光に包まれた主の天使が夜を照らし、羊飼いたちに良い知らせを告げます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2・10-11)。貧しい人々の驚きと天使たちの歌声の中で、天が地上に開かれます。神は、わたしたちをご自分と似た者とするために、わたしたちの一人となられました。そして、わたしたちを再び立ち上がらせ、御父のみ手のうちに連れ戻すために、わたしたちのただ中に降って来られました。
姉妹兄弟の皆さん。これがわたしたちの希望です。神はインマヌエル、わたしたちとともにおられる神です。無限に偉大なかたが小さくなられました。神の光が世の闇の中で輝きました。天の栄光が地上に現れました。それはどのようにしてでしょうか。幼子の小ささにおいてです。たとえわたしたちの心が貧しい飼い葉桶のようなものであっても、神が来てくださるなら、わたしたちはこういうことができます。希望は死んでいません。希望は生きています。希望はわたしたちの人生を永遠に包んでいます。希望は欺くことがありません。
姉妹兄弟の皆さん。聖なる扉の開扉によって、わたしたちは新たな聖年を開始しました。わたしたち一人ひとりは、この恵みの告知の神秘に歩み入ることができます。この夜、希望の扉が世に開かれました。この夜、神はわたしたち一人ひとりにこう語りかけます。希望はあなたにもあります。希望はわたしたち一人ひとりのためにあります。姉妹兄弟の皆さん。しかし、このことを忘れないでください。神はすべてをゆるしてくださいます。神はつねにゆるしてくださいます。このことを忘れないでください。これが、主への希望を理解するための方法です。
わたしたちはこのたまものを受け入れるために、ベツレヘムの羊飼いたちの驚きとともに歩み出すように招かれます。福音書は、天使の知らせを受けた羊飼いたちが「急いで行った」(ルカ2・16)と述べています。これは、失われた希望を再び見いだし、それをわたしたちに心の中で新たにし、荒廃した現代世界にこの希望の種を蒔くためのしるしです。戦争と、銃撃された子どもと、学校や病院への爆撃のことを考えてください。急いで、歩みを遅らせることなく、よい知らせに引き寄せられようではありませんか。
急いで、軽やかで目覚めた心で、わたしたちのためにお生まれになった主を見に行こうではありませんか。わたしたちの生活状況の中に希望をもたらすことができるために。さまざまな生活状況の中に希望をもたらすこと。これがわたしたちの務めです。なぜなら、キリスト者の希望は受動的に待望すべき喜ばしい終わりではないからです。映画のハッピーエンドではないからです。それは今ここで、苦しみうめくこの地上で受け入れるべき、主の約束だからです。それゆえこの希望は、遅れないこと、習慣に引きずられないこと、平凡さと怠惰に足を止めないことをわたしたちに求めます。聖アウグスティヌスが述べたとおり、この希望は、間違ったことを忌み嫌い、それを変える勇気をもつことを求めます。この希望は、真理を探求する巡礼者、疲れを知らずに夢見る人、神の夢のゆえに安らぎを得ない人となることを求めます。神の夢とは、平和と正義が支配する、新しい世への夢です。
羊飼いたちの模範に学ぼうではありませんか。この夜、生まれた希望は、家の中にとどまる無関心や、安楽な暮らしに慣れ親しんでいる人の怠惰を許しません――わたしたちの多くは安楽な暮らしに慣れ親しむおそれがあります――。希望は、危険を冒すことを恐れて身を投じない人のいつわりの思慮深さを許しません。自分のことだけを考える人の打算的な態度を許しません。希望は、もっとも貧しい人々を犠牲にして行われる悪と不正に対して声を上げない人の静かな生活と相容れません。その反対に、キリスト者の希望は、芽生えて成長するみ国を辛抱強く待つようにわたしたちを招きながら、わたしたちの責任を通じて、そればかりか、わたしたちのあわれみを通じて、この約束を現代において先取りする勇気をわたしたちに求めます。ここでわたしたちのあわれみについて自問するのはふさわしいことかもしれません。わたしはあわれみをもっているでしょうか。わたしは人々と苦しみをともにすることができるでしょうか。考えてみてください。
ある優れた司祭の著作家は、わたしたちがいかにしばしばこの世に慣れ親しみ、この世の精神に適応しているかを見つめながら、聖なる夜のために次のように祈っています。「主よ。わたしはあなたに、ささやかな苦しみと、ささやかな安らぎを得ない心と、ささやかな後悔を願います。わたしは降誕祭にあたって自分が満たされていないことをあらためて見いだしたいと望みます。わたしは喜んでいますが、同時に満たされていません。わたしはあなたがしてくだることのゆえに喜びます。しかし、わたしは自分が答えを欠いていることに満たされていません。どうかわたしたちのいつわりの平和を取り去り、わたしたちのあまりにも満たされた飼い葉桶の中に一束の茨を入れてください。より大いなるものへの望みをわたしたちの魂にお与えください」(A. Pronzato, La novena di Natale)。より大いなるものへの望み。立ち止まらないでください。動かない水が最初に腐ることを忘れてはいけません。
キリスト者の希望は、この「より大いなるもの」です。この「より大いなるもの」が、わたしたちが「急いで」歩み出すように求めます。実際、主の弟子であるわたしたちは、主のうちにもっとも偉大なわたしたちの希望を再び見いだすように求められます。それは、光の巡礼者として、世の闇の中に急いでこの希望をもたらすためです。
姉妹兄弟の皆さん。これが聖年です。それは希望の季節です。聖年は、わたしたちが主と出会う喜びを再び見いだすように招きます。わたしたちを霊的な刷新へと招き、世を変革するように促します。それは今年が真に喜びの時となるためです。利益の論理のためにゆがめられたわたしたちの母なる地球のために。不当な負債を負った最貧国のために。昔からある奴隷制と新たな奴隷制に捕らわれているすべての人々のために。
わたしたちは皆、希望が失われたところに希望をもたらすたまものと務めをもっています。いのちが傷つけられたところに、期待が裏切られたところに、夢が打ち砕かれたところに、失敗が心を打ち砕いたところに。人がもはや耐えられない疲労の中に、敗北を感じる人の苦い孤独のうちに、魂をむしばむ苦しみのうちに。受刑者の長く空しい日々のうちに、貧しい人々の狭く寒い部屋の中に、戦争と暴力によって荒廃した場所に。これらのところに希望をもたらしてください。これらのところに希望の種を蒔いてください。
聖年が始まるのは、すべての人に希望が与えられるためです。この希望は、福音の希望、愛の希望、ゆるしの希望です。
降誕の馬小屋に戻ります。わたしたちは降誕の馬小屋を見つめます。幼子イエスのみ顔のうちにご自身を示された神の優しさを見つめます。それからわたしたちは自問します。「わたしたちの心にこの期待はあるだろうか。わたしたちの心にこの希望はあるだろうか。〔……〕わたしたちの不信と恐れに打ち勝つ神の優しさを観想しながら。わたしたちを待っている希望の偉大さも観想しながら。〔……〕この希望のビジョンがわたしたちの日々の歩みを照らしてくれますように」(C. M. Martini, Omelia di Natale, 1980)。
姉妹兄弟の皆さん。この夜、神のみ心の「聖なる扉」があなたのために開かれます。わたしたちとともにおられる神であるイエスは、あなたのために、わたしのために、すべての人のためにお生まれになりました。そして、どうかこのことを心に留めてください。イエスとともにいるなら、喜びは花開き、人生は変わり、希望は欺くことがないのです。
