教皇レオ十四世、2025年12月31日、神の母聖マリアの祭日前晩の祈りの講話

2025年12月31日(水)午後5時(日本時間2026年1月1日午前1時)からサンピエトロ大聖堂でささげた、神の母聖マリアの祭日前晩の祈りおよび過ぎ行く一年に感謝して「テ・デウム」を唱える式における講話(原文イタリア語) […]

2025年12月31日(水)午後5時(日本時間2026年1月1日午前1時)からサンピエトロ大聖堂でささげた、神の母聖マリアの祭日前晩の祈りおよび過ぎ行く一年に感謝して「テ・デウム」を唱える式における講話(原文イタリア語)。式の後、教皇はサンピエトロ広場に作られた馬小屋を訪れた。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 神の母聖マリアの祭日の前晩の祈りの典礼は独自の豊かさをもっています。この豊かさは、典礼が祝う目がくらむような神秘と、一年の終わりにおけるその位置に由来します。答唱詩編と「マリアの賛歌」(マニフィカト)は、一人の処女(おとめ)から生まれた神と、逆にいえば、マリアの神的母性という、逆説的な出来事を強調します。同時に、降誕の八日間を締めくくるその荘厳さは、一つの年から新たな年への移行を包むとともに、「今おられ、かつておられ、やがて来られるかた」(黙1・8)の祝福をその上に差し伸べます。さらに今日わたしたちはこの典礼を、聖年の終わりに、ローマの中心のペトロの墓所の前でささげます。それゆえ、間もなくこの大聖堂に響き渡る「テ・デウム」は、この天井(ヴォールト)の下を、ローマの町の通りを歩いた人々のすべての心と顔に声を与えるためにいわば広がります。

 わたしたちはことばの典礼の中で使徒パウロの驚くべき要約を耳にしました。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者をあがない出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラ4・4-5)。キリストの神秘のこのようなしかたでの提示は、人類史における偉大な「計画」についてわたしたちに考えさせてくれます。それは神秘的な計画ですが、ある明確な中心をもっています。深い森のただ中で太陽に照らされた高い山のように。この中心が「時が満ちること」です。

 そして、まさにこの「計画」ということばが、エフェソの信徒への手紙の賛歌に反響しています。「〔神は〕秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神のみ心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いのわざが完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エフェ1・9-10)。

 姉妹兄弟の皆様。現代のわたしたちは、知恵といつくしみとあわれみに満ちた計画の必要性を感じています。それは自由で、解放をもたらし、平和で、忠実な計画です。おとめマリアが賛歌の中で宣言した計画のように。「そのあわれみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」(ルカ1・50)。

 しかし、かつてと同じように今日も、世界を別の計画が覆っています。それはむしろ、市場と領土と勢力範囲を征服することをめざす戦略です。偽善的な言説と、イデオロギー的な宣言と、いつわりの宗教的動機の武具で覆われた戦略です。

 しかし、造られたものの中でもっとも小さく、かつもっとも高貴な神の聖なる母は、ものごとを神のまなざしでご覧になります。このかたは、いと高きかたがその腕の力で思い上がる者の陰謀を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人をよい物で満たし、富める者を空腹のまま追い返すのをご覧になります(ルカ1・51-53参照)。

 イエスの母は、時が満ちたとき、神が神秘を明らかにすることばをそのかたによって記した女性です。神はそれを強制しませんでした。神はまずそれを彼女の心に打ち明け、彼女の「然り」を受け入れ、それを消し去ることのできない愛をもって彼女のからだに記しました。こうして神の希望は、肉に従って、そして何よりも信仰に従ってアブラハムの子孫である、マリアの希望と結び合わされます。

 神は小さい者の心で希望することを愛されます。そして、神は彼らを救いの計画にかかわらせることによってそうされます。計画がすばらしいものであればあるほど、希望は偉大なものとなります。そして、実際に世界はそのようにして前に進みます。世界は、人には知られていないものの、神には知られている、多くの素朴な人々の希望によって動かされます。この人々はいかなることがあっても、よりよい明日を信じています。なぜなら彼らは、未来が偉大な希望を与えてくださるかたのみ手のうちにあることを知っているからです。

 こうした人々の一人が、ガリラヤの漁師で、イエスがペトロと呼んだ、シモンでした。父である神はペトロに混じりけのない寛大な信仰を与え、こうして主はペトロの共同体の上にわたしたちをお建てになることができました(マタ16・18参照)。わたしたちは今日もこのペトロの墓前で祈っています。世界のあらゆるところから来た巡礼者は、ここで神の子イエス・キリストへの信仰を新たにしています。これが、終わろうとしている聖年の間に特別なしかたで起きたことです。

 聖年は、神の計画に従って刷新され、和解させられた新しい世界の偉大なしるしです。この計画の中で、摂理であるかたはこのローマの町に特別な位置を与えられました。それはその栄光のゆえにでも、その力のゆえにでもありません。むしろ、ペトロとパウロ、また他の多くの殉教者がここでキリストのために血を流したためです。そのためにローマは聖年の町なのです。

 わたしたちはローマに何を望むことができるでしょうか。それは、小さい者たちのための丘になることです。子ども、孤独で脆弱な高齢者、生活に苦しむ家族、尊厳のある生活を希望して遠いところから来た人々のための丘になることです。

 親愛なる友人の皆様。今日わたしたちは聖年の恵みのゆえに神に感謝します。聖年は人類と世界に対する神の希望の計画の偉大なしるしでした。そして、2025年の間、巡礼者への奉仕のため、また、ローマを人々を歓迎する町にするために努力したすべての人々に感謝します。これが1年前に愛する教皇フランシスコが願ったことでした。わたしはこの恵みの時の後も、ローマが再び、そしていっそう、そうなってくれることを望みます。キリスト者の希望に導かれたこの町が、人類家族に対する神の愛の計画に奉仕することができますように。「ローマの民の救い」(Salus Populi Romani)である神の聖なる母の執り成しによってこの恵みが与えられますように。

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