教皇フランシスコ、2025年4月18日、十字架の道行の黙想と祈り
導入
カルワリオ(ゴルゴタ)への道は、わたしたち皆が日々歩む道のただ中を通ります。主よ、わたしたちはふだん、あなたとは逆の方向に歩いています。そのため、わたしたちがあなたのみ顔に出会い、あなたの眼差しと交わることが生じます。わたしたちはいつもの道を進みますが、あなたがわたしたちのほうに歩いて来られます。あなたの目はわたしたちの心を見通します。するとわたしたちは、何事もなかったかのように進むのをためらいます。わたしたちは振り向き、あなたに目を向け、あなたに従うことができます。わたしたちはあなたとともに歩み、向きを変えるのがよいことを悟ります。
マルコによる福音書(10・21)
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
イエスがあなたのみ名です。まことにあなたにおいて「神は救う」のです。呼びかけてくださるアブラハムの神、与えてくださるイサクの神、解放してくださるイスラエルの神よ。エルサレムを通られる主よ。あなたの眼差しのうちにすべての啓示が含まれています。都を出て行かれるあなたの歩みのうちに、新しい地に向けてわたしたちはエジプトを脱出します。あなたは世を造り変えるために来られました。それはわたしたちにとって、向きを変え、あなたの歩みのいつくしみを見、わたしたちの心の中であなたの目の記憶を働かせることです。
十字架の道行は、動く祈りです。それはわたしたちのふだんの歩みを中断し、倦怠から喜びへと向かうことです。まことに、イエスの道には価値があります。すべてのものに値段をつけるこの世では、無償であることは高価です。しかし、与えられることによって、すべてが花開きます。さまざまな派閥に分裂し、戦争によって引き裂かれた都は和解に向けて歩みます。ひからびた宗教は神の約束の豊かさを再発見します。石の心は肉の心に変わることができます。「来て、わたしに従いなさい」。必要なのはこの招きを聞くことだけです。そして、愛の眼差しに信頼することです。
第一留
イエス、死刑の宣告を受ける
ルカによる福音書(23・13-16)
ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
このようにはなりませんでした。ピラトはあなたを釈放しませんでした。しかし、これとは別のことが行われる可能性もありました。これがわたしたちの自由の劇的な賭けです。主よ。あなたはこのようにわたしたちを尊重してくださいました。あなたはヘロデもピラトも、友も敵も信頼しました。あなたはご自分をわたしたちの手にゆだねる信頼を取り消しません。わたしたちはそこから驚くべきことを学び取ります。どうすれば不当に訴えられた人を解放し、複雑な状況を見極め、死刑判決に反対できるかを。ヘロデさえも、あなたに引き付けられ、聖なる不安に従うことがありえました。しかしヘロデは、最後にあなたを前にしても、そうしませんでした。イエスよ。十字架の道は、わたしたちがすでに何度も失敗した可能性です。わたしたちは認めます。わたしたちは離れることを望まない役割に捕らわれています。方向を変えることのわずらわしさを気にかけています。あなたは再び、静かにわたしたちの前におられます。裁きや偏見にさらされたすべての姉妹・兄弟のうちに。他者の運命にわたしたちを関わらせない、宗教的議論、法的なこじつけ、いわゆる良識――何千もの理由がわたしたちを、ヘロデ、祭司、ピラト、群衆の側に引き寄せます。しかし、そうならないことも可能です。イエスよ。これらすべてのことから手を洗わないでください。あなたは沈黙のうちに愛し続けます。あなたは選択をなさいました。今度はわたしたちの番です。
祈り(繰り返し):イエスよ。わたしたちの心を開いてください。
わたしの前に裁かれた人がいるとき…
わたしの確信が偏見にすぎないとき…
わたしがかたくなであるとき…
善いことがひそかにわたしを引き付けるとき…
勇気をもちたいのにやり直すのを恐れるとき…
第二留
イエス、十字架を担う
ルカによる福音書(9・43b-45)
イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。
