2026年「第63回世界召命祈願の日」教皇メッセージ 2026年4月26日 神のたまものの内的発見 親愛なる兄弟姉妹の皆様、愛する若者の皆様。 わたしたちは復活したイエスの導きと守りの下に、「よい牧者の主日」と呼ばれ […]
2026年4月26日
神のたまものの内的発見
親愛なる兄弟姉妹の皆様、愛する若者の皆様。
わたしたちは復活したイエスの導きと守りの下に、「よい牧者の主日」と呼ばれる復活節第四主日に、「第63回世界召命祈願の日」を祝います。それは、わたしたち一人ひとりの心の奥底で生まれる、神が与えてくださるたまものの発見という意味で、召命の内的次元についてともに考察を行うよい機会です。では、よい牧者がわたしたちに示してくださる真のすばらしい人生の道をともに歩んでみたいと思います。
すばらしい道
ヨハネによる福音書の中で、イエスはご自身を文字どおり「美しい羊飼い」(ὁ ποιμὴν ὁ καλός)(ヨハネ10・11)といわれます。この表現は、完全で真実で模範的な牧者、すなわち、自分の羊のために進んでいのちをささげ、こうして神の愛を示すかたを示します。それはわたしたちを引き寄せる牧者です。イエスを見つめる人は、イエスに従うならば人生が真にすばらしいものとなることを見いだします。このすばらしさを認めるためには、肉体の目や外的な基準だけでは不十分です。観想と内面性が必要です。立ち止まり、耳を傾け、祈り、イエスのまなざしを受け入れる人だけが、信頼をもってこういうことができます。「わたしをおゆだねします。あなたとともにいるなら、人生は真にすばらしいものになります。わたしはこのすばらしい道を歩むことを望みます」。驚くべきことに、人はイエスの弟子になることによって、自分も「美しい」者となります。イエスの美しさはわたしたちを造り変えます。神学者パーヴェル・フロレンスキイ(1882-1937年)が述べているとおり、禁欲生活は「善良な」人間ではなく、「美しい」人間を造り出します(1)。実際、聖人を際立たせる特徴は、善良さだけでなく、キリストのうちに生きる人が発する、光輝く霊的な美しさです。こうしてキリスト信者の召命の深みが示されます。それはイエスのいのちにあずかり、イエスの使命を共有し、イエスご自身の美しさを輝かせるのです。
このいのちと信仰と意味の内的な伝達を、聖アウグスティヌスも体験しました。聖アウグスティヌスは『告白』第三巻で、自分の若き日の罪と過ちを認め、告白しながら、神が「わたしのもっとも内なるところよりもっと内にまします」(2)ことを見いだします。聖アウグスティヌスは、自己認識を行うだけでなく、暗闇の中で自分を導く神的な光の美しさを発見します。自分の霊魂のもっとも内的な部分のうちに神がおられることに気づきます。これは、アウグスティヌスが、イエスとの関係のための場として、すなわち、自分の人生において神のすばらしさとよさを体験するための方法として、内面性を深めることの大切さを理解し、実践していたことを示します。
このような関係は祈りと沈黙の中で築かれます。そしてわたしたちは、この関係をはぐくむことによって、召命のたまものを受け入れて生きる可能性へと開かれます。召命は強制されるものでもなければ、単に従うべき既成の枠組みでもありません。むしろそれは愛と幸福のための計画です。内面を大切にする――この点からわたしたちは、司牧者への召命において、福音宣教への絶えることのない新たな取り組みにおいて、緊急に再出発するよう求められているのです。
このような精神に基づいて、わたしはすべての皆様――家庭、小教区、修道共同体、司教、司祭、助祭、カテキスタ、教師、信徒の皆様――にお願いします。この召命のたまものを受け入れ、育て、守り、それが豊かな実を結ぶことを目指して同伴するために適切な環境を作るように、ますます努力してください。わたしたちの環境が生きた信仰と絶えざる祈りと兄弟の同伴によって輝いてこそ、神からの召し出しは花開き、成熟し、一人ひとりの人と世界のための幸福と救いの道となるのです。こうしてわたしたちは、よい牧者であるイエスが示してくださる道を歩むことによって、自分自身をよく知るとともに、わたしたちを招いてくださった神を身近に知ることを学びます。
相互の認識
「いのちの主はわたしたちを知っており、その愛のまなざしでわたしたちの心を照らします」(3)。実際、どんな召命も、愛である神(一ヨハネ4・16参照)の認識と体験から初めて始まります。神はわたしたちを深く知っておられます。神はわたしたちの髪の毛までも一本残らず数えられ(マタイ10・30参照)、一人ひとりのために聖性と奉仕の道を考えてくださいます。しかし、この認識はつねに相互的でなければなりません。わたしたちは、祈り、みことばへの傾聴、秘跡、教会生活、兄弟姉妹への愛のわざを通じて、神を知るように招かれています。少年サムエルは、夜、おそらく思いがけないしかたで主の声を聞き、エリの助けによってそれが主の声だと分かりました(サムエル上3・1-10参照)。それと同じようにわたしたちも、主がわたしたちの幸福のために抱いておられることを悟るための内的な沈黙の場を作らなければなりません。それは抽象的な知識や学問的な認識を知ることではなく、人生を造り変える個人的な出会いです(4)。神はわたしたちの心に住まわれます。召命は神との内的な対話です。神は、耳をつんざくような世の騒音のただ中であっても、わたしたちが真の喜びと惜しみない心をもってこたえるように招かれます。
