教皇フランシスコ、2023年4月2日受難の主日ミサ説教

 

教皇フランシスコ、2023年4月2日受難の主日ミサ説教
(福音朗読箇所 マタイ27・11―54)

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)。これは、今日の典礼の中で、答唱詩編(詩編22・2参照)の一節で繰り返される叫びです。また、今日耳にした福音の中で、十字架にかけられたイエスが発せられる唯一の叫びでもあります。これらのことばは、まさにキリストの受難の中心へとわたしたちを導きます。つまり、わたしたちの救いのために、主が耐えられた苦しみの頂点です。「なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

 イエスの苦しみは数多く、主の受難の話を聞くたびに、わたしたちのこころは刺し貫かれます。身体的に苦しまれました。平手打ちを受け、殴られ、鞭打たれ、いばらの冠を被らされ、最後には、十字架につけられたという残忍さを思い起こしましょう。こころも苦しまれました。ユダの裏切り、ペトロの否認、祭司長たちと民の長老たちによる糾弾、兵士たちからの侮辱、十字架の下でのあざけり、群衆からの拒否、弟子たちの失態と逃走がありました。しかし、これらの悲しみの中で、イエスは一つのことに確信を持ち続けられました。それは、御父は寄り添ってくださるということです。けれどもここで、考えられないことが起こりました。亡くなる前、イエスはこう叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。イエスの見捨てられたという思いがあふれたのです。

 すべての苦しみの中で、もっとも鋭い痛み、魂の苦しみを感じられた瞬間でした。もっとも悲惨な痛みを感じられていた瞬間、イエスは神から見捨てられることを経験されます。その瞬間の前まで、イエスは御父を決してその総称である「神」とは呼ばれませんでした。ことの重大さを伝えるため、福音書ではイエスのことばをアラム語でも記しています。これらは十字架に付けられたイエスから聞かれる唯一の母国語でのことばです。御父に見捨てられ、神に見捨てられたと思われたのですから、実際に起きたことは極度の屈辱です。わたしたちに対する愛ゆえにイエスが受けられた大きな苦しみがどれほどのものかを、理解することさえ、わたしたちには困難です。イエスは天の国の門が閉まるのをご覧になり、無常の縁に佇んでいるようにお感じになり、また人生の完全な挫折を、確固たるものの崩壊をお感じになり、こう叫ばれます。「なぜ」と。この「なぜ」には、今までに話されたすべての「なぜ」が含まれます。「神よ、なぜ」と。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。聖書の中で、「見捨てる」ということばは、強力な意味を持ちます。このことばは、極度の苦しみの瞬間に聞かれます。例えば、愛が期待を裏切ったとき、または愛を拒否され、裏切られた瞬間、拒否され、中絶される子どもたちから、夫を亡くした女性たちや親を失った子どもたちへの支援のない状況で、婚姻関係が破綻したとき、社会的に排除され・不正義を感じ・抑圧されたとき、病気によって孤独を感じたときなどです。一言で言えば、わたしたちと他者とを結んでいた絆が極端な形で断ち切られるような時です。このような時に「見捨てられた」と言います。キリストはこれらすべてを十字架へ持って行かれました。キリストの両肩に、この世の罪を背負われたのです。そして、その最期の時に、御父の唯一の愛された御子であるイエスは、ご自分の存在とはまったく無縁の経験をなさいました。つまり、見捨てられ、神から遠く離れてしまったと思われたのです。

 なぜそのようなことになってしまったのでしょう。それは、わたしたちのためです。それ以外の答えはありません。わたしたちのためです。兄弟姉妹の皆さん、今日の福音箇所は単なる劇ではありません。イエスの見捨てられた叫びを聞き、わたしたち一人ひとりが、それはわたしのためだったと言えるはずです。主の見捨てられた状態は、わたしのためにイエスが払ってくださった代償です。最後に至るまで完全に、そして確実に、わたしたちとともにいてくださる方となるために、わたしたち一人ひとりとともにいてくださいました。わたしたちを絶望のとりこのままにさせないために、また、永遠にわたしたちとともにいてくださるために、イエスは見捨てられる状態を経験されたのです。それはわたしや、あなたのためでした。なぜなら、わたしやあなたや他の誰かが、壁に突き当たり、袋小路に迷い込み、見捨てられるという奈落の底に落ち、答えのない多くの「なぜ」という混乱の中に陥っても、それでも希望を見出せるようにするためです。あなたのため、わたしのために、イエスご自身という希望を見出せるようにするためです。それで終わりではありません。というのも、イエスはそこにいてくださいましたし、今でさえもあなたのそばにいてくださるからです。わたしたちが感じ得るあらゆる隔たりを、イエスが愛のうちに、担ってくださるために、見捨てられたという(神との)距離を耐えてくださいました。ですから、わたしたちは皆、こう言えるでしょう。「わたしが失敗したとき――わたしたちは皆何度も失敗をしてきました――、悲嘆に暮れるとき、裏切られたと感じたり、相手を裏切ってしまったとき、見放されたと感じたり、他者を見放してしまったりしたとき、見捨てられたと感じたり、他者を見捨ててしまったりしたときはいつでも、見捨てられ、裏切られ、見放されたイエスのことを考えましょう」。そこで、わたしたちはイエスと出会えます。喪失感を味わい、混乱し、もう前へ進めないと感じるとき、イエスはわたしたちのそばにおられるからです。答えの出ない「なぜ」という疑問のただ中にも、イエスはそばにいてくださるのです。