イエスよ。何か月もの間、もしかすると何年もの間、あなたは重荷を担っておられました。あなたがそのことを語っても、誰もあなたに聞こうとはしませんでした。抵抗は打ち勝ちがたく、考えることさえしませんでした。あなたは十字架を求めはしませんでしたが、十字架がご自分に近づいてくるのを、ますますはっきりと感じられました。あなたは十字架を受け入れました。その重荷だけでなく、責任を感じられたからです。イエスよ。あなたの十字架の道は、上り坂だけではありませんでした。それは、あなたが愛した人々、神が愛された世への下り坂でもありました。それは応答であり、責任を受け入れることでした。十字架には価値があります。深い絆や、大きな愛に価値があるのと同じように。あなたが担われた重荷は、あなたを動かした息について語ります。それは、「主であり、いのちの与え主」である聖霊です。わたしたちはなぜ、このことを問うほど、恐れるのでしょうか。実際、わたしたちは責任を逃れようとあえいでいます。わたしたちにできるのは、逃げるか、とどまるかだけです。あなたが与えてくださった人々から、あなたがわたしたちを置かれた場所から。わたしたちは自分を彼らと結びつけます。そうすることによってのみ、わたしたちは自分に捕らわれるのをやめられることを見いだすからです。利己主義は十字架よりも重荷です。無関心は分かち合うことよりも重荷です。預言者はいいました。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザ40・30-31参照)。
祈り(繰り返し):主よ、わたしたちを疲れから解放してください。
自分のことが心配なとき…
他の人に自分をささげる力がないことから身を守るとき…
責任を逃れるために言い訳を探すとき…
自分に分かち合える才能と能力があるとき…
不正を前にして心がおののくとき…
第三留
イエス、初めて倒れる
ルカによる福音書(10・13-15)
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」
イエスよ。あなたは、あなたにとって親しい場所について、初めて聞くようなきわめて厳しいことを話されます。あなたのことばの種は、あなたがなさったすべての解放のわざのように、空しさへと落ちるように思われます。預言者は皆、失敗の空しさに落ちるのを感じます。そのようにして初めて、彼らは神の道を再び歩みます。イエスよ。あなたの道はたとえ話です。あなたがわたしたちの地に空しく落ちることはありません。あなたの最初の失望は、喜びによって中断されます。あなたが遣わした弟子たちが宣教から戻って来て、神の国のしるしをあなたに語ったからです。そのときあなたは、心からの喜びにあふれて、力に満ちて飛び上がりました。あなたは御父をほめたたえました。御父はそのご計画を知恵ある者や賢い者には隠して、小さな者に現されたからです。十字架の道も、地の底にまで向かいます。天に触れることを望んだ、力ある者はそこから引き離されます。しかし、天はこの地上にあり、地へと引き降ろされます。わたしたちは落ちて、地にとどまるとき、天に出会うのです。バベルの建設者たちはわたしたちに語ります。失敗者たちに場所はなく、落ちた者は失われるのだと。これが地獄の工事現場です。しかし、神の計画は、殺すことも、捨てることも、押しつぶすこともありません。それは謙遜で、地に忠実です。イエスよ。あなたの道は至福の道です。あなたの道は、破壊せず、耕し、直し、守ります。
祈り(繰り返し):神の国よ、来てください。
失敗したと感じている人々のために…
人間を殺す計画に立ち向かうために…
倒れた人が力を取り戻すために…
競争社会で人々が一番を追い求めるときに…
人々が国境にあって、旅が終わったと感じているときに…
第四留
イエス、聖母マリアに会う
ルカによる福音書(8・19-21)
さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。
