
2026年4月2日(木)午後5時30分(日本時間3日午前0時30分)からサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂でささげた主の晩餐の夕べのミサ説教(原文イタリア語)。ミサ中の洗足式で12人のローマ教区の司祭の足を洗った。 […]
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
今晩の荘厳な典礼は、主の受難と死と復活を記念する過越の聖なる三日間へとわたしたちを歩み入らせます。わたしたちは観客として、あるいは惰性から、この三日間に歩み入るのではありません。わたしたちはイエスご自身によって特別に招かれます。わたしたちは、その中でパンとぶどう酒がわたしたちのために救いの秘跡となる、晩餐への招待者として歩み入ります。実際、わたしたちは、キリストが「世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(ヨハ13・1[聖書協会共同訳])晩餐にあずかります。キリストの愛はすべての人のためのわざ、また食物となって、神の義を現します。イエスは、悪が猛威を振るう世の中で、ご自身のすべてをもって、決定的なしかたで、永遠に愛されます。
この最後の晩餐の中で、イエスは次のように述べて、弟子たちの足を洗います。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハ13・15)。主のわざは、主がわたしたちを招かれた食卓と一体です。それは〈秘跡〉の〈模範〉です。それはこの秘跡の意味を明らかにしながら、わたしたちが自分のいのちの糧としてそれを受け入れることを望む務めをわたしたちに与えます。福音書記者ヨハネは、自分が立ち会った出来事を記すために、ギリシア語の〈ヒュポデイグマ〉ということばを選びました。このことばは「目の前に示されたもの」を意味します。主が水とたらいと手ぬぐいを用いてわたしたちに示したことは、道徳的なモデル以上のことです。実際、主はご自身の生き方そのものをわたしたちに示します。足を洗うことは、神の啓示を要約する行為です。それは肉となったみことばの範型的なしるしであり、まごうことなきその記念です。御子は、しもべの身分をご自分のものとすることによって、御父の栄光を現し、わたしたちの良心をゆがめるこの世の基準を覆します。
弟子たちの静かな驚きと、人間的な傲慢さまでもが、そこで起きていることについてわたしたちの目を開きます。初め、イエスのなさることを拒むペトロと同じように、わたしたちも「神の偉大さがわたしたちの偉大さに関する考えと異なることをつねに新たに学ばなければなりません。〔……〕なぜなら、わたしたちはつねに成功の神を求め、受難の神を求めないからです」(教皇ベネディクト十六世「主の晩餐のミサ説教(2008年3月30日)」)。この教皇ベネディクト十六世のことばは、次のことを明快に示してくれます。すなわち、わたしたちはつねに「わたしたちに奉仕し」、わたしたちに勝利をもたらし、お金と権力と同じように役に立つ神を求める誘惑にさらされているということです。しかしわたしたちは、神が、足を洗うという無償のへりくだりの行為によって、真にわたしたちに〈奉仕〉されることを理解していません。これが神の全能です。こうして、神のたまものなしに存在することができない人々にいのちをささげようとするみ旨が実現されます。主はご自身の愛のゆえに、ひざまずいて人を洗われます。こうして神のたまものはわたしたちを造り変えます。
実際、イエスはそのわざによって、わたしたちの神に関するイメージを、それをゆがめてきた偶像崇拝や冒瀆から清めるだけでなく、わたしたちの人間に関するイメージも清めます。人間は、人を支配するときに自分に力があると考え、自分と同等の者を殺すことによって勝利することを望み、恐れられることによって自分は偉大だとみなすからです。これに対して、真の神であり真の人間であるキリストは、献身と奉仕と愛の模範をわたしたちに示します。わたしたちは、愛することを学ぶためにキリストの模範を必要とします。それは、わたしたちに愛する能力がないからではなく、まさに真の愛がいかなるものであるかを自ら、また互いに学ぶためです。神が世の歴史に刻んだしるしであるイエスと同じように行動することを学ぶこと、これが生涯を通して取り組むべき課題です。