 わたしたちが入り込む「なぜ」という疑問の中から、主はわたしたちを救い出してくださいます。その疑問の内側から、主は、期待を裏切ることのない希望という視野を開いてくださいます。十字架上で、完全に見捨てられたとお感じになったときでさえ――これは究極の最期です――、イエスは絶望に屈することを拒否されました。その代わり、祈り、信頼されました。イエスは詩編(22・2)のことばで「なぜ?」と叫ばれ、ご自身を御父のみ手に委ねられました(ルカ23・46参照)。どれほど御父から距離を感じ、あるいは、見捨てられたとお感じになり、御父の存在を感じられないような状態であってもです。見捨てられたとお感じになったとき、イエスは御父を信頼し続けられました。見捨てられたと感じられたときに、イエスを独りぼっちにさせたまま逃げてしまった弟子たちを、それでも愛し続けられました。見捨てられたと感じられたときに、十字架に付けた人々をおゆるしになりました(同34節)。ここで、わたしたちの多くの悪の深淵は、より大きな愛の底に沈んでいきます。その結果、わたしたちの孤独は交わりへと変わっていきます。

 兄弟姉妹の皆さん、このような愛、つまり、わたしたちを完全に、最後に至るまで包み込んでくださる、イエスの愛は、石のように固くなったわたしたちのこころを、柔らかな生きたこころへと変えてくださるでしょう。イエスの愛は、いつくしみと優しさと思いやりの愛なのです。寄り添い、優しさ、思いやりというのが、神のスタイルです。神はそのような方です。見捨てられたとお感じになったとき、キリストは、わたしたちに主を探し、主と同時に、同じく見捨てられたと感じている人々を愛するようにと招いておられます。なぜなら、その人たちの中に、困っている人々だけでなく、見捨てられたイエスご自身を見るからです。イエスは、人間として、底辺にまで下りてきて、わたしたちを救ってくださいました。また、イエスは見捨てられ、そのまま死に至った人、一人ひとりとともにいてくださいます。あるドイツ人の、いわゆる「路上生活者」の人を思い出します。その人は、サンピエトロ広場を囲む柱廊の下で亡くなりました。見捨てられ、独りぼっちの状態で。彼はわたしたち皆のイエスです。とても多くの人が寄り添いを求めていながら、多くの人が見捨てられています。わたし自身も、イエスに抱擁していただきたい、そばに来ていただきたいと、イエスを必要としています。ですから、わたしは孤独で、見捨てられた人々の中にイエスを探しに行くのです。イエスは、イエスのような状況の兄弟姉妹、極度の苦しみや孤独に耐えている兄弟姉妹たちの世話をすることを、わたしたちに望んでおられます。親愛なる兄弟姉妹の皆さん、今日、そのような状況の人の数は増えています。以下のような人々は搾取され、見捨てられています。路上で生活する貧しい立場に置かれた人。わたしたちはその人たちを見て見ぬふりをしています。もはやそれぞれの顔ではなく、数にされてしまった、故郷を離れざるを得なくなった人。縁を切られた受刑者。「問題」だとして忘れたことにされる人。また、他にも無数の見捨てられた人々が、わたしたちの中に、見えない、隠れた状態で、あるいは分かっていながら見捨てられています。生まれる前の子どもたちであり、一人で暮らす高齢者がそうです。その人たちは、あなたのお父さんやお母さん、お爺さんやお婆さんだったかもしれません。それが、施設で一人、残されているのです。訪ねてくる人のいない病気の人であったり、無視されている障がい者であったり、内面の大きな虚無感を抱えて苦しむ若者たちであったり、誰も彼らの痛みの叫びを聞く用意がありません。そうして、自殺以外の道を見出せなくなるのです。わたしたちの時代の見捨てられた人たちです。わたしたちの時代の「キリストたち」です。

 イエスご自身も、見捨てられたご経験から、自分自身が見捨てられたと感じているすべての人に対して、わたしたちの目とこころを開くよう求めておられます。「見捨てられた主」の弟子として、わたしたちは、いかなる男女も子どもも、社会ののけ者と考えることはできません。誰も独りぼっちで放っておかれてはいけないのです。拒絶され、排除された人々はキリストの生きている象徴だということを覚えておきましょう。その人たちは、あらゆる種類の孤独と孤立から、わたしたちを救い出してくださる主の危険を顧みない愛と見捨てられたご経験を、わたしたちに思い起こさせてくれます。兄弟姉妹の皆さん、今日、次の恵みを願いましょう。見捨てられたとお感じになるイエスを、そしてわたしたちの周りにいる見捨てられた人々の中におられるイエスを愛することができますように。そのような人の中で、叫び続けておられる主を見出し、認識できる恵みも願いましょう。無関心によってかき消された静けさの中で、主の声を無視してしまうことがありませんように。神はわたしたちを独りぼっちのままにはなさいません。わたしたちも、孤独を感じ、見捨てられたと感じている人々に、こころを向けましょう。そうして、そうしてこそ、わたしたちのために「自分を無にして」(フィリピ2・7)くださった方と、一つの思い、一つのこころになれるのです。主はわたしたちのために、完全にご自身を無にしてくださったのです。

(この訳は暫定訳であり、カトリック中央協議会発行書籍に掲載された時点で差し替えます。)

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