あなたの母が十字架の道の途中におられます。マリアはあなたの最初の弟子です。あなたの母は、慎重な決意のもとに、これらのことを心に収め、思い巡らす知性をもって、そこにおられます。マリアは、あなたを胎に受け入れるかどうか問いかけられたときから、あなたに向かっておられました。マリアはご自分の道をあなたの道と重ね合わせました。それは犠牲ではなく、カルワリオ(ゴルゴタ)に至るまでの、継続的な発見でした。あなたに従うことは、あなたを歩ませることでした。あなたを所有することは、あなたの新しさに場所を譲ることでした。すべての母親は、子どもが自分を驚かせることを知っています。愛された御子よ。あなたは知っておられます。あなたの母、あなたの兄弟とは、聞いて、変えられる人であることを。言葉だけでなく、行う人であることを。神にとって、ことばは行為であり、約束は実現です。御母よ。あなたは十字架の道で、このことを覚えている数少ない人々の一人でした。今、あなたの子はあなたを必要としています。あなたの子は、あなたが絶望しないことを知っておられます。あなたの子は、あなたが胎内でみことばを生み続けることを知っておられます。イエスよ。わたしたちもあなたに従うことができます。わたしたちはあなたに従った人々から生まれたからです。わたしたちも世にあって、あなたの母と数知れない証人たちの信仰にとどまります。彼らは、すべての人が死を語るところで、いのちを生み出したからです。当時、ガリラヤには、あなたを見ようと望む人々がいました。今、あなたがカルワリオに上って行かれるとき、あなたは、聞いて行う人たちの眼差しを探し求めます。それは言い表すことのできない一致です。揺るぎない契約です。
祈り(繰り返し):見なさい。あなたの母です。
マリアは、聞いて、語ります…
マリアは、問いかけ、考えます…
マリアは、家を出て、勇敢に旅をします…
マリアは、喜び、慰めます…
マリアは、受け入れ、世話をします…
マリアは、いのちを賭けて守ります…
マリアは、裁きとあざけりを恐れません…
マリアは、とどまり、待ち望みます…
マリアは、導き、同伴します…
マリアは、死に打ち勝ちます…
第五留
イエス、キレネのシモンの助けを受ける
ルカによる福音書(23・26)
人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
シモンは進んで行ったのではなく、人々が彼を捕まえました。シモンは仕事から帰る途中で、死刑の宣告を受けた人の十字架を背負わされました。シモンはふさわしい体格をしていたのかもしれませんが、目指していたのは別のことでした。彼の計画は別のことでした。しかし、わたしたちはこのようなしかたで神と出会います。イエスよ。キレネのシモンという名は、あなたの弟子の中でやがて忘れられない名となりました。十字架の道には、彼らも、わたしたちもおらず、シモンだけがいたからです。これは今日でもいえることです。誰かが自分のすべてを与えたときに、人は別の所にいるか、逃げていることもできますし、あるいは、そこに居合わせることもできます。イエスよ。わたしたちはこう思います。わたしたちがシモンの名を覚えているのは、この思いがけない出来事がシモンを永遠に変えたからです。この後、シモンはあなたのことを考え続けました。シモンはあなたのからだの一部となりました。彼は、あなたが死刑の宣告を受けた他の人々とは異なることの直接の証人となったのです。キレネのシモンは、尋ねることもせずにあなたの十字架を背負いました。あなたがかつて述べた軛のように。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタ11・30参照)。動物でも、一緒に進めばよく働きます。イエスよ。あなたはあなたの仕事にわたしたちを巻き込むことを愛されます。地を耕し、新たに種をまくためです。わたしたちはこのあなたの驚くべき軛を必要としています。わたしたちは、時として、わたしたちを呼び止め、背負わざるをえない、何らかの現実の重荷を負わせる人を必要としています。たとえ一日中働いても、あなたがいなければ空しく消えてしまいます。神が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦も、町を見守る人の働きもむなしいのです(詩127編参照)。十字架の道で、新しいエルサレムが立ち上がります。わたしたちも、キレネのシモンと同じように、道を変えて、あなたとともに働くことができますように。
祈り(繰り返し):主よ。わたしたちの歩みを強めてください。
