
YOUCAT Foundationは、YOUCATシリーズの4作品に前書きを寄せた前教皇フランシスコへの追悼文とともに、今夏の青年の祝祭(ユース・ジュビリー)にて発表予定であった結婚についての新刊『YOUCAT 永遠の […]
この原稿を公にしたのは、YOUCAT Love Foreverには、新教皇レオ14世の前書きを掲載する見通しを得たためです。それに伴い、同書の刊行時期の延期も発表されています。
教皇フランシスコの前書きが収録された既刊本は、DOCAT(社会教説)、YOUCAT-Bible(青年向け聖書)、YOUCAT for Kids(幼児向け要理書)、そして2025年2月に刊行された新装版YOUCAT(日本語版では今後の重版分に掲載予定)です。
YOUCATシリーズ2作品を翻訳出版している当協議会としても、教皇フランシスコへの感謝を込め、収録が見送られることとなったLove Foreverの前書きと、新装版YOUCATへの前書きを訳出し、若者への励ましとして紹介いたします。
青年へ注がれた愛の遺産
『YOUCAT -永遠の愛』に寄せた教皇フランシスコのメッセージ
以下の文章はもともと、『YOUCAT 永遠の愛』の前書きとなるはずでした。この書籍は青年たちがキリスト教の結婚に進む大切な道を歩む手助けとなるよう企画されたもので、数週間後に刊行予定です(日本語版は刊行予定なし)。教皇フランシスコは、青年に対する愛の喜びを学びながらの情操教育をいつも大切にしておられ、ご自分の体験をもとに、シンプルで真心のあることばで語ろうとなさいました。
比喩、記憶、希望がふんだんに散りばめられたこのメッセージは、単なる序文以上のものです。全世界の青年あての霊的遺言ではないでしょうか。永遠の愛を信じなさい、「使い捨て」の愛に満足してはいけない、生き方を変えうる秘跡に向けてしっかり準備しなさい、という信頼と励ましを込めた最後の訴えです。教皇は、男女のかかわりの美しさと複雑さを象徴するタンゴの思い出を伝え、それを忠実な愛のたとえにします。そして青年たちに、すべてを誓うことを、無条件に与え尽くすことを恐れてはならないと招き、こういわれます。――なぜなら、愛によるきずなを得た人は何も失わず、満ち足りるからです。
この文章は、道を照らす光であり続けるでしょう。若い人のことばに言い換えられえた、『愛のよろこび』の響きとして――。青年を深く愛しておられた教皇からの贈り物として――。
愛する友の皆さん
わがふるさとアルゼンチンには、わたしが愛してやまない踊りがあります。わたしも若いころはよく踊りました。――タンゴです。タンゴは男女の間で自由に交わされる、エロティックで魅惑たっぷりの、すばらしい駆け引きです。男女の踊り手は互いに誘い合い、絡んだり離れたり、色っぽく、まなざしを向け合い、リズムと品位に身を置きます。二人は愛の喜びを味わいながら、自らを完全に差し出すとはどういったことであるかを直観的に解するのです。おそらく、結婚についてのわたしの重要な使徒的勧告を『愛のよろこび(Amoris Laetitia)』と題したのは、遠い記憶にタンゴがあったからでしょう。
愛し合う若者が、その愛を優れた何かに変えていこうとする果敢な姿を見ると、いつも胸が熱くなります。「死が二人を分かつまで、あなたを愛したい」――途方もない約束です。もちろんわたしに、そして皆さんにも、現実が見えていないわけではありません。今の時代、3年、5年、7年で破綻する結婚は少なくありません。皆さんのご両親にも、その大胆さで結婚という秘跡に踏み出したものの、愛を貫けなかったかたがいるかもしれません。だからといって、痛みを避けて、束の間の踊りのように触れ合い、それぞれ遊び興じて離れていく――、それでいいのでしょうか。
そんなふうには思わないでください。愛を信じなさい。神を信じなさい。一生をかけた愛の冒険に向かえるのだと信じてください。愛は、決定的なものであろうとするものです。「当面の間」、それは愛ではありません。人間には、無条件に受け入れられたいとの欲求があります。そのように受け入れられた経験のない人は、往々にして、自覚のないまま一生の傷を抱えることになります。ですがきずなを得た人は、何も失わずに、すべてが満たされるのです。満たされた人生です。
聖書の記述は実に明白です。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2・24)。一体となるのです。イエスはこうしたことを、究極にまで押し上げます。「二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」(マルコ10・8)。一つの肉体。一つの家。一つの生活。一つの家族。一つの愛。
神の忠実な愛を土台に、皆さんが関係を築いていくのを支えるよう、わたしは全教会に対し、皆さんのためにいっそう本気で取り組むよう呼びかけました。これまでのように、大半はきれいな式のことを考えるだけというようではだめなのです。だから数年後には別れてしまいます。信頼が砕かれ、傷はいえないままです。片親の子が大勢います。わたしにはそれが、悲惨なタンゴに見えます。タンゴには学ぶべき踊り方があります。結婚や家庭についてならなおさらです。結婚の秘跡を授かるまでに、ふさわしい準備が必要です。いってしまえば入門期(カテクメナート)の学びです! 人生は愛のうちに繰り広げられるものであって、愛は冗談にできるものではないからです。
