節一行が訪れたリスボンのべレムの塔を模したもので、上に中浦ジュリアン像が建っている。帰国を果たした後のジュリアンなのだろう。袴姿で左手を掲げ、薬指で海の彼方を指し示す、きりりとした表情の青年である。その指先は海の向こうのローマへと向けられているそうだ。なかなかに格好がいい。この指先の彼方、はるかローマまで、わたしは行って来たのだ―そう誇らしげに語る声が聞こえてくるかのようである。
 塔内部は資料展示室になっている。ジュリアンの書簡の複製などが展示されているが、三方の壁面が本田利光による壁画で飾られている。ジュリアンの生涯をたどるものだが、場面ごと「中浦ジュリアンの生い立ち」「ヴァリニャーノの来日と天正遣欧使節の派遣」「命がけの長い航海」「あこがれのローマへ」「ジュリアンのローマ教皇謁見」「帰国後の使節たちとジュリアンの決意」「司祭への叙階」「中浦ジュリアンの殉教」とのタイトルが付されている。いかにも本田らしい、柔らかで温かいタッチの作品である。それぞれの絵で基調となっている青や赤や金にどぎつさがなく、本来は強い色であるにもかかわらず淡さが表現されているのがいい。有馬でヴァリニャーノに教わっていたころにはまだ幼かったジュリアンが、独りで教皇に謁見するときには立派な青年になっている様子がよく分かる。そう、独りで……。
 実は中浦ジュリアンは、いのちがけでローマにたどり着いたにもかかわらず、正式な教皇謁見の列には連なることができなかった。1585年3月23日、遣欧使節たちは教皇グレゴリオ十三世の公式謁見を賜った。しかし、教皇庁の軽騎隊やスイス人衛兵に先導されてバチカンの「帝王の間」へと向かった使節は、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノの、正使2名と副使1名であり、そこにジュリアンの姿はない。高熱を出し、医師から外出を禁じられていたのである。
 だがジュリアンは、グレゴリオ十三世教皇に会えなかったわけではない。この辺りの経緯は、史料をもとに松田毅一の筆が感動的に伝えている(『天正遣欧使節』)。ジュリアンは「至聖なるパッパ様に見えることができるならば、いっさいの病は癒える」「パッパ様にお目通りがかなえられたならば死んでも本望だ」と訴えた。だが「とても行列に加わってゆける状態ではなかった。そこで見るに見かねたモンシニョール・アントーニオ・ピンチ猊下が、彼を窓を閉じた馬車に運び込んでヴァティカン宮殿に連れて行った。教皇は、喜んでジュリアンから御足に接吻の礼を受け、また優しく彼を抱擁された。ジュリアンは、そこに留まって公式謁見に臨席を許されたいと懇願したが、教皇聖下は慈愛に満ちて申された。/『今はただ、健康のことだけを考えるがよい。汝が全快することは予の慰めである。また公式謁見は、特に汝独りのみに行ってもよろしい』と」。
 医者がとめるのは当然だったのかもしれない。しかし、今でいえば高校生の年齢の若者なのだ。その無念は察するに余りある。「死んでも本望」とは、嘘偽りのない本心だろう。幾多の危機を乗り越えて、いのちを落とすことなく、はるかローマまでやって来たのだから―。
 すでに老齢にあったグレゴリオ十三世は、この謁見から1か月も経たない3月11日に、この世での生を終えてしまう。3月26日に新教皇シスト五世が選出され、使節たちは、その戴冠式に参列する(5月1日)。とくに伊東マンショは、教皇が「聖なる御手をお洗いになるために水を注」ぐ役割を仰せつかった。この役は「大きい名誉」で「君主であれ、諸侯であれ、そこに列席している誰か身分の高い方にこそ適当な役目」だったそうである(泉井久之助ほか訳『デ・サンデ天正遣欧使節記』)。晴れやかな、あるいは緊張でこわばった青年マンショの表情を想像するのは楽しいが、こんなふうな価値が侍者の役割に付帯されていることには、政教分離のできていない、政治的な権力を有した当時の教会の姿がまざまざと見られて、あまり気分のよいものではないことも確かだ。
 しかし、この晴れの舞台にも、ジュリアンの姿はないようなのである。デ・サンデ『天正遣欧使節記』にもグワルチエリ『日本遣欧使者記』(木下杢太郎訳)にもそうした記述は見られないのだが、フロイスは「ドン・ジュリヤンは猶病中であったから」三人で列に連なったのだと伝えている(『九州三侯遣欧使節行記』岡本良知訳。なお、この史料のみがこれを記録することの不自然さは、大石一久が『天正遣欧使節 千々石ミゲル――鬼の子と呼ばれた男』で指摘している)。ジュリアンはずっと病に伏せていたというのだろうか。いずれにせよ少々の不自然さが感じられなくもない(このあたりの事情に関しては、先行研究がやや錯綜しているかに思う。岡本良知は、回復したジュリアンが4月7日の受難の主日の儀式の列に連なったと『九州三侯遣欧使節行記』の訳注に記していて、その根拠をデ・サンデ『天正遣欧使節記』に求めているのだが、同書には、その式に「ジュリアンはまだ病気であって欠席」したと書かれている。また『九州三侯遣欧使節行記』の巻末に付された「遣欧使節旅行過程表」の4月20日の欄に岡本は「ドン・ジュリヤン全快す」と記しているが、その根拠ははっきりしない)。
 こうしたことから大胆な推測を行っているのが若桑みどりである(『クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国』)。彼女は「どうしても教皇庁はジュリアンを重病にした」かったのだという。「もし私の推測が正しいとしたら、それは東方から来た公子が四人では困るからだ。東方から来た公子は三人でじゅうぶんだ、いや三人でなければならない!/すべてのキリスト教徒はすぐに気づくだろう、アジアから馬に乗ってイエスを礼拝しにきた三人の王がここに再現されたことを」。まさに驚嘆させられる大胆な仮説だが、辻褄は合う。
 時は宗教改革の時代である。カトリック教会にはプロテスタントへの強い対抗意識があった。そこでこのような演出が意図的になされたのであろうというのが若桑の主張である。はるか極東からの使者がカトリック教会のヒエラルキーの頂点であるローマ教皇にかしずく。それも、聖書に記されている幼子イエスを訪問した東方の博士と同じく、3人が馬にまたがってである。これは、教皇の権威が世界の果てにまで及んでいることをヨーロッパ全土に示す、最高のパフォーマンスになる――。
 筋は通っている。だが証拠はない。若桑は次のように述べる。「この四人のなかで、穴吊りの処刑によって殉教し、もっとも壮絶にその信仰を貫いたのがこのジュリアンであったことを思ってみることがわれわれには必要だろう。ミゲルはかなり早く棄教してしまった。大きな権力は無力な個人を平然と踏みにじる。そして、今私が言っていることには珍しく『史料がない』。策略や陰謀にはすべて史料がない。その顔は見えない。しかし、史料のないところで、人間は、その人間にふさわしい行為をし、語られない歴史を作っているのだ」。厳しいことばである。
 ヴァリニャーノはもともと、使節の欧州各所の訪問や教皇謁見をもっと質素なものとするよう考えていた。しかし、彼の意図に反して、彼らは各所で、高貴な身分の東方からの使者として熱烈な歓迎を受け、そのニュースはヨーロッパ全土に広がっていった。だから、バチカンにとっては、ますます彼らを政治的に利用したく、あるいは利用しやすく、お膳立てが整えられたということになろう。先にも書いたが、ヴァリニャーノは、ヨーロッパ社会やカトリック教会の負の側面を使節たちに見せないよう注意を払うべく指示を出した。もし教皇庁が意図的にジュリアンを外したのであれば、残念なことに、政治的な顔を教会がのぞかせるという、とりわけひどい負の側面を、彼らはほかならぬローマにおいて見せつけられたことになる。
 若桑の仮説が正しいかどうかは分からない。しかし、仮にそれが事実だったとすれば、教会におけるそんな人間レベルの嫌な面の犠牲となったジュリアンが最後に殉教を遂げたということ、そのことへの驚きと尊敬が、いや増すばかりである。繰り返すようだが、彼らはいのちがけで航海してきたのである。長崎を出港してからの数年間という重い経験を背負う彼がそんな屈辱を与えられたのであれば、はっきりいって、教会に対する深い懐疑を抱いたとしてもおかしくない。
 駐車場のほうへと戻り、「県指定史跡 中浦ジュリアン出生の地」の案内板を読む。「指定地の北東にある城山には、空堀や土塁などの遺構を残す『中浦城』がある」と記されている。いつもなら、迷うことなく山登りを開始しているところだ。だがこの天候では、いかんともしがたい。
中浦ジュリアン顕彰之碑