わたしたちが道を進み、誰の顔も見ることがないとき…
わたしたちがニュースに心を動かされないとき…
人間が人数になってしまうとき…
人の話を聞く時間がないとき…
いやいや決断をするとき…
計画の変更を受け入れられないとき…
第六留
イエス、御顔を、布に写させる
ルカによる福音書(9・29-31)
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
詩編(27・8-9a)
心よ、主はお前に言われる
「わたしの顔を尋ね求めよ」と。
主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。
御顔を隠すことなく、怒ることなく
あなたの僕を退けないでください。
イエスよ。わたしたちは御顔のうちにあなたの心を見いだします。わたしたちは御目のうちにあなたの決意を見いだします。あなたの決意は御顔を刻み、顔立ちによって明確な気遣いを示します。あなたはわたしにしてくださったように、ヴェロニカに目を留められました。わたしも御顔を尋ね求めます。あなたの顔は、息を引き取るまでわたしたちを愛そうとする決意を物語ります。愛は死のように強いからです(雅8・6参照)。わたしたちの心は御顔によって造り変えられます。わたしたちはこの御顔を見つめ、心に納めます。あなたは日々、すべての人の顔のうちにご自身を与えられます。これらの人々はあなたの受肉の生きた記念だからです。実際、わたしたちがもっとも小さい人々に向かうたびごとに、彼らがあなたのからだの一部であり、あなたがわたしたちとともにとどまっておられることに気づきます。このようにしてあなたは、わたしたちの心と表情を照らしてくださいます。こうしてわたしたちは、人々を追い返すのではなく、受け入れるようになります。十字架の道で、わたしたちの顔も、御顔と同じように、ついには輝いて、祝福を与えるようになります。あなたはわたしたちのうちに、あなたの記念と、あなたが帰って来られることへの期待を刻印してくださいました。そのときわたしたちは、あなたを一目見ただけで分かるでしょう。おそらくそのとき、わたしたちはあなたと似たものになるでしょう。こうしてわたしたちは、顔と顔とを合わせ、終わりのない対話を行い、うむことなく交わり、神の家族となるのです。
祈り(繰り返し):イエスよ。あなたの記念をわたしたちに残してください。
わたしたちの表情が生気を失ったとき…
わたしたちの心が冷ややかになったとき…
わたしたちの行いが分裂したとき…
わたしたちの選択が人を傷つけたとき…
わたしたちの計画が人を仲間外れにしたとき…
第七留
イエス、再び、倒れる
ルカによる福音書(15・2-6)
すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」
倒れて、再び立ち上がること。倒れて、再び立ち上がること。イエスよ。これが、あなたが人生の出来事から学ぶように、わたしたちに教えてくださったことです。人間的であるとは、開かれていることです。わたしたちは機械が失敗することを許しません。わたしたちは機械が完全であることを期待します。しかし、人間は、よろめき、気を散らし、迷います。にもかかわらず、人間は喜びを知っています。それは、新しく始め、生まれ変わる喜びです。人間は機械的に生産されるものではなく、手仕事で生み出されます。わたしたちは、恵みと責任が組み合わさった、かけがえのない作品です。イエスよ。あなたはわたしたちの一人となってくださいました。あなたはつまずき、倒れることを恐れませんでした。つまずき、倒れることを恥じる人、無謬の振りをする人、自分が倒れたことを隠し、人が倒れたことは許さない人は、あなたが選んだ道を拒みます。イエスよ。あなたは喜びの主です。わたしたちは皆、あなたによって見いだされ、連れ帰られます。見失った羊と同じように。99匹のほうが1匹よりも価値がある経済は、非人間的です。けれどもわたしたちはこのように動く世界を作り出しました。それは、計算とアルゴリズムの世界、冷たい論理と仮借のない利潤の世界です。主よ。あなたの家の法、すなわち神の計画は、それとは異なります。倒れても、再び立ち上がるあなたに向かうとき、わたしたちの航路と歩調は変わります。それは、喜びを再び与え、わたしたちを家に連れ帰ってくれる、回心です。
祈り(繰り返し):神よ。わたしたちの救いよ。わたしたちを再び立ち上がらせてください。
わたしたちは時として泣き出す子どもです…
わたしたちは不安を感じる青少年です…
わたしたちは多くの大人によって無視される若者です…
わたしたちは過ちを犯した大人です…
わたしたちは再び夢見ることを望む高齢者です…
第八留
イエス、エルサレムの婦人たちを慰める
ルカによる福音書(23・27-31)
民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
そのとき、人々は山に向かっては、
『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、
丘に向かっては、
『我々を覆ってくれ』と言い始める。
『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
主よ。あなたは女性たちのうちに神の心との特別な一致を見いだします。そのため、その日、あなたを取り巻き、あなたに従った多くの群衆の中に、あなたは女性たちを見いだし、改めて彼女たちとの特別な一致を確認しました。その町に子どものいる女性たちがいるとき、女性たちが子どもを育てているとき、町は変わります。そのとき、わたしたちは、要するに地域の住民名簿を認識するだけでなく、町の中の事柄を意識します。あなたは、責務として憐れみの式を行う女性たちの心を打ちます。実際、出来事がつなぎ合わされ、思考と決断が生まれるのは、心においてです。「わたしのために泣くな」。神の心はご自身の民のために震え、新しい町を生み出します。「自分と自分の子供たちのために泣け」。実際、すべてを新たに生まれさせる涙があります。しかし、再考の涙が必要です。この涙を恥じることはありません。この涙を密かに隠すことはありません。ああ主よ。分裂し、傷ついたわたしたちの社会は、その場かぎりの涙ではなく、本当の涙を必要としています。さもなければ、終末の予言が実現します。わたしたちはもはや何も生み出さず、すべては崩壊します。しかし、信仰は山をも動かします。山々と丘がわたしたちの上に崩れ落ちることはありません。むしろわたしたちのただ中に道が開かれます。イエスよ。それはあなたの道です。それは上り坂の道です。この道で使徒たちはあなたを見捨てましたが、あなたの女性の弟子たち――教会の母たち――はあなたに従いました。
祈り(繰り返し):イエスよ。わたしたちに母の心をお与えください。
あなたは教会の歴史を聖なる女性たちで満たしてくださいました…
あなたは暴虐と支配をものともしませんでした…
あなたは母親たちの涙をお受けになり、それを慰めてくださいました…
あなたは女たちに復活の知らせをゆだねました…
あなたは教会の中で新しいカリスマと感覚を力づけてくださいます…
第九留
イエス、三度、倒れる
ルカによる福音書(7・44-49)
そして、〔イエスは〕女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
イエスよ。あなたは一度や二度だけではなく、再び倒れました。すべての幼子と同じように、すでに幼子のときから、あなたは倒れられました。このようにしてあなたは、わたしたちの人間性を理解し、受け止められました。人間は、倒れ続けるからです。罪はわたしたちを人から遠ざけます。しかし、罪のないあなたの存在は、あなたをすべての罪人に近づかせ、切り離すことができないしかたであなたをあなたの倒れた者と結びつけます。このことが人を回心へと動かします。これは、他人とも自分とも距離をとる人々にはつまずきです。あるべき存在と現実の存在の間で二つに分裂して生きる人々には、つまずきです。イエスよ。あなたの憐れみの前で、あらゆる偽善は倒れます。わたしたちの仮面も、美しい外見も、もはや役に立ちません。神は心をご覧になります。神は心を愛されます。神は心を温めてくださいます。こうしてあなたは、わたしを再び立ち上がらせ、これまで旅したことのない、勇気ある、寛大な道を歩ませてくださいます。イエスよ。罪までもゆるしてくださるあなたは、いったい何者なのでしょうか。十字架の道で、再び地面に倒れたあなたこそ、地上の救い主です。わたしたちはこの地上に住むだけでなく、そこから形づくられました。あなたは有能な陶工のように、地上で、再びわたしたちを形づくってくださいます。
