イエスは聖霊によって荒れ野へと導かれます(ルカ4・1)。毎年、わたしたちの四旬節の歩みは、主がわたしたちのために通り、変容させた、この荒れ野という場所で主に従うことによって始まります。実際、イエスが荒れ野に入られると、ある決定的な変化が起こります。沈黙の場所は、耳を傾ける場となります。耳を傾けることが試されます。なぜなら、まったく相反する二つの声のいずれに耳を傾けるかを選ばなければならないからです。福音は、このような試練をわたしたちに提示することによって、イエスの歩みが従順のわざによって始まることを示します。地上でいかなるよいものも育たず、天から雨も降らない場所へとイエスを導くのは、神の力そのものである聖霊です。人は荒れ野で、自分の物質的・霊的な貧しさを、すなわちパンとことばを必要とすることを経験します。
まことの人であるイエスも空腹を覚えます(2節参照)。そして、四十日間、聖霊からではなく、悪い者、悪魔から来ることばによって誘惑を受けます。四旬節の四十日間に歩み入ったばかりのわたしたちが考察したいことがあります。それは、わたしたちも誘惑を受けますが、わたしたちは独りきりではないということです。イエスがわたしたちとともにいて、荒れ野を通る道をわたしたちに開いてくださるのです。人となられた神の子は、悪との戦いの模範をわたしたちに示すだけではなく、それ以上のことをしてくださいます。悪の攻撃に抵抗し、忍耐強く歩むための力をわたしたちに与えてくださるのです。
そこで、イエスの誘惑とわたしたちの誘惑の三つの特徴を考えてみたいと思います。すなわち、その始まりと、方法と、結末です。わたしたちはこの二つの経験を比較することにより、わたしたちの回心の旅のための支えを見いだします。
まず、イエスの誘惑は〈始まり〉から意図的なものです。主が荒れ野に入られたのは、傲慢のゆえに、すなわちご自分の力を示すためではありません。それは御父の霊への子としての従順のゆえです。イエスは御父の霊の導きに進んでこたえます。これに対して、わたしたちの誘惑は不意に行われます。悪はわたしたちの自由に先立ちます。それは内なる影、絶えざるわなのようにわたしたちの自由を内側から堕落させます。わたしたちは誘惑のときに見捨てられないことを神に願うとき(マタ6・13参照)、神がイエスを通じてすでにこの祈りを聞き入れてくださっていることを思い起こします。受肉したみことばはつねにわたしたちとともにとどまってくださるからです。主はわたしたちの近くにいて、とくに試練や疑いのときに、すなわち誘惑する者が声を上げるときに、わたしたちを心にかけてくださいます。誘惑する者は偽りの父であり(ヨハ8・44参照)、堕落し、堕落させる者です。なぜなら、誘惑する者は神のことばを知りながら、それを悟らないからです。それどころか、誘惑する者はそれをねじ曲げます。エデンの園にいたアダムのときと同じように(創3・1-5参照)、誘惑する者は今や荒れ野で新しいアダムであるイエスに対しても同じことを行います。
わたしたちはここにキリストが誘惑を受けた独自の〈方法〉を見いだします。それはご自分の父である神との関係のうちに行われるのです。悪魔は分離させる者であり、分裂です。これに対して、イエスは神と人を一つに結びつけるかたであり、仲介者です。堕落した悪霊は、イエスに特権を与えることによって、このきずなを破壊しようとします。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)。また、「神の子なら、ここから」、すなわち神殿の屋根の端から「飛び降りたらどうだ」(9節)と。これらの誘惑に対して、神の子であるイエスは、神の子である〈方法〉を決断します。イエスを導く霊によって、イエスの選択は、イエスが〈どのように〉ご自分の御父との子としての関係を生きようと望むかを示します。主が決断されたのはこれです。すなわち、この神――イエスはこのかたの独り子です――との独自で排他的なきずなは、だれをも排除することなく、すべての人を包み込む関係となるということです。御父との関係は、わたしたちの救いのためにイエスが世に与えてくださったたまものです。それは、成功して自分に従う人々を引き寄せるために自慢できる、大切な宝(フィリ2・6参照)ではありません。
わたしたちも神との関係において誘惑を受けますが、それはまったく反対のしかたにおいて行われます。実際、悪魔はわたしたちの耳元でこうささやきかけます。神はわたしたちの本当の父ではない。実際には、神はわたしたちを見捨てたのだと。サタンは、わたしたちにこう信じ込ませようとします。飢えた人のためのパンはなく、石がパンになることもない。天使も不幸なときにわたしたちを助けてはくれない。それどころか、世界は悪い者の力の手に握られている。悪い者は彼らの傲慢な計算と戦争の暴力によって人々を踏みにじっていると。悪霊は、主がわたしたちから遠く離れたところにいて、わたしたちを絶望へと導いていると信じさせようと望みます。まさにそのとき、神はますますわたしたちに近づき、世のあがないのためにご自身のいのちを与えてくださるのです。
そして、第三の側面である誘惑の〈結末〉はこれです。神のキリストであるイエスは悪に打ち勝ちます。イエスは悪魔を退けますが、悪魔は「時が来る」(13節)とイエスを再び誘惑するために戻って来ます。福音はそう述べます。そしてわたしたちは、ゴルゴタでイエスが再びこう問いかけられることを思い起こします。「神の子なら、〔……〕十字架から降りて来い」(マタ27・40。ルカ23・35参照)。荒れ野で誘惑する者は打ち負かされますが、キリストの勝利はまだ決定的なものではありません。それが決定的なものとなるのは、イエスの死と復活の過越においてです。
わたしたちは信仰の中心的な神秘を祝うための準備を行うにあたり、わたしたちの試練の結末が異なることを見いだします。わたしたちは時として誘惑を前にして倒れます。わたしたちは皆、罪人です。しかし、この敗北は決定的なものではありません。なぜなら、神はご自身のゆるしによって、限りなく偉大な愛によって、わたしたちが倒れるたびにわたしたちを立ち上がらせてくださるからです。それゆえ、わたしたちの試練が失敗に終わることはありません。なぜなら、わたしたちはキリストのうちに悪からあがなわれているからです。わたしたちはキリストとともに荒れ野を通りながら、だれも通ったことのない道を歩みます。イエスご自身がわたしたちにこの新しい道を、解放とあがないの道を開いてくださいます。信仰をもってイエスに従うことによって、わたしたちは放浪者から巡礼者へと変わります。
親愛なる姉妹兄弟の皆さん。四旬節の歩みをこのようにして始めてくださるようにお願いします。そして、この道を歩むとき、わたしたちは、聖霊がつねに支える善意を必要とします。そのためわたしは、聖年の巡礼のために今日ローマに来てくださっているボランティアの皆さんにごあいさつできることをうれしく思います。愛する友人の皆さん。皆さんに心から感謝します。皆さんはイエスの模範に従って、見返りなしに隣人に奉仕しておられるからです。路上で、家庭で、病者、苦しむ人、受刑者に寄り添いながら、若者、高齢者とともに、皆さんの献身は社会全体に希望を与えます。貧困と孤独の荒れ野の中で、無償で行われる多くの小さな奉仕のわざが、神がわたしたち皆のために夢見た、また夢見続けておられる園で、新しい人類の種を花開かせるのです。