中浦ジュリアン顕彰之碑

 この案内板の裏手にはジュリアンの顕彰碑が建っている。少年使節400年を記念して1982年に建てられたこの碑は、なかなか味がある。石垣のような台座の上に半球が載っていて、その上には帆が立っている。半球は地球で、地図が刻まれており、使節たちがたどった道のりが示されている。ぴんと張った帆の形が実に優美で堂々としている。
 車に乗り込み202号をさらに北上、途中で県道43号に入り、もう一度202号に戻って横瀬浦に入る。目的地をめぐる前に、ちょうどいい時間なので、十字架が立つ八ノ子島を沖に眺められる店で昼食をとることにした。この店、道の駅ならぬ「海の駅」だそうだ。
 バイキング形式なので、あれこれ取ってきたものを口に運びながら島を眺める。お椀をひっくり返したような、見事な半球だ。そのてっぺんに十字架が立っているのだから、取っ手のついた蓋か何かのようにも見える。

 もちろん現在立っている十字架がそうであるわけではないが、横瀬浦は大村純忠の領地であり、この島にはキリシタン時代から十字架が建っていた。アルメイダが書簡に書き残している。「当港の入口には円形の高い島が一つあって、その頂上に一基の十字架が立ち、遥か遠方からでも見える。この十字架はかつてその近くで幻影が見られたので立てられた。すなわち、三日間続けて午後に十字架が空中に現れ、翌日、これを見た定航船の司令官ペロ・パレットが前述の十字架を立てさせたのである」(東光博英訳、1562年10月25日付、イエズス会修道士らあて書簡、『十六・七世紀イエズス会日本報告集第Ⅲ期第2巻』)。

 昼食をとっているうちに、幸いなことに雨がやんだ。ずっと悪天候ながらも、この日はしばしばこうした幸運に恵まれた。

 来た道を少し戻って、まずは「南蛮船来航の地」碑を見る。これもいい碑だ。刻まれているのは、1958年から長崎県知事を3期務めた佐藤勝也の書である。堂々とはしているが自己主張が強すぎず(政治家らしからぬ)、いい字だと思う。

 横瀬浦は永禄5(1562)年に南蛮貿易港として開港した。フロイスが日本の地を踏んだのも、ここ横瀬浦においてである。しかし、キリシタン大名である純忠の反対勢力による焼き討ちに遭い、翌年には港は消滅してしまう。

 碑からまた少し進むと、横瀬浦公園の海側の入り口があり、そこにはフロイスの等身大と思われる像が建っている。作家は坂井公明という人なのだが、この像は大変面白い。

 身体を少々かがめて、見上げるといい。そうすると、目鼻立ちのくっきりした中高な美男子であるその顔の背後に、西洋の城壁を模した建造物が見える。これが、なかなかに迫力ある構図となる。左手に抱えているのは聖書ではなくノートなのだそうで(『旅する長崎学6キリシタン文化別冊総集編』参照)、右手は握手を求めるように前に突き出されている。この手の大きさがいいのだ。少し大きめに作られているので、背後の景色との遠近感が強調され、迫力が加算される。
 そんなふうに像を眺めながらつくづく思った。いかに聖職者であるとはいえ、当時の日本人にとっては、こんなに大きくて、鼻も高くて、額も突き出ていて、目玉のぎょろっとした西洋人は、さぞかし威圧感があったことだろう。寂しい漁村の人たちにとっては、同じ人間とは思えなかったかもしれない。一方の宣教師も、なかなか本心を語ろうとはしない日本人の心を開くのに、さぞかし苦労したことだろう。
大村館跡