イエスは真の基準であり、「主であり、師である」(ヨハ13・13)かたです。このかたはあらゆる神的な仮面と人間的な仮面を取り去ります。イエスが模範を示されるのは、すべての人が幸福で自分を愛するときにではなく、裏切られる夜、無理解と暴力の暗闇の中で行われます。それは、わたしたちが正しく清いがゆえに主がわたしたちを愛してくださるのではないことが明らかになるためです。主がわたしたちを愛してくださるから、わたしたちはゆるされ、清められます。主は、わたしたちがそのあわれみにより洗っていただくときにわたしたちを愛するのではありません。主が愛されるから、主はわたしたちを愛し、わたしたちは主の愛にこたえることができるのです。
この互いに仕え合うことをイエスに学びたいと思います。実際、イエスは、ご自分の恵みに報いることを求めるのではなく、わたしたちがご自分を分かち合うことを求められます。「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハ13・14)。教皇フランシスコは解説して次のように述べます。「この務めはわたしの心からわき出るものです。わたしはそれを愛しています。この務めを愛しています。仕え合うことを愛しています。それは、主がそうするようにわたしに教えたからです」(教皇フランシスコ「主の晩餐のミサ説教(2013年3月28日)」)。教皇フランシスコは、抽象的な命令や、形式的で空虚なおきてについて語ったのではありません。むしろ、わたしたちの愛の源泉であり模範であるキリストの愛への心からの従順を表明したのです。実際、イエスが示された模範は、利益のために、あるいは、不承不承、ないし偽善的に模範とすべきものではなく、ただ愛ゆえに模範とできるものです。
それゆえ、主に奉仕していただくことは、主がなさったのと同じように仕えるための条件です。イエスはペトロにいわれました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(ヨハ13・8)。あなたがわたしをしもべとして受け入れないなら、あなたはわたしを信じ、主としてわたしに従うことはできないことになる。イエスはわたしたちの肉体を洗うことによって、わたしたちの霊魂を清めます。神はイエスのうちに、どのように支配するかではなく、どのように解放するかの模範を示されました。いのちを破壊する方法ではなく、いのちを与える方法の模範を示してくださったのです。
ここで、数々の暴虐によってひざまずかせられた人類の前で、わたしたちも抑圧された人々の兄弟姉妹としてひざまずきたいと思います。こうしてわたしたちは主の模範に従い、出エジプト記のことばを実現することを望みます。「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる」(出12・14)。実際、聖書の歴史全体は、まことの過越の小羊であるイエスのうちに集約しています。イエスによって、旧約の予型は完全な意味を見いだします。なぜなら、救い主キリストは人類の過越を祝い、すべての人に、罪からゆるしへ、死から永遠のいのちへと移り行く道を開いてくださるからです。「これは、あなたがたのためのわたしのからだである。わたしの記念としてこのように行いなさい」(一コリ11・24)。
わたしたちは今晩、主のわざとことばを新たにしながら、聖体と聖なる叙階の秘跡の制定を記念します。この二つの秘跡の本質的なつながりは、大祭司であり、永遠に生きた聖体であるイエスの完全な奉献を表します。実際、聖別されたパンとぶどう酒のうちに「いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずな、過越の宴」が存在します。「この宴において、「キリストが食べ物となられ、心は恵みに満たされ、将来の栄光の保証がわれわれに与えられる」」(第二バチカン公会議『典礼憲章』47[Sacrosantum Concilium])のです。主の命令に従って「新約の祭司」(トリエント公会議『ミサのいけにえについて』1[De Missae Sacrificio])として立てられた司教と司祭のうちに、神の民に対する主の愛のしるしが存在します。この神の民であるわたしたちは、主に愛された兄弟として、全身全霊で仕えるように招かれています。
それゆえ、聖木曜日は、心からの感謝と真の兄弟愛の日です。今晩、すべての小教区と共同体で行われる聖体礼拝が、イエスがなさったのと同じようにひざまずきながら、そして、イエスに倣ってイエスと同じ愛をもって仕える力を求めながら、イエスのわざを観想する時となりますように。