「外に出て行くな。あなた自身の中に帰れ。真理は内的人間に住んでいる」(Noli foras ire, in te ipsum redi, in interiore homine habitat veritas)(5)。ここでも聖アウグスティヌスは、立ち止まり、イエス・キリストのみ声に耳を傾けることができるよう、内的沈黙の場を作ることの大切さを思い起こさせます。
親愛なる若者の皆様。この声に耳を傾けてください。主の声に耳を傾けてください。主は、自分のタレントを生かし(マタイ25・14-30参照)、自分の限界と弱さをキリストの栄(は)えある十字架に釘づけにすることによって、完全で実りある人生を生きるようにと皆様を招いています。それゆえ、聖体礼拝を大切にし、神のことばを熱心に黙想してそれを日々実践し、秘跡と教会生活に積極的かつ完全に参加してください。こうして皆様は主を知り、主との親しい友愛のうちに、結婚、司祭、終身助祭、あるいは奉献生活、すなわち修道会ないし在俗会の道で、どのように自分をささげるべきかを見いだします。どの召命も、教会と、喜びをもって召命を受け入れた人にとって、はかりしれないたまものです。主を知るとは、何よりもまず、主と、あらゆる召命を豊かにしてくれるその摂理に身をゆだねることを学ぶことです。
信頼
信頼は知ることから生まれます。信頼は、信仰が生み出す態度であり、それは召命を受け入れるためにも、召命を忍耐強く生きるためにも不可欠です。実際、人生は、たとえ主の計画が自分の計画を覆すときにも、主に信頼し、身をゆだね続けることです。
聖ヨセフのことを考えてみてください。聖ヨセフは、おとめマリアが母となるという予期せぬ神秘を前にしても、神の夢のお告げに身をゆだね、従順な心をもってマリアと幼子を受け入れます(マタイ1・18-25、2・13-15参照)。ナザレのヨセフは、神の計画への完全な信頼の模範です。自分の周りのすべてのことが闇に満ち、うまくいかないと思われるときにも、物事が自分の予想とは反対に向かっていると思われるときにも、ヨセフは信頼します。ヨセフは主のいつくしみと忠実を確信しながら、信頼し、身をゆだねます。「ヨセフは、人生のあらゆる場面で、自分の「はい(fiat)」を声に出せました。受胎告知の際のマリアや、ゲツセマネでのイエスと同様です」(6)。
希望の聖年が教えてくれたとおり、わたしたちは神の約束に対する堅固で揺るぎない信頼を培う必要があります。決して絶望に陥ってはなりません。恐れと不安に打ち勝ち、復活した主は、世界とわたしたち個人の歴史の主であることを確信しなければなりません。主はもっとも暗闇に満ちたときにもわたしたちを見捨てることなく、ご自身の光をもってすべての闇を打ち払いに来てくださいます。そしてわたしたちは、まさに主の霊の光と力によって、試練と危機を通してでさえも、自分の召命が成長し、わたしたちを招かれた主ご自身の美しさをますます反映していくのを目の当たりにできます。それは、傷や失敗にもかかわらず、忠実と信頼によって形づくられる美しさです。
成熟
実際、召命は固定した目的ではなく、主との親しい交わりによってはぐくまれる、ダイナミックな成熟のプロセスです。イエスとともにとどまること、心の中で、また生活の中で聖霊に働いていただくこと、すべての物事を与えられたたまものの光に照らして再解釈すること――これが、召命において成長することです。
わたしたちの存在全体は、ぶどうの木とその枝と同じように(ヨハネ15・1-8参照)、主との強い生きたきずなの中で築かれなければなりません。それは、試練と必要な手入れを通して、主の招きにますます完全にこたえるようになるためです。神のみ旨がもっともはっきりと示され、その限りない愛が体験される「場」は、しばしば、わたしたちが人生の中で築くことができる真の兄弟愛のきずなです。自分の召命を見いだし発展させる際に同伴してくれる信頼できる霊的指導者をもつことは、どれほど貴重なことでしょうか。召命のすばらしさがすべて実現されるよう、聖霊の光に照らして召命を識別し確かめることは、どれほど大切なことでしょうか。
それゆえ、召命は、直ちにもつことができるものでもなければ、一度限りで「与えられる」ようなものでもありません。むしろ召命は、人生と同じように発展していく旅路です。わたしたちはこの旅路の中で、与えられたたまものを守るだけでなく、召命が成長して実を結ぶよう、それを日々の神との関係によって育てていかなければなりません。「これは貴重なものです。わたしたちの生涯全体を、わたしたちを愛してくださる神の真正面に据え、意味のない混沌の産物であるものなど何もないこと、すべてのものが、わたしたちのためにすばらしい計画を用意してくださる主にこたえる道へと組み込まれるはずであると、わたしたちに理解させてくれるからです」(7)。
親愛なる兄弟姉妹の皆様、愛する若者の皆様。皆様に勧めます。日々の祈りと、みことばの黙想を通して、神との個人的な関係を深めてください。立ち止まり、耳を傾け、身をゆだねてください。そうすれば、皆様の召命のたまものは成熟し、皆様を幸せにし、教会と世界のために豊かな実を結ぶことができるでしょう。
神のたまものを内面的に受け入れることの模範であり、祈りをもって耳を傾けることの師であるおとめマリアが、皆様のこの歩みにつねに同伴してくださいますように。
バチカンにて、2026年3月16日