大村館跡

 階段を上って行くことを避け、ここから公園には入らず再び車に乗り込んで、公園の周囲を半周するかたちで丘の上の入り口を目指すが、手前で横瀬保育所の敷地角に建つ「大村館跡」の碑を見る。古いもので苔むしており、碑文はほとんど判読できない。
 有馬晴信とともに千々石ミゲルをその名代とした大村純忠は、1563(永禄6)年、ここ横瀬浦の教会でトルレスから、家臣とともに洗礼を受けた。キリシタン大名の嚆矢である。アルメイダの証言から、現横瀬浦公園の地に教会が建っていたであろうことが推測されている。つまり純忠は、教会の隣に住んでいたわけだ。もっとも、港の焼失後は居を移している。
 駐車場に車を停め公園に入る。立派な公園である。実は港の入り江を挟んでの対岸は米軍の施設で、「特定防衛施設周辺整備調整交付金」なるものが自治体には入るらしい。この公園の整備にあたっては、そのお金が使われているとのことだ。
横瀬浦公園入り口のオブジェ「洗礼(Baptismo)」

横瀬浦公園入り口のオブジェ
「洗礼(Baptismo)」

 入り口には、大村純忠が家臣とともに洗礼を受ける場面の絵が焼き付けられたタイル壁画のオブジェが建っている。作家はポルトガルのベラ・シルヴァという人だそうだ。コミカルと形容したくなるような独特のタッチが、基調となっている藍色とよくマッチしていて、なかなかに面白い絵である。
 また、体験学習棟という建物があり、いくつかの資料が展示されているが、大航海時代の錨のレプリカが印象的だった。脇には、昨日見たのと同様の南蛮船の模型が飾られている。
 また横瀬浦天主堂の鐘のレプリカなるものもあって、実物は神奈川県大磯の澤田美喜記念館所蔵だと説明されている。澤田美喜記念館については2012年の特集で紹介したが、この鐘が展示されていたという記憶がない。
 さらに、中央の廊下には現在(2012年)と1962年当時の横瀬浦界隈の風景が比較できるよう、両者の写真を上下に並べた額が10点展示されているのだが、この1962年の写真がいずれも「日本二十六聖人記念館提供」となっている。おそらく前館長の結城了悟神父が自らの足で、キリシタンゆかりの地をことごとくめぐっていく中で撮影したものなのだろう。半世紀以上も前のものだ。これも間違いなく貴重な資料である。
 建物を出ようかというとき、廊下の壁にボタンがあって、それを押せば音声解説が流れることに気づいた。嘉松師が押してみる。女性の声で、大村純忠の所領であったころには、この地にはたくさんのキリシタンがいたことが説明される。そして、こんなことばが続いた。「四旬節には、大勢の信者がアレルヤを歌って練り歩き……」。???。嘉松師すかさず「嘘つけ!」との突っ込み。司祭であり、さらには典礼委員会委員なれば、職務上ここで突っ込みを入れないわけにはいかない。粛々と任務遂行、さすがである。それにしても、これは何とかしたほうがいい。作成にあたって、だれか監修してくれる人はいなかったのだろうか。横瀬浦には直接関係ないかもしれないが、世界遺産を機に観光客が増えるかもしれない。ぜひとも修正してほしい。
天主堂跡碑(横瀬浦公園)

天主堂跡碑(横瀬浦公園)

 体験学習棟の横には展望塔が建っていて、その脇には天主堂跡の碑がある。そこからフロイス像方面へと下るところが、アルメイダが教会の前にあったと記している「方形の庭」になっている。アルメイダの記述によれば、現在米軍施設がある対岸には修道院があった。そして「非常に広い石橋が双方の側を結び」、その橋の「袂には、左右に壁を備えた七段ほどの石段があって、その始点は橋と同じ幅を有するが、(先に行くに従って)次第に三倍の幅に広がってい」て、「大きな門」と「方形の庭」があり、その先に教会が建っていたという(前出、東光博英訳)。
 結城神父が撮影したと思われる写真には、50数年前のわびしい集落の様子が写されていた。では、はるか450年前の横瀬浦はどうだったのだろう。教会や修道院は、周囲の風景にどんなふうに溶け込んでいたのだろうか。この地には、大村氏の居宅を除けば、つましい板張りの家屋が点在するばかりであったはずだ。そうした集落の中で、石造りの巨大で壮麗な建造物は、人々の目にどのように映ったのか。敬虔な気持ちへと誘われたのか、はたまた威圧感に圧倒されたのか。
 最後に公園の近くに長崎教区が2008年、すなわちこれもペトロ岐部と187殉教者列福の年に設けた、横瀬浦巡礼地に立ち寄った。運動場の裏手、入り江を臨む場所なのだが、途中の桜並木では、無残にも何本かの樹が根元から倒れていて、すでにチェーンソーで裁断され脇に除けてあった。
 ここからも八ノ子島がよく見える。背景が青空なら、深緑とのコントラストは、どれほど美しいことだろう。悪天候がつくづく恨めしい。
横瀬浦巡礼地