カテクメナートというのは聞き慣れないことばかもしれません。初代教会では、キリスト者になりたい人は皆、カテクメナート(入信準備期)と呼ばれる段階を経なければなりませんでした。学びと決意の確認のための歩みで、それはしばしば数年にわたりました。結婚の秘跡にも、わたしはそれと同じような養成期間があってほしいと願い続けてきました。失望や、無効な結婚や不安定な結婚から、皆さんを守ることができるでしょう。
YOUCATがこの提案を受け入れてくれたと知り、どれほどうれしかったことか――。数年前この企画を耳にし、30か国の若いカトリック信者が参加していると知ったとき、そのチームに、『愛のよろこび』を読んで、それを若者向けのことばで伝えてほしいとお願いしました。それをなし遂げてくれたものがここにあります。この本は、結婚の秘跡への道のりの理想的な手引きです。愛の喜びを魅力的にそして前向きに語っていますが、だからといって、ともに生きる人生をまっとうするまでの道にある落とし穴を無視することもしません。
結婚の準備にはいろいろありますが、結婚の入門期と呼ぶにふさわしい準備にとっては、この本を基本書として読んでください。そして結婚講座にも必ず参加してください。講座は厳しければそれだけよいものです。この本について、カップルで、あるいは仲のいいカップルどうしで話をしてみてください。『愛のよろこび』にわたしはこう書きました。「若々しい愛のまま躍動し(踊り)続けてください。希望に満ちた驚きの目をもっての躍動(踊り)を止めてはなりません」。
あなたの教皇フランシスコ
YOUCAT[カトリック教会の青年向けカテキズム]新版(2025年2月5日刊)に寄せた教皇フランシスコの前書き
愛する若者の皆さん
愛こそが、教会の存在する最大の理由です。ここでいう愛は、何よりもまず、父である神が一人ひとりに抱いておられる優しさといつくしみのことです。子であるイエスはその愛を、その生涯と死と復活を通してわたしたちに注いでくださいました。わたしたちがキリスト者となるのは、この愛ゆえです。まさしくこの愛を、聖霊の働きによって、また信じる者の共同体で、とりわけ主日に交わることによって、わたしたちは繰り返し味わっているのです。ですが、わたしたち信者がイエスに抱く愛についてもお話ししたいと思います。このかたは、わたしたちの心の中心であるかたです。わたしたちを愛に、御父の愛――これ以上のものを想像できるでしょうか――に、あずからせてくださったかたに、まことの思慕を抱かないはずはありません。ですから信者は例外なく皆が、イエスに恋する者でもあるのです。
ここから分かるのは、キリスト者となる道は本来出会いから始まるということです。ベネディクト16世はそれを、最初の回勅『神は愛』の冒頭にいみじくも記しています。「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁(こうまい)な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです」(1)。キリスト者であるというのは、イエスに出会ったということであり、また、イエスに恋しているということでもあるのです。
さて愛する若者の皆さん。「愛する人について語ることにも、その人を他人に紹介することにも、その人を知ってもらうことにも必要性を感じない愛とは、一体何なのでしょうか」(『福音の喜び』264)。ですから、信仰において先に大人となったわたしたちは、イエスについて語らずにはいられません。イエスを知る機会に恵まれずにいる人に、詳しく知らずにいる人たちに、あかしせずには、伝えずにはいられないのです。福音宣教の甘い喜びはまさに、イエスに対する自分たちの愛を、全世界に届ける喜びです。
今皆さんが手にしたこの見事な本は、まさにそうした愛から生まれたものです。信者が抱くイエスへの愛です。YOUCATは、皆さんのような若者向けに著された『カトリック教会のカテキズム』です。かの『カトリック教会のカテキズム』を土台としつつも、皆さんが、キリスト者の生き方を、イエスに出会い、イエスと親しくなるという、とてつもなく魅力的な冒険として経験できる――そうわたしは確信しています――文体と構成で組み立てられています。イエスのことば、行い、地上での使命、そして究極として、十字架での死と復活の栄光へと至る、人類に注がれる偉大な愛、それらに触れることができるはずです。