祈り(繰り返し):わたしたちはあなたの手の中の粘土です。
何も変えることができないように思われるときに、わたしたちを思い出してください…
争いに終わりが見えないときに、わたしたちを思い出してください…
技術(テクノロジー)がわたしたちに全能感の幻想を抱かせるときに、わたしたちを思い出してください…
繁栄がわたしたちを大地から引き離すときに、わたしたちを思い出してください…
わたしたちの心が見せかけのものに捕らわれるとき、わたしたちを思い出してください…
第十留
イエス、衣をはがれる
ヨブ記(1・20-22)
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。
「わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。」
このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
衣をはいだのはあなたではなく、人々です。イエスよ。その違いはわたしたち皆に明らかです。わたしたちを愛する者だけが、わたしたちの裸の姿を受け入れ、自分の手と目で受け止めます。しかし、わたしたちは、わたしたちを知らず、ただ所有することしかできない人々の目を恐れます。衣をはがされ、すべての人にさらされても、あなたは、屈辱を親しみへと造り変えます。あなたは、ご自分を滅ぼそうとする者にさえ、親しくご自身を示そうと望まれます。あなたは、あなたから衣をはがす人々を、御父があなたに与えた、愛する者として見いだします。ここにヨブとその信仰以上の忍耐があります。あなたは花婿に受け入れられ、触れられ、すべてを善に変える花嫁です。あなたは衣をわたしたちに残します。焼き尽くされた愛の記念のように。衣はわたしたちの手の中にあります。あなたがわたしたちの間に、わたしたちとともにおられるためです。わたしたちはあなたの衣を手に取り、くじで分けます。しかし、くじを引き当てるのは、一人ではなく、すべての人です。あなたはわたしたちの一人一人を知っておられます。わたしたち皆を、皆を、皆を救うためです。もし教会が今日、引き裂かれた衣のように見えるなら、あなたのたまものの上に築かれたわたしたちの兄弟愛を編み直すすべをわたしたちに教えてください。わたしたちは、あなたのからだであり、切り離すことのできないあなたの衣であり、あなたの花嫁です。わたしたちは一つです。測り縄は麗しい地を示し、わたしたちは輝かしい嗣業を受けたからです(詩16・6参照)。
祈り(繰り返し):あなたの教会に平和と一致をお与えください。
主イエスよ。あなたはご自分の弟子たちが分裂しているのをご覧になります…
主イエスよ。あなたはわたしたちの歴史の傷を担ってくださいます…
主イエスよ。あなたはわたしたちの愛の弱さをご存じです…
主イエスよ。あなたはわたしたちがご自分のからだとなることをお望みになります…
主イエスよ。あなたは憐れみの衣をまとわれます…
第十一留
イエス、十字架に釘づけにされる
ルカによる福音書(23・32-34a)
ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕
身動きが取れないほど恐ろしいことはありません。けれどもあなたは、釘づけにされ、身動きが取れないように押さえつけられています。しかしあなたは、一人きりではなく、他の人とともにおられます。十字架上でも、神がわたしたちとともにおられることを示そうと決意しておられるからです。啓示は、とどまることも、釘づけにされることもありません。イエスよ。あなたは、どんな状況にあっても選択を行えることをわたしたちに示してくださいます。これが自由のすばらしさです。あなたは十字架上でも中立ではありえません。あなたは誰のためにそこにいるかをお決めになりました。あなたはご自分と一緒に十字架につけられた二人の人に注意を向けます。あなたはその一人のあざけりを意に介さず、もう一人の願いを聞き入れました。あなたはご自分を十字架につけた人にも注意を向け、自分たちが何をしているのか知らない人々の心を読み取られます。あなたは天に目を向けます。あなたは天が晴れることを望みましたが、あなたの願いの光によって神殿の垂れ幕は避けました。実際、釘づけにされたあなたは願われました。あなたはさまざまな集団のただ中に、反対する人々の間に、身を置かれたのです。そしてあなたは彼らを神へともたらします。あなたの十字架が壁を打ち壊し、負債を帳消しにし、判決を破棄し、和解を打ち立てるためです。あなたこそがまことの聖年です。イエスよ。わたしたちをあなたへと立ち帰らせてください。十字架に釘づけにされたあなたは、すべてのことがおできになるからです。
祈り(繰り返し):わたしたちに愛することを教えてください。
わたしたちが強いときも、弱いときも…
わたしたちが不当な法律や決定にしばられているとき…
わたしたちが真理と正義を望まない人々の反対を受けるとき…
わたしたちが絶望の誘惑に負けそうになるとき…
人々が「すべきことは何もない」というとき…
第十二留
イエス、十字架上で死去される
ルカによる福音書(23・45-49)
太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
わたしたちはカルワリオ(ゴルゴタ)のどこに立っているでしょうか。十字架の下でしょうか。近くでしょうか。遠くでしょうか。あるいは、使徒たちのように、わたしたちはもはやそこにいないのでしょうか。あなたは息を吐かれました。この最初で最後の息は、願いが聞き入れてもらえることだけを願います。主イエスよ。わたしたちの道をあなたのたまものに従わせてください。あなたのいのちの息が失われないようにしてください。わたしたちの闇は光を求めます。わたしたちの神殿は常に開き続けていることを望みます。今や聖なる方は垂れ幕の奥におられません。あなたの神秘はすべての人に示されました。百人隊長はこのことを悟りました。彼はあなたが死に行くさまを間近に見て、新たな形の力を見いだします。あなたに対して叫んだ群衆もこのことを認めました。最初は離れていた彼らは、見たことのない愛の姿に出会いました。この愛のすばらしさが、人々の信仰をよみがえらせます。主よ。あなたはご自分が死に行くさまを見ていた人々に、胸を打ちながら帰って行く機会を与えてくださいました。彼らが胸を打ったのは、自分のかたくなさを打ち砕くためです。イエスよ。しばしばあなたを遠くから見ているわたしたちに、あなたを生き生きと思い起こさせてください。あなたが来られる日に、死さえもわたしたちが生きていることを見いだすことができますように。
祈り(繰り返し):聖霊、来てください。
わたしたちは主の傷から離れたままでいました…
わたしたちは倒れた兄弟を目にしても、反対側を通りました…
わたしたちはみじめな人、貧しい人を敗者とみなしました…
信じる者も、信じない者も、あなたの十字架の下に立ちます…
全世界は新しい始まりを求めます…
第十三留
イエス、十字架よりおろされる
ルカによる福音書(23・50-53a)
さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろし〔た〕。
あなたのからだはついに善良な正しい人の手にゆだねられました。イエスよ。あなたは死の眠りに包まれていますが、決意に満ち、生き生きとした心によってあなたは担われます。ヨセフは、話をしたことも何かをしたこともありませんでした。福音書はいいます。「同僚の決議や行動には同意しなかった」。これは良い知らせです。イエスよ。人の意見に同調しない人が、あなたを抱きとめます。自分の責任を果たそうとする人が、あなたの世話をします。イエスよ。あなたは、「神の国を待ち望んでいた」アリマタヤのヨセフのひざに抱かれます。あなたは、希望する人に、不正が避けられないと考えるのを受け入れない人に、抱かれます。イエスよ。あなたは免れがたい鎖を砕きました。わたしたちがともに暮らす家と兄弟愛を破壊する機械を打ち砕きました。あなたは、ファラオの前に立つモーセ、ピラトの前に立つアリマタヤのヨセフのように、御国を待ち望む人に、権威に立ち向かう勇気を与えてくださいます。あなたは大きな責任を担う力をわたしたちに与えてくださいます。わたしたちに勇気を与えてくださいます。このようにして、あなたは、死んでも、すべてを治め続けられます。イエスよ。わたしたちにとっても、あなたに仕えることが、治めることです。