横瀬浦巡礼地

 スチールの十字架に赤御影石の祭壇と朗読台、祭壇後ろに白御影石の椅子が三脚あるばかりの、シンプルな造りの敷地内に立った途端、ここまでなんとかこらえてくれていた雨がついに耐えかねたか、急に激しく地面を打ち始めた。またしてもあわてて車へと戻る。
 202号をそのまま東へ、小迎から北上し、西海橋を渡って佐世保方面へ、三河内からは県道1号を東へ――向かうのは波佐見である。
 西海橋を渡る際、左手に見えるのが旧佐世保無線電信所(針尾送信所)だと嘉松師が教えてくれた。大正時代に作られ、戦時下には重要な役割を果たした電波塔である。高い。豪雨の中でも圧倒的な存在感だ。国の重要文化財だそうである。
 波佐見での目的は一つ、波佐見町総合文化会館の駐車場の一角に建っている原マルチノ像を見ることである。陶器で知られるこの町で、秀才といわれた原マルチノは生を受けた。
 使節は帰国の途上、ゴアでヴァリニャーノと再会する。そのゴアで、使節の中でもっともラテン語の実力があったという原が演説を行った。
 帰国後には、伊東、中浦とともに司祭叙階された原であったが、徳川の禁教令によって国外退去を命じられ、再度日本の土を踏むことなく、マカオで1629年に客死した。
 波佐見町総合文化会館にはすんなり到着したのだが、外は叩きつけるような凄まじい雨で、車から降りることすらかなわなかった。特別な用意があるわけでもないので、無理に外に出て写真を撮影しても、雨粒でレンズの視界が失われるばかりである。仕方がないので、車中から撮影を試み、ズームで液晶画面に細部を映して、なんとか像を鑑賞した。
原マルチノ像

原マルチノ像

 像は「黙 原マルチノの決意」と題されているようで、解説の末尾には「この像は、固い決意を秘めて故郷を離れるときの凛々しい姿です」とある。確かに、細い目で前方をしかと見つめ口をきりりと結んだ表情は凛々しいが、同時に13歳の幼さ、初々しさも、よく表現されている。なんとも可愛らしい顔立ちなのだ。その顔立ちから受け取れる凛々しさと初々しさのバランスが絶妙なのである。激しく降りしきる雨の中で、肩幅に足を広げ、すっくと立ち続ける物言わぬブロンズの少年を、嘉松師と二人でしばしの間、降りしきる雨が流れ続けるフロントガラス越しに眺めていた。傍から見れば、ちょっと変な二人だったかもしれない。
 微妙ながらも、とりあえず目的は果たした。後は大村を訪れれば、この日の計画は完遂。嬉野温泉方面へと車を走らせ、長崎自動車道を南下した。
 大村で最初に訪れたのは、大村純忠史跡公園。長崎自動車道と国道444号が交差するところに位置している。広くはないが、管理の行き届いた綺麗な公園だ。雨に濡れた芝が青々としている。
 茅葺の門をくぐると、右手奥に泉水があるのだが、これは往時のまま残るものだそうだ。奥の小山には石垣状に石が積まれ、手前に泉があり、苔むした大小の石が横たわっている。台風の影響で大量の枝葉が散らばっているので、きれいだとの印象がさほど得られないのが残念だが、茂る青葉が木陰を作っていて、照りつける夏の日差しの中ならば、一服の涼が得られる場所であろう。これまでの十分すぎる雨水を受けて、公園の外へと続く流れには盛んな勢いがあった。
 大村純忠は、亡くなるまでの2年間をこの地で過ごした。南蛮貿易のため長崎を開港した人物としても知られるこの最初のキリシタン大名は、領民に対しキリシタンへの改宗を強要し、領内の寺社は壊滅され、改宗を拒んだ仏僧は追放の憂き目を見た。大友宗麟にしても然りであるが、キリシタン大名にしろ、一部の宣教師にしろ、こうした暴走してしまう面を確かにもっている。
 息子の喜前は信仰を棄てたが、純忠はキリシタンとして生涯を終えた。彼の死の前日の逸話をフロイスが伝えている。
 純忠は、籠の中の一羽の小鳥を放すよう一人の腰元に命じた。だが、その腰元の振る舞いに小鳥への思いやりが足りないと感じて怒りを露わにする。しかし、すぐに我に返って彼女に詫び、「立派な帯」を与えたうえで、こういったという。「これらの小鳥はデウス様が作られたものであるから、予はそれを可愛がっている。それゆえ(今後とも)愛情をもって扱ってほしい」(松田毅一・川崎桃太訳『日本史11西九州篇Ⅲ』)。正直、出来過ぎというか、作られた話、あるいは、いまどきのことばでいうならば「盛られた」話の感がなくもない。「デウス様が作られたもの」は、最初から籠の中になど閉じ込めたりしないほうがいい。
 またここは、日本に来た宣教師たちが日本語を学ぶ学校が設けられた地でもある。フロイスによれば、秀吉による迫害の難を逃れるため、ヴァリニャーノが「(日本)語を習っていた司祭たちはその地のもっと奥まった場所に移るようにと」指示し、純忠が「隠居と称する隠遁生活のために選んだ」、「人々が坂口と呼び新鮮で良い水に恵まれているその地」に日本語学校を移したのだそうだ(松田毅一・川崎桃太訳『日本史12西九州篇Ⅳ』)。
 次は、2016年特集でも紹介した、森園公園の天正遣欧少年使節顕彰之像へと向かう。
 向かって左の位置で、他の3人とはやや離れて、彼方を力強く指さすのが伊東マンショ、後ろに控える3人は、千々石ミゲル、原マンショ、中浦ジュリアンの順である。
天正遣欧少年使節顕彰之像