ですから、信頼してこの本を読んでください。あえてこういいましょう。この本を大好きになってください。これは愛の実りだからです。気づくはずです。この本が目指すのは、皆さんの内にイエスへの大きな愛を呼び起こすこと、あるいは再び目覚めさせること、それだけです。それに尽きるのです。教皇ベネディクト16世は、旧版の前書きでこのカテキズムを指して、鋭く熱いことばをつづっています。それを胸に刻むべきです。「このYOUCATもまた、わたしたちの運命について語り、わたしたち一人ひとりに深くかかわるものだから面白いのです。ですから、わたしは皆さんに呼びかけます。このカテキズムを学んでください。これは、わたしの心からの願いです。このカテキズムは皆さんを楽しませるために書かれたのではありません。また、人生を楽にするものでもありません。なぜなら、それは皆さんに新しい生き方を要求するからです。それは、持ち物をすっかり売り払っても得る価値のある『高価な真珠』(マタイ13・46)である福音のメッセージを、皆さんに示しています。ですから、情熱と忍耐をもってこのカテキズムを学ぶよう、わたしは皆さんにお願いします。そのための時間を作ってください。自室で静かに学んでください。友人と一緒に読んでください。勉強会を開いたり学びのネットワークを作ったりしてください。インターネットを通して互いに分かち合ってください。あらゆる方法を用いて、信仰について互いに語り合い続けてください」。
さあ、このカテキズムで学んでください。この本に導いてもらいましょう。イエスへ、その生き方へ、その愛のメッセージへ、神のみ顔であり人間の面(おもて)であるイエスの啓示へと。シノドス後の使徒的勧告『キリストは生きている』でも強く勧めましたが、皆さんのような若者にとって、今その最中にある人生の時期は、イエスの神秘に近づくのにまさにふさわしいのです。「イエスはあなたがた若者を離れた場所や外側からではなく、ご自身の若さから照らしています。イエスは若さを皆さんと共有しているのです」(31)。
いいですか、愛する皆さん。だれもがイエスを必要としているのです。このかたが何を明かしてくださったのか、知らなければなりません。このかたに親しまなければなりません。地上での冒険を、尊厳をもって幸せに続けるには、イエスのまなざし、イエスの思い、イエスの人間性、イエスの信仰が必要だからです。
だからこそわたしたちは、イエスとのつながりを失ってはならないのです。自分の人生との、そして全人類の歴史との、つながりを失わないようにです。では、イエスとのつながりを失わないための秘訣とは何でしょう。以前チリの若者に話したのですが、チリの地から生まれた二人目の聖人、聖アルベルト・ウルタドが、その秘訣をはっきり示してくれています。わたしはこう話しました。「ウルタドには黄金律がありました。喜びを生き生きと保つ炎でもって、自身の心を燃やし続けるための決まりです。イエスこそその炎です。ご自分に近づく者を燃え上がらせるのです。つながりを結び直すため、シグナルを受け続けるため、ウルタドが用いたパスワードはシンプルです。『この場合、イエスだったらどうするだろうか』。学校で、大学で、町中で、家で、友達といるときに、職場で、いばり散らす人を前に、こう入力するのです。イエスならどうするだろうか――。パーティーで、遊んでいるときに、スタジアムで――、イエスだったらどうするだろうか――。これがパスワードです。心を燃やすための活力であり、信仰を奮い立たせ、瞳に輝きをもたらすエネルギーです。この輝きが消えないように。それでこそ人は、自らの人生の主人公になれるのです。瞳に光が宿るのは、イエスがいのちと喜びの源なのだと気づいたときです」。
イエスだったら、どうするか――。これが、真に「生き生きとした」喜ばしい人生を送るためのパスワードです。自分の身に起こること、なすべき決定を、イエスご自身が示されたのと同じまなざしで、同じ心で、同じ姿勢で、わたしたちも見つめ、判断するということです。これにはこのカテキズムを学ぶこと、同時に福音をじっくり読むこと、そして毎日祈ること、それに勝る手段はありません。福音を読み、熱心に祈り、カテキズムを学ぶことで、イエスのまなざし、イエスの心、イエスの姿勢を、心と頭に写し取れるようになります。そして、イエスだったらどうするかの問いにふさわしく答えられるようになるだけでなく、その答えに沿って判断し、行動する力が少しずつ養われていきます。コンピューターやスマートフォンにアプリをダウンロードするようなものです。ダウンロードされれば、正しいアイコンをタップすることで希望する作業の準備が整います。
このカテキズムを推薦します。まさしく有効なツールです。信仰体験の核心にまで手引きし、そこから照らしを受けられるようにしてくれます。それは、復活されたキリストの、いつもいつも驚かせてくれるメッセージです。時空を超えてわたしたちのもとに来てくださるかた、御父と聖霊の愛に、繰り返し浸してくださるかたのメッセージです。覚えていてください。「キリストは生きておられます。このかたはわたしたちの希望、この世界で最高峰の若さです。触れるものすべてが若返り、新たにされ、生命力にあふれ出します」(『キリストは生きている』1)。
いのちのこの若さを、この新しさを、この充満を、わたしは皆さんに、愛する若き友の皆さんのために願います。どうか、わたしのために祈ることを忘れないでください。皆さんのためにも祈ります。
皆さんに祝福を送ります。
フランシスコ