祈り(繰り返し):あなたに仕えることが、治めることです。
わたしたちが、飢えている人に食べ物を与えるとき…
わたしたちが、のどが渇いている人に飲み物を与えるとき…
わたしたちが、裸の人に着せるとき…
わたしたちが、旅人に宿を貸すとき…
わたしたちが、病人の世話をするとき…
わたしたちが、牢にいる人を訪ねるとき…
わたしたちが、死者を葬るとき…
第十四留
イエス、墓に葬られる
ルカによる福音書(23・53b-56)
亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。
イエスよ。決して止まることのない世界のシステムの中で、あなたは安息をとられます。女性たちもこのことを体験しました。香料と香油はすでに復活を物語ろうとします。何かを待つことだけが求められているとき、どうか何もしないことを教えてください。地上の季節をわたしたちに教えてください。地上は人工物だけではないからです。イエスよ。墓に葬られたあなたは、わたしたち皆が共有する状況をご自分のものとし、わたしたちが深く恐れる陰府にまで降られました。あなたは、わたしたちが多くの活動によってそこから逃れようとするのをご覧になります。わたしたちはしばしば堂々巡りをしますが、安息日があなたの光を輝かせます。安息日は、わたしたちに教えてくれます。わたしたちに休むことを要求します。神的な生活、人間的な生活――それこそが、安息日の平和を知っています。これが、預言者ミカが預言したことです。「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」(ミカ4・4)。ゼカリヤもそのことを繰り返していいます。「その日には、と万軍の主は言われる。あなたたちは互いに呼びかけて、ぶどうといちじくの木陰に招き合う」(ゼカ3・10)。世の嵐の中で眠っておられるように見えるイエスよ。わたしたち皆を安息日の平和へと連れて行ってください。そのとき、被造物全体は、復活へと定められた、その美しさと善さを表します。そのとき、あなたの民とすべての国民に平和が訪れます。
祈り(繰り返し):あなたの平和が来ますように。
大地と空気と水のために…
正しい人にも正しくない人にも…
見捨てられた人、声を上げることのできない人に…
権力をもたない人にも、貧しい人にも…
正義が芽生えることを待ち望む人に…
結びの祈り
「「ラウダート・シ、ミ・シニョーレ」――「わたしの主よ、あなたはたたえられますように」。この美しい賛歌のことばによって、アッシジの聖フランシスコはわたしたちに思い起こさせます。わたしたち皆がともに暮らす家は、〔……〕姉妹のような存在であ〔ることを……〕。この姉妹は、神から賜ったよきものをわたしたち人間が無責任に使用したり濫用したりすることによって生じた傷のゆえに、今、わたしたちに叫び声を上げています」(教皇フランシスコ回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』1-2)。
「「フラテッリ・トゥッティ(兄弟の皆さん)」。アッシジの聖フランシスコはこのことばを、すべての兄弟姉妹に語りかけるために、そして福音が香る生き方を勧めるために用いました」(教皇フランシスコ回勅『兄弟の皆さん』1)。
「「あなたはわたしたちを愛してくださいました」。聖パウロはキリストについてこう述べます。それは、いかなるものも、この愛から、わたしたちを引き離すことはできないことを悟らせるためです」(教皇フランシスコ回勅『ディレクシット・ノス』1)。
わたしたちは十字架の道行を歩んできました。わたしたちは、いかなるものも引き離すことのできない愛に目を向けます。今、王である方が眠り、大いなる沈黙が全地に下りたこのとき、聖フランシスコのことばを自分のものとして、心からの回心の恵みを祈り求めようではありませんか。
至高の栄光に満ちた神よ、
わたしの心の闇を照らしてください。
正しい信仰と
確かな希望と
完全な愛と
深い謙遜をわたしにお与えください。
主よ。知恵と理解をわたしにお与えください。
あなたの真実で聖なる御心を行うことができますように。アーメン。