天正遣欧少年使節顕彰之像

 あらためてじっくり4人の顔を見てみる。すると、ちょっとおもしろい感想を抱いた。4人とも唇を強く引き結んだ凛とした表情をしているのだが、その中で、もっとも厳しい顔つきをしているのがミゲルで、もっとも柔らかいのがジュリアン、なんだかそんなふうに思えたのである。ここまで2人についてあれこれ考えてきたことに影響された、ただの思い込みに過ぎないかもしれないが……。
 ちなみに、作者は壱岐出身の小金丸幾久。東京の大井町駅駅頭に品川区の非核都市宣言のシンボルとして建つ「平和の誓い」像の作者でもある。
 ここは、なかなかに凝った空間で、像の隣には、下にベンチがしつらえてある、帆船をかたどった金属製のオブジェがあり、背後には、やはり帆船の形をした御影石の碑が建っている。この碑は1982年に使節出航400年を記念して建てられたもので、刻まれている「天正遣欧少年使節讃」と題された碑文は、書ととともに福田清人の手によるものである。この児童文学者は波佐見の出身で、旧制の大村中学校(現長崎県立大村高等学校)を卒業している。わたしには、児童文学者の顔よりも、近代日本の小説家の数々の評伝の編者としてなじみがある。
 文章の末尾が鮮やかだ。「長崎出発四百年に当る今年、今は世界の空を結ぶ使節にゆかり深きこの地にその雄図を讃え、併せて若き世代にかかる大志の燃え続けよと、念ずる人々この像を建てる」。空港に近くて、なおかつ使節にゆかりのある地、だからこの公園にこの像は建っているのである。
 多くの観光客にとって長崎に入って最初に目にするランドマークは、おそらくこの像であろう。実際に公園を訪れることはなくとも、リムジンバスの車窓から、大抵の人はこれを目にするはずだ。古くから諸外国と交流してきた長崎、キリスト教との関連を抜きにしてはその歴史を語ることのできない長崎、その地を訪れる人たちを、4人の少年がいつも迎えている。あらためて思ったのだが、それはいたって感じのよいことなのではなかろうか。
 次に訪れたのは、大村喜前によって建てられた大村家の菩提寺である本経寺。墓地には大村家代々の墓がある。境内に入ると、まずは本堂両脇の巨大なソテツの大木に驚かされる。大村市指定の天然記念物だそうだ。頂点の幹を囲むようないくつもの枝分かれした幹が圧巻で、艶のある緑の葉が雨に洗われて、曇天のもとながら鮮やかに輝いている。そして、南洋を演出するのに用いられるこの樹が、古刹の境内に見事に溶け込んでいる。
 大村市教育委員会による解説板によれば、この地には元々「普門坊」という寺院があったのだが、純忠が領民のキリシタン改宗を強力に進める中で教会が建てられ、さらにその後、日蓮宗に改宗した喜前がこの寺を建てたのだという。親は寺を壊して教会を建て、子は教会を壊して寺を建てた。両者とも歴史に翻弄されたことは確かであろうが、結局は為政者の手前勝手な振る舞いでしかない。
本経寺大村家墓碑群

本経寺大村家墓碑群

 さて、大村家の墓碑群であるが、これは圧巻であった。初代藩主喜前から11代藩主純顕までの歴代藩主やその一族、そして筆頭家老であった松浦家の墓などが並んでいるのだが、その中には6メートルを優に超える巨大な塔もある。先の解説板によれば、墓碑が巨大化していったのは、島原の乱を経て禁教がさらに厳しくなった3代藩主純信からだそうで、純忠に繋がる血筋の者たちが、日蓮宗への確かな帰依を必死になってアピールしていたことがうかがえる。潜伏キリシタンが多数発見された郡崩れが起きた際の藩主であった純長の墓は6メートル半もある。台座の上2段分は1個の石を2段の形に削ったものだそうで、石工の高度な技術にも驚かされる。その台座の上に、巨大な笠塔婆が屹立しているのだ。
 喜前の墓は、3代前の当主純伊の墓とともに堂に納められている。火輪の部分がやや反り上がった五輪塔で、他と比較すれば小さな墓石だ。居並ぶ巨大塔の中で、この初代藩主の墓は、どちらかといえば目立たぬものになっている。その小さな墓を眺めながら思った。彼ら一族は、もう当家はキリシタンとは無関係、熱心な日蓮宗徒ですよと、何代もかけてそう喧伝し続けたのであろう。
 次いで天正夢広場へと向かったのだが、あらかじめ嘉松師から、工事中で入れないみたいだよと聞かされていた。とりあえず現地へ行ってみると、やはり囲いに覆われている。工事車両の出入り口から覗き込んで、からくり時計の塔だけは確認した。これもリスボンのべレンの塔を模したものなのだが、2016年特集に書いたとおり、大変凝った造りのものである。この敷地には新たに「長崎県立・大村市立一体型図書館及び大村市歴史資料館」なるものが建てられるのだそうで、広場も市立史料館の建物も解体され、塔だけが残されている状態だ。もちろん、新しい広場でも引き続きシンボルになることだろう。どのような演出がなされるのか楽しみである。
 最後、玖島城跡(大村公園)を訪れる。何とか雨は止んでくれている。桜の名所とのことだが、折れて飛ばされた枝がいくつも見られ痛々しい。
 乱積みの石垣を眺めながら上へと進み、台所口門跡を通って本丸跡に至る。
 玖島城は、1599(慶長4)年に大村喜前が築城した城である。イエズス会脱会後、喜前に仕えた千々石ミゲルは、ここに登城した。
中祖大村喜前公遺徳碑

中祖大村喜前公遺徳碑

 大村神社の他には、さして広くもない空間に碑やら銅像やらが建っている。なかでも、大村藩最後の藩主12代目大村純熈の豪勢な銅像とともに、「中祖大村喜前公遺徳碑」という、こちらは初代藩主をたたえる立派な碑が天を衝いていて一際目につく。市の教育委員会による解説の板には「領地を守るため、キリスト教を棄て日蓮宗に改宗し、本経寺など多くの社寺を建立しました」とある。実は、先に訪れた本経寺の喜前の墓前に立つ板の表現はもっと振るっていて「加藤清正公の教導をうけ、英断を以て日蓮宗に改宗帰依し、大村藩百年太平の基をひらく」と書かれていた。こと信仰についてであるだけに「英断を以て」というのはあんまりではないかとは思ったが、結局打算で流されるだけの人物だったということだろう。とりあえずフロイスの淡泊過ぎる人物評を引用しておく。「息子のサンチョ(喜前)が(ドン・バルトロメウ純忠)の後を継いで(大村家の当主となったが)、まだ若く経験に乏しかったので、その地を統治するには必要な才能にやや欠けるところがあった」(前出『日本史11西九州篇Ⅲ』)。
 この藩主喜前のもとで、ミゲルはどんなふうに仕官生活を送ったのだろう、なぜ生命を狙われたのだろう――そんなことをあれこれ考えつつしばしぶらぶらして、搦手門のほうから下りていった。するとまた雨が降り出してきて、すぐに強い降りになってきた。重ねて書いてしまうが、散々な天気ではあっても、車を降りたときには一時的に雨が止んでいるという幸運が、この日には幾度もあった。そのおかげで、何とか一通りの目的は果たせた。感謝の気持ちを嘉松師にあらためて伝え、車に乗り込んだ。

 7月6日(金)
 朝からひどい降りである。当初この日は少年使節を離れ、2016年の特集の際に日程の都合上行くことができなかった神ノ島教会や伊王島の馬込教会などを訪ねるつもりであった。もちろん行こうと思えば行けるのだが、満足な取材ができる天候ではない。
 だが、初日に行くつもりであったいくつかのところへは、近場でもあり、足を運ばないわけにはいかない。そう考えてホテルを出て長崎駅へと向かい、駅前のバスセンターのコインロッカーに荷物を預け、雨脚が弱まるのをしばし待った。
 少しは状況がよくなったので、まずは西坂を訪れる。以前にも書いたことだが、長崎に来れば必ずこの丘を訪れ、舟越保武の最高傑作、長崎26殉教者記念像の前に立ってきた。今回もやはり来た。あいにくの天気で観光客は見当たらない。静かだ。
 中浦ジュリアンは1633(寛永10)年10月21日、この地で穴吊りの刑によって殉教した。遠藤周作の『沈黙』に登場することで有名なフェレイラは、このとき同じく穴吊りの刑に処せられ、棄教した。
 穴吊り刑は、幕府が考えついたもっとも残虐な拷問である。汚物がためられた穴の中に身体全体を縛られて逆さに吊るされる。簡単には死なないように、つまり、できるならば苦しみに耐えかねて棄教させるために、頭に血がたまらないよう耳たぶに穴が開けられ、鮮血がたえず流れ出るようになっている。
 火あぶりや斬首も残酷であることは間違いない。しかし、そうした刑にあるような、ある種の壮絶な華々しさが、この穴吊り刑にはない。見るものに殉教の栄光を、その勇ましさをいっさい感じさせないよう、醜いなりでのろのろと生を奪っていく。まさに人間の尊厳を徹底的に奪い尽くした、恐ろしい刑である。
 中浦ジュリアンは1632(寛永9)年に小倉で捕らえられた。長崎に引かれ、サン・フランシスコ教会の跡地(現在、市役所別館敷地に碑が建っている)に建てられた牢に囚われた。同じ牢内にあった司祭やイルマンが次々と殺されていく中、なぜかジュリアンは1年近くも牢に留め置かれた。
 捕縛翌年の10月18日、ついに刑が執行されることになり、西坂の丘へと引かれていく。ディエゴ・パチェコ師によれば、刑場に入る際にジュリアンは、「私はローマへ行ったパードレ・ジュリアン中浦神父である」と自己紹介したと伝える報告書があるそうだ(『九州キリシタン史研究』)。もしこれが事実であるならば、少年使節の一員としてローマに渡り、そして帰国して司祭となったジュリアンが、生涯の最後まで持ち続けた矜持が、胸を締めつけるかのごとく伝わってくる。もちろん、福者の揺らぐことのない固い信仰が第一であり根本であることはいうまでもないが、厳しい迫害のさなかにあって、この誇りはジュリアンを支え続けたのだと思う。
 一方、だからこそ思われてならない。同じ矜持が、千々石ミゲルの中では、どのように保たれ、どのように働いていたのであろうかと――。
 ジュリアンがこの世の生を終えたのは、3日後の21日のことである。遺体は焼かれ、遺灰は海に捨てられた。
南蛮船来航の波止場跡碑

南蛮船来航の波止場跡碑

 中町教会に立ち寄った後、雨脚が徐々に強まる中、旧長崎県庁の一角に建つ南蛮船来航の波止場跡碑を見る。結局ここが、今回の旅の最後の訪問地となった。
 1571(元亀2)年に、ポルトガル船とポルトガル人が雇った唐船が初めて来港したことに、長崎港の歴史は始まる。当時この地は岬の突端で波止場があった。天正使節の4少年が船出したのはここからであり、また、高山右近がマニラに追放されたのもここからである。
 このあたりの地形は実に独特だ。坂道が入り組んでいて、下ったかと思えば上ったりと、不思議な起伏に富んでいる。そこを歩いてみることで、何となくではあるが、当時の長く突き出た岬が想像できる。
 まさに南蛮船に乗り込もうとする際の、少年使節4人の夢と不安とを思い浮かべてみる。ミゲルの母は「か程の遠い国へ赴き長い航海をなすからは〔無事に〕帰国することが叶うまいとの暗黙のうちの覚悟」を息子に伝えていたという(前出『九州三侯遣欧使節行記』)。彼らはいずれも13、4歳の少年なのだ。送られる者も送る者も、とてつもない不安を抱えていたはずだ。しかし、船は出た。
 そして8年半の後、少年は青年となり、4人そろって帰国を果たした。当時の大多数の日本人には想像すら及ばない、いのちを奪われる可能性すら十分にあった体験を経て、彼らは成人し、帰国した。
 迎える者たち、迎えられる者たち双方の、さまざまな感情がないまぜになった表情を想像する。使節の4人は、気高い誇りを身にまとっていたことだろう。
 旅の終わりを使節の船出の地にしてよかった―ほっとしたような気持ちで、そう思った。若者の気持ちに寄り添って、心穏やかに締めくくることができる。
 だが、昼食をとるために近くの中華料理店に入り、汗と雨とをぬぐいつつカウンター席からテレビを見上げると、とんでもないニュースが飛び込んできた。オウム真理教の教祖麻原彰晃こと松本智津夫と教団幹部6名、計7名の死刑が執行されたというのだ。画面には記者会見する法務大臣が映っている。この日は、この時間までニュースには接していなかった。だからこのとき初めて、この驚愕のニュースを耳にすることになった。
 スマートフォンが振動する。Cさんから、高速バスが運休になっているようだとのメールが入った。先にも書いたように、この旅の間中、Cさんは何度となくメールをくれて、あれこれと心配してくれた。自分にとっては何らゆかりのない長崎という土地に、これほど自分のことを心配してくれる人がいる――幸せなことだ。しかし、今は画面から目が離せない。簡単に礼をしたためた返信を送り、再びテレビに釘付けになった。
 なぜ……、しかも7名も……。
 20歳代のころのことになるが、この不思議な宗教団体が、幾人ものエリートの若者を信者として獲得し、彼らが教祖の野望に従わされるかたちで凶悪犯罪へと手を染めていき、ついには地下鉄サリン事件という未曾有のテロを引き起こしたことには強烈な衝撃を受けた。インターネットが普及する以前のことだったので、雑誌を買い漁り、テレビの特集番組を片端から見て、何が起きているのか、彼らが何を考えているのかを必死に知ろうとした。当時、学生時代の恩師が主宰していたドストエフスキー作品を読む集まりに参加していたこともあって、『悪霊』を手掛かりにして事件を読み解くようなことを、恩師とも、また先輩や友人との間でも盛んに論じ合ったものだ。実行犯である教団幹部の面々とはほぼ同世代であること、そして洗脳されてしまった彼らが、実はまじめで、ひたむきに真理を求めようとしていたことも、事件への興味を募らせる大きな要因だった。そして、宗教というものが、これだけ恐ろしいものになりうることに、ひたすら慄然としていた。
 ただの思想集団ならば、これだけの狂気の団体にはならなかっただろう。彼らがここまでの凶悪事に手を染めたのは、間違いなくオウムが宗教集団であったからだ。信じる、帰依するということに基づくがゆえ、先導者次第で極端な暴走にも至るのである。
 もちろん、オウム真理教と同列に語るつもりはいっさいないし、そんなことをしても何の意味もなく、両者に共通する背景や心理などが指摘できるわけでもない。それは誤解してほしくない。しかし、今回の旅では、信仰者の暴走、その証拠の一端に接してきた。そして、その旅の最後にこの報道に接したことは、ちょっと偶然とは思えなかった。
 一連の裁判は、多くの謎を残したまま終えられた。知りたいとのわたしの思いは、あまりにも満たされていない。それは多くの日本国民にとっても同じであろう。麻原と主要幹部の死刑が執行されたことで、謎の追求がすべて永遠に途絶されてしまった。
 そして何よりも、一法治国家において国家の手により、この日一日だけで7人ものいのちが奪い取られたのである。東京拘置所では3人が、大阪拘置所では2人が……、流れ作業のように……。戦慄を覚えた。ちょうどこのときタイの洞窟では、一気に押し寄せた雨水に出口をふさがれ、計13人の青年と少年が2週間にわたって閉じ込められ、救助を待っていた。なんとか全員が無事救出されてほしいと、世界中が祈っていた。そんな中で日本国は、7人の人間を「法に従って粛々と」殺したのである(この後7月26日に、残り6人の死刑も執行された。日本国はわずか一月で、タイの洞窟に閉じ込められたと同数の、13人もの人間を殺害した―)。
 平成のうちに、オリンピックの前に……、そんなことばがテレビから流れてくる。耳を疑った。まったく意味が理解できない。そんなことが、片方には人命が載っている天秤皿に載せられるべきことなのか……。
 悲劇である。憤りを覚える悲劇である。人間のしわざ、人間の手による悲劇である。せめてここから、多くを考え、多くを学ばねばならない。そして、この国がこんな愚行を二度と犯すことのないよう、声を上げねばならない。その決意が、今回の旅の締めくくりとなった。 (奴田原智明)


特集2 奉仕者が知っておきたい「新しい『ローマ・ミサ典礼書の総則』に基づく変更箇所」
カトリック中央協議会出版部・編

 「新しい『ローマ・ミサ典礼書の総則』に基づく変更箇所」(日本カトリック司教協議会、2015年6月刊。以下「変更箇所」)が2015年11月29日より各共同体で実施され始めてから3年が経とうとしています。当初は多少なりとも混乱があったのではないでしょうか。定着した共同体もあれば、周知がいまだ不十分なところもあるかと思います。
 「総則」といえば、司祭が理解すればいいものと思われがちですが、今は、信徒が積極的にミサの準備にかかわることも珍しくなく、侍者やオルガニスト、聖歌奉仕者など、ミサにかかわる奉仕者への指導が信徒に任されている教会も増えていて、信徒もまた学ぶべきものでもあります。
 この特集では、「変更箇所」をいっそう周知すべく、信徒の奉仕者が認識しておかなければならないことがらをいくつか取り上げます。
 また、それにあたっては「日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針」(日本カトリック司教協議会、2014年11月刊。以下「指針」)、「聖体授与の臨時の奉仕者に関する手引き」(日本カトリック典礼委員会、2015年1月刊。以下「手引き」)なども参考にしています。
 なお、本特集では、便宜上、内陣で司祭の役目を手助けする奉仕者を「侍者」、聖歌隊や聖歌先唱者を「聖歌奉仕者」と表現することにします。


1.準備

1)内陣の席

  • 司祭と他の奉仕者の席は明確に区別する。
    内陣に設ける司式司祭、助祭と、他の奉仕者の席とは、明確に区別されるよう配置します。助祭の席は司式司祭の近くに、聖体の臨時の奉仕者や侍者の席は教役者の席とは区別するようにします。
    (「変更箇所」294、310参照)

2)司祭の祭服

  • カズラはストラの上に着用する。
    カズラはストラの上に着用するものです。
    (「変更箇所」119、337参照)

3)祭壇

  • 祭壇布は白色のものを用いる。
    祭壇布は白色と決められています。
  • ろうそくの本数は、主日は4本もしくは6本。
    祭壇上もしくは祭壇の近くに用いるろうそくの本数は、どの祭儀においても、少なくとも2本、とりわけ主日のミサや守るべき祝日の場合は4本もしくは6本、また、教区の司教が司式する場合は7本を置くようにします。
  • 十字架は磔刑のキリスト像のついたものを用いる。
    祭壇上あるいは祭壇の近くには、「磔刑のキリスト像」のついた十字架を置きます。その十字架は、ミサ以外のときにも置いておくのが望ましいとされています。
  • 花による装飾は大げさにならないように。
    祭壇の前や脇には花を飾ることができます。ただし、聖堂の中心はあくまでも祭壇ですので、花が目立ちすぎないよう注意しましょう。日本では、待降節や四旬節にも花を飾ることができますが、節度を守ることが大切です。
    (「変更箇所」117、304、308、305参照)


2.奉仕者

1)朗読奉仕者(朗読者)

  • 朗読奉仕は信者の務め。
    ミサの中で聖書を朗読する務めは、洗礼によって受けた祭司職の行使です。そのため、福音以外の朗読は信徒が担います。また、主の受難の朗読を除いて一つの朗読を複数の人で分けて朗読することはできません。
    (「変更箇所」59、109参照)

2)共同祈願

  • 共同祈願も信者の務め。
    共同祈願は信者の祈りともいわれ、意向を唱える務めは洗礼によって受けた祭司職の行使ですので、助祭、先唱者、朗読奉仕者、信徒が担います。
  • 共同祈願者の意向は朗読台で唱えることができる。
    意向は、朗読台もしくは他のふさわしい場所から唱えます。
    (「変更箇所」71、138参照)

3)聖体授与の臨時の奉仕者

  • 正式に任命された信徒が臨時に聖体の授与を担うことができる。
    聖体は通常、ミサを司式する司教・司祭と助祭が授与しますが、司式者が病気や高齢で聖体を授けることが困難な場合、あるいは拝領者が非常に大勢でミサが大幅に長引く場合で共同司式司祭がいないときには、信徒の臨時の奉仕者が聖体を授与することができます。
  • 奉仕者の座席は、内陣あるいは会衆席の前方に設ける。
    奉仕者が入堂行列に加わる場合、その席は内陣に、加わらない場合は会衆席の前方に設けます。
  • 奉仕者としてふさわしい服装を。
    奉仕者は、アルバもしくはふさわしい服装を着用します。平服の場合は、胸に十字架を下げることなどで、奉仕者であることを示すこともできます。
    (「手引き」3、4、15、16参照)


3.ミサ全体に関して

1)オルガンや他の楽器の使用

  • 待降節や四旬節には、オルガンや他の楽器の使用に注意が必要。
    ミサにおいてオルガンや他の楽器は、歌の伴奏のほかに、奉納行列や聖体拝領の際や、ミサの前後などに楽器のみで奏楽することができます。しかしながら待降節には、主の降誕の喜びを先取りしないような節度が必要です。また四旬節では、第4主日と祭日・祝日を除き、楽器は歌を支えるためだけに使用します。
    (「変更箇所」313参照)

2)沈黙

  • 沈黙は、ミサ中のみならず、ミサが始まる前とミサの後も守る。
    聖堂は祈りの場ですから沈黙を守るのはいうまでもありませんが、ミサの行動的参加として、ミサが始まる前とミサの後にも沈黙するよう求められています。聖堂内はもちろんのこと、香部屋(祭具室・準備室)や聖堂に隣接する場所でも沈黙を守る配慮が必要です。
    (「変更箇所」45参照)

3)栄光の賛歌

  • 歌い出しを聖歌奉仕者にゆだねることができる。
    通常、栄光の賛歌の歌い出しは司式司祭が行いますが、聖歌奉仕者にゆだねることもできます。
    (「変更箇所」53参照)

4)ことばの典礼における沈黙

  • 朗読後に沈黙のひとときをおく。
    第1朗読と第2朗読の後には、朗読された神のことばを味わうために、沈黙のひとときを取ります。
    (「変更箇所」56、128、130参照)

5)答唱詩編

  • 可能なかぎり歌う。
    答唱詩編は可能なかぎり歌うよう求められています。詩編を歌うことが難しい場合も、答唱句が会衆によって歌われるようにします。
    (「変更箇所」61参照)

6)福音朗読前の応唱(アレルヤ唱・詠唱)

  • 唱句は聖歌奉仕者が歌う。
    アレルヤ唱(詠唱)の唱句は聖歌奉仕者が歌い、会衆は「アレルヤ」の部分を歌って参加することになっています。聖歌奉仕者がいない場合には、これまでどおり唱句も全員で歌うことができます。
    (「変更箇所」62参照)

7)供えものの準備

  • 奉納の歌は奉納行列を行わない場合も歌うことができる。
    供えものを運ぶ行列が行われない場合も、供えものの準備の間、歌を歌うことができます。
  • 奉納されたパンとぶどう酒を祭壇に置くのは司式司祭の務め。
    運ばれたパンとぶどう酒を祭壇の上に置くのは司式司祭の務めです。祭壇奉仕者や他の奉仕者がいる場合、これらの奉仕者がパンとぶどう酒を司祭に手渡します。
  • 祭壇に置くのはパンとぶどう酒のみ。
    献金などの他の奉納物は、祭壇ではなく他の場所に置きます。
    (「変更箇所」74、75、140参照)

8)聖体授与の臨時の奉仕者の注意点

  • 祭壇に近づくのは司祭の拝領後に。
    奉仕者は、司祭が拝領してから祭壇に近づきます。
  • 奉仕者自身は、司祭、助祭から聖体を拝領する。
    奉仕者が、パテナの上の聖体を自分で取って拝領すること、また祭壇の上に置かれたカリスを自分で取って御血を拝領することはできません。
  • 祭壇に置かれた聖体容器を奉仕者自身で取ることはできない。
    聖体授与に向かうとき、祭壇の上に置かれたパテナもしくはカリスを奉仕者が自ら取ることはできません。必ず司式司祭が手渡します。
    (「変更箇所」160、162、「手引き」19、20、21)

9)聖体拝領後の片づけ

  • 残った御血を侍者が拝領することはできない。
    残った御血は、助祭と正式に選任された祭壇奉仕者が拝領します。聖体授与の臨時の奉仕者や侍者が祭器をすすぐことはできません。
    (「変更箇所」163、279、284、「手引き」25参照)



新しい『ローマ・ミサ典礼書の総則』に基づく変更箇所」、「日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針」、「聖体授与の臨時の奉仕者に関する手引き」は、カトリック中央協議会のWebサイトで公開しています。典礼委員会のページにリンクがあります。

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