教皇レオ十四世、2026年5月8日、ポンペイ、バルトロ・ロンゴ広場でのミサ説教

2026年5月8日(金)午前10時30分(日本時間同日午後5時30分)から、訪問先のポンペイ、バルトロ・ロンゴ広場でささげたミサ説教(原文イタリア語)。    親愛なる兄弟姉妹の皆様。  「わたしの魂は主をあがめます」。 […]

2026年5月8日(金)午前10時30分(日本時間同日午後5時30分)から、訪問先のポンペイ、バルトロ・ロンゴ広場でささげたミサ説教(原文イタリア語)。

 
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 「わたしの魂は主をあがめます」。第一朗読への答唱としてわたしたちが唱えたこのことばは、おとめマリアが胎内の子である救い主イエスをエリサベトに示したときに、その心からわき出ました。マリアに続いて、洗礼者ヨハネの父であるザカリアと、老人シメオンがキリストを賛美します。この三つの賛歌は、時課の典礼における教会の賛歌で日々唱えられます。それは、約束の実現を目にした古代イスラエルのまなざしであり、神の花婿に手を差し伸べる花嫁である教会のまなざしであり、暗黙のうちに、救いの望みへの答えを見いだす全人類のまなざしです。

 150年前、キリスト紀元79年のヴェスヴィオ火山の噴火が偉大な文明の痕跡を灰の下に埋め、何世紀もの間それを守ってきた場所に、聖バルトロ・ロンゴ(1841-1926年)は妻のマリアンナ・ファルナラロ・デ・フスコ伯爵夫人とともにこの巡礼所の最初の礎石を置くことによって、単に一つの聖堂の基盤だけでなく、マリアの町全体の基盤を築きました。こうして彼は神の計画への自覚を示しました。この神の計画を、教皇聖ヨハネ・パウロ二世は、ロザリオ年の終わりの2003年10月7日にこの地で行ったあいさつの中で、新しい福音宣教という観点から第三千年期に向けてあらためて示しました。教皇はこう述べました。「今日、古代のポンペイの時代と同じように、キリスト教的価値観から遠ざかり、その記憶すら失っている社会に向けて、キリストをのべ伝えることが必要です」。

 1年前、わたしがペトロの後継者の奉仕職をゆだねられたのは、まさにおとめマリアへの祈願日、すなわち、このすばらしいポンペイのロザリオの聖母への祈願日でした。それゆえわたしは、聖なるおとめにわたしの奉仕をゆだねるために、ここに来なければなりませんでした。その後わたしはレオという名を選び、教皇レオ十三世の後に従いました。レオ十三世の功績の一つは、ロザリオに関する広範な教えを発展させたことでした。これらすべてのことに加えて、ロザリオの使徒である聖バルトロ・ロンゴの最近の列聖が行われました(2025年10月19日)。これらの背景は、たった今朗読された神のことばに関する考察の鍵をわたしたちに与えてくれます。

 お告げに関する福音は、神のことばがマリアの胎内で肉となられた時へとわたしたちを導きます。この胎内から、歴史と世界に完全な意味を与える光が輝き出ます。天使ガブリエルがおとめマリアに告げたあいさつは、喜びへの招きです。「おめでとう、恵まれた方」(ルカ1・28。ゼファ3・14参照)。たしかに、「アヴェ・マリア」は喜びへの招きです。それはマリアに、そしてマリアを通してわたしたち皆にこう告げます。罪の試練にさらされ、そのため虐待と抑圧と戦争へとつねに傾いている人類の廃虚の上に、優しい神が、優しいあわれみが訪れました。このあわれみはイエスのうちに人間の顔をとりました。こうしてマリアはあわれみの母となります。みことばの弟子であり、その受肉の道具であるマリアは、真に「恵みに満ちた方」としてご自身を示します。マリアにおけるすべてが恵みです。公会議が聖アウグスティヌスに従って教えるとおり、マリアは、みことばに自らの肉体を与えることによって、「(キリストの)成員の母である。……なぜならマリアは、教会の頭(かしら)に属する成員である信者が、教会の中に生まれるよう、愛をもって協力したからである」(『教会憲章』53[Lumen gentium]。聖アウグスティヌス『聖なる処女性について』[De sacra Virginitate 6]参照)。マリアの「おことばどおり、この身に成りますように」によって、イエスだけでなく、教会も生まれました。そしてマリアