教皇フランシスコ、2025年4月13日受難の主日ミサ説教

 

教皇フランシスコ、2025年4月13日受難の主日ミサ説教
(福音朗読箇所 ルカ19・28-40)

2025年4月13日(日)午前10時(日本時間午後5時)からサンピエトロ広場で、レオナルド・サンドリ次席枢機卿司式によりささげられた受難の主日ミサにおける説教。説教は教皇により準備されたものをサンドリ枢機卿が代読した。2月14日から38日間にわたる入院生活を終えて3月23日に退院した後、ドムス・サンクタエ・マルタエで療養生活を送っている教皇は、この日のミサを司式しなかったが、ミサの最後に姿を現してミサ参加者に挨拶した。



 「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」(ルカ19・38)。イエスがエルサレムに入られたとき、群衆はこうイエスを祝福しました。メシアはご自分のために開かれた聖なる都の門を通って入られました。この方は、数日後に、同じ門を通って、今度はののしられ、罪に定められて、十字架を背負いながら、都を出ていくことになります。

 今日わたしたちもイエスに従います。初めは、祭りの行列によって、次いで、苦しみの道を通って。それは、わたしたちに主の受難と死と復活を祝う準備をさせる聖週間を始めるためです。

 群衆の中の兵士の顔や女性たちの涙に目を向けているわたしたちは、一人の見知らぬ人に注意を引き付けられます。この人の名前は福音書の中に突然現れます。シモンというキレネ人です。兵士たちはこの人を捕まえて、「十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」(ルカ23・26)。このときシモンは田舎から出て来て、そこを通りかかり、彼を圧倒する出来事に出会いました。重い木が肩にのしかかるように。

 わたしたちは、カルワリオ(ゴルゴタ)への道を歩むにあたり、ひと時、シモンの「行い」を思いめぐらしたいと思います。彼の「心」を探り、イエスのそばでの彼の「歩み」に従いたいと思います。

 まず、シモンの「行い」はあいまいです。実際、一方で、このキレネ人は十字架を運ぶことをしいられます。彼がイエスを助けたのは、確信をもってではなく、強制によってでした。他方で、彼は主の受難に個人的にあずかりました。イエスの十字架はシモンの十字架となりました。しかし彼は、常に師であるかたに従うことを約束した、ペトロと呼ばれるシモンではありませんでした。「主よ、御一緒になら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22・33)。このシモンは、こう叫んだ後に、裏切りの夜に、姿を消しました。今、イエスに従って歩いているのは、この弟子ではなく、キレネ人です。しかし師であるかたははっきりとこう教えておられました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9・23)。ガリラヤのシモンは言葉では話しましたが、実行しませんでした。キレネ人のシモンは実行しましたが、言葉では話しませんでした。彼とイエスの間では何の対話もありませんでした。一言も発せられませんでした。彼とイエスの間にあったのは十字架の木だけでした。

 キレネ人が、その苦しみにあずからなければならなかった、弱り切ったイエスを助けたのか、憎んでいたのかを知るためには、すなわち、彼が十字架を担ったのか、我慢して支えたのかを理解するには、彼の「心」に目を向けなければなりません。神の心はいつも開かれています。ご自分の憐れみを示す苦しみによって刺し貫かれています。しかし、人間の心は閉ざされています。わたしたちはキレネ人の心の中にあるものが分かりません。彼の立場に身を置いてみたいと思います。わたしたちが感じるのは怒りでしょうか、憐れみでしょうか。悲しみでしょうか、不快感でしょうか。シモンがイエスのために行ったことを思い起こすなら、わたしたちは、イエスがシモンのために――わたしのために、あなたのために、わたしたちすべてのために――してくださったことも思い起こします。イエスは世をあがなってくださいました。キレネ人が運んだ木の十字架は、すべての人の罪を負ってくださったキリストの十字架です。キリストは、御父に従い(ルカ22・42参照)、わたしたちへの愛のために十字架を担ってくださいました。キリストはわたしたちとともに、わたしたちのために苦しんでくださいます。この予期せぬ驚くべきしかたで、キレネ人は救いの歴史に巻き込まれました。救いの歴史の中では、誰もよそ者でもなければ、外国人でもないからです。

 次に、シモンの「歩み」に従いたいと思います。シモンは、イエスがあらゆる状況の中で、わたしたちと出会うために来てくださることをわたしたちに教えてくれるからです。カルワリオへの道で憎しみと暴力を浴びせる男女の群衆に目を向けながら、わたしたちは、神がこの道をあがないの場に変えてくださったことを思い起こさなければなりません。神は、わたしたちのためにご自分のいのちをささげるために、この道を歩かれたからです。どれだけ多くのキレネ人がキリストの十字架を担っていることでしょうか。わたしたちはこのキレネ人たちを思い起こしているでしょうか。わたしたちは戦争と悲惨によってしいたげられた彼らの顔のうちに主を見いだしているでしょうか。悪の不正の残忍さの前で、キリストの十字架を担うことは空しいことではありません。むしろそれは、救いをもたらすキリストの愛にあずかる、もっとも具体的な形です。

 わたしたちが、もう歩けない人々に手を差し伸べるとき、倒れた人を抱き起こすとき、失意のうちにある人を抱きしめるとき、イエスの受難は憐れみとなります。兄弟姉妹の皆さん。この憐れみの偉大な奇跡を体験するために、聖週間の間、どのように十字架を担うか、決心しようではありませんか。肩にではなく、心に十字架を担おうではありませんか。自分の十字架だけではなく、わたしたちの近くで苦しんでいる人の十字架も担おうではありませんか。もしかすると、見知らぬ人の十字架が、偶然――はたしてそれは本当に偶然でしょうか――わたしたちと出会うのではないでしょか。互いにキレネ人となることによって、主の過越の用意をしようではありませんか。