
2026年1月6日(火)午前9時30分(日本時間同日午後5時30分)からサンピエトロ大聖堂で聖なる扉を閉じた後にささげた主の公現の祭日ミサ説教(原文イタリア語)。バチカンでは主の公現の祭日が1月6日に祝われた。サンピエト […]
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
福音書(マタ2・1-12参照)は星を再び見いだしたときの占星術の学者たちの大きな喜びをわたしたちに示しますが(10節参照)、星を探し求めたヘロデとエルサレムのすべての人々が示した不安も記しています(3節参照)。聖書は、神の顕現について述べる際につねに、こうした対比を隠そうとしません。すなわち、喜びと不安、抵抗と信従、恐れと望みです。今日わたしたちは、主の存在の前では、何も元どおりの姿のままでいないことを自覚しながら、主の公現を祝います。これが希望の始まりです。神がご自身を現されると、何ものもじっとままではいられません。ある種の静けさ、すなわち、憂鬱な人々に次のように繰り返していわせる静けさは終わります。「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘ1・9)。現在と未来を左右する何かが始まります。預言者が次のように告げるとおりです。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」(イザ60・1)。
驚くべきなのは、多くの新しい始まりを目にしてきた町であるエルサレムが不安を覚えたことです。町の中にいる、聖書を研究し、すべての答えを手にしていると考える人々は、問いかけ、望みを深める力を失ったように思われます。それどころか、エルサレムの町は、希望に動かされて遠くからやって来た人々によって驚かされ、本当は反対に喜びをもたらすはずのものに脅威を感じるのです。このような反応は、わたしたち教会にも問いかけます。
今日、最後に閉じられたこの大聖堂の聖なる扉は、つねに門が開かれている町、新しいエルサレム(黙21・25参照)をめざして歩んだ数え切れない人々、希望の巡礼者のあふれる流れを目にしました。彼らはどのような人々だったのでしょうか。何が彼らを突き動かしたのでしょうか。聖年の終わりにあたり、とくに真剣にわたしたちに問いかけることがあります。それは、わたしたちの理解をはるかに超える、わたしたちと同時代の人々の霊的な探求です。彼らのうちの何百万もの人々が教会の門をくぐりました。彼らは何を見いだしたのでしょうか。彼らの心、関心、反応はいかなるものだったのでしょうか。たしかに、占星術の学者たちは今なお存在します。彼らは、自分たちの旅を危険にさらす困難を受け入れ、多くの拒絶と危険な側面のゆえに現代と同じように苦難に満ちた世界の中で、歩み出し、探求する必要性を感じる人々です。
昔の人は「旅する人間」(homo viator)といいました。わたしたちの人生は旅です。福音は教会に呼びかけます。このダイナミズムを恐れることなく、それを積極的に評価し、このダイナミズムを引き起こす神へとそれを方向づけるようにと。この神はわたしたちを不安にさせることができるかたです。なぜなら神は、銀や金でできた偶像のようにわたしたちの手の中にじっととどまっておられるかたではないからです。むしろ神は、マリアが腕に抱き、占星術の学者たちが拝んだ幼子のように、生きていて、いのちを与えるかただからです。聖年の巡礼の目的地となった司教座聖堂、大聖堂、巡礼所のような聖地は、いのちの香りを、すなわち、別の世界が始まったという打ち消しがたい印象を広めなければなりません。
わたしたちは自問します。わたしたちの教会の中にいのちはあるだろうか。生まれようとするもののための場所はそこにあるだろうか。わたしたちは、自分たちを旅立たせる神を愛し、告げ知らせているだろうか。
朗読箇所の中で、ヘロデは自らの王座のゆえに恐れを抱き、自分の制御が及ばないと感じるもののゆえに動揺します。彼は占星術の学者たちの願いを利用し、彼らの探求を自分の利益に従わせようと試みます。彼は進んで噓をつき、なりふり構いません。実際、恐怖はわたしたちの目を見えなくします。それに対して、福音の喜びはわたしたちを解放します。たしかにそれはわたしたちを思慮深くしますが、大胆で、注意深く、創造的な者にもしてくれます。それはすでに歩んできたのとは違う道を進むことを勧めるのです。
占星術の学者たちはエルサレムに対して単純かつ本質的な問いを発します。「お生まれになったかたは、どこにおられますか」(マタ2・2)。教会の門をくぐった人が、メシアがそこで生まれたばかりであることに気づくこと。その中で希望が生まれた共同体が集っていることに気づくこと。そこでいのちの歴史が展開していることに気づくこと。それはなんと重要なことでしょうか。聖年が来たのは、わたしたちがもう一度やり直すことができること、わたしたちはまだ始めたばかりであること、主はわたしたちの間で成長し、わたしたちとともにいる神であることを望んでおられることを、わたしたちに思い起こさせるためです。たしかに神は既存の秩序に疑問を投げかけます。神は今日もご自分の預言者に霊感を与える夢を抱いておられます。神はわたしたちを、古くからある奴隷状態からも新しい奴隷状態からもあがない出そうと決意しておられます。神は、ご自分のあわれみのわざと驚くべき正義のわざにおいて、若者と高齢者、貧しい者と富める者、男性と女性、聖人と罪人とかかわりをもちます。神は物音を立てませんが、そのみ国は世界の至るところですでに芽生えています。
どれほど多くの神の顕現がわたしたちに与えられていることでしょうか。あるいは、これから与えられようとしていることでしょうか。しかし、この顕現は、ヘロデの思いから、すなわち、つねに攻撃へと変わる用意ができている恐れから遠ざけられなければなりません。「洗礼者ヨハネの時から今に至るまで、天の国は激しく攻められており、激しく攻める者がこれを奪い取っている」(マタ11・12〔聖書協会共同訳〕)。マタイによる福音書に記されたこのイエスの不思議なことばは、神がすべての人のために用意してくださる新しいものに人々が抵抗し、時にはそれに襲いかかる、多くの争いのことを考えさせずにはいません。平和を愛し、平和を求めることは、聖なるものを守ることです。だからこそ聖なるものはまさに生まれ出でようとしているものなのです。それは幼子のように小さく、繊細で、壊れやすいものです。わたしたちの周りでは、ゆがんだ経済があらゆるものから利益を引き出そうとしています。わたしたちが目の当たりにしているとおり、市場は、わたしたちの探求し、旅し、新たに始めようとする人間的な欲求さえもビジネスに変えています。わたしたちは自問します。すべてのものを商品に、人間を消費者にしてしまうこのような効率主義から逃れることを、わたしたちは聖年から学んだだろうか。聖年の後、わたしたちは、訪問者を巡礼者として、見知らぬ人を探求者として、遠くにいる人を近くにいる人として、異なる人を旅の同伴者としてますます見いだせるようになっているだろうか。
イエスがすべての人と出会い、すべての人がご自分に近づくことを可能にした方法は、イエスだけが読み取ることができる心の秘密を大切にすることをわたしたちに教えます。わたしたちはイエスとともに時のしるしを読み取ることを学びます(第二バチカン公会議『現代世界憲章』4[Gaudium et spes]参照)。だれもそれをわたしたちに売ることはできません。占星術の学者たちが拝んだ幼子は、値段をつけることも計ることもできない善です。それは無償性の顕現です。イエスは、有名な「ロケーション」においてではなく、つつましい現実の中でわたしたちを待っておられます。「ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダの指導者たちの中で決してもっとも小さな者ではない」(マタ2・6〔聖書協会共同訳〕)。どれほど多くの町が、どれほど多くの共同体が、「あなたは決してもっとも小さな者ではない」ということばを聞くことを必要としていることでしょうか。まことに、主は今日もわたしたちを驚かせてくださいます。主はご自身を見いださせてくださいます。主の道はわたしたちの道ではありません。暴力をふるう者がそれを支配することはできません。世の権力ある者もそれを妨げることはできません。ここに占星術の学者たちの大きな喜びがあります。彼らは宮殿や神殿を後にして、ベツレヘムへと旅立ちます。そのとき、彼らは星を再び見つけたのです。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。だから、希望の巡礼者となることはすばらしいことです。そして、ともに希望の巡礼者であり続けることもすばらしいことです。神の忠実さはわたしたちを驚かせ続けます。わたしたちの教会を記念物にしてしまわず、わたしたちの共同体が帰るべき家であり続け、わたしたちが権力ある者の誘惑に抗い続けるなら、そのときわたしたちは新しい夜明けの世代となることでしょう。夜明けの星であるマリアよ、わたしたちの前をいつも歩んでください。わたしたちはあなたの御子のうちに、全能感の幻想によってではなく、愛ゆえに肉となられた神によって造り変えられた、偉大な人類を観想し、これに奉仕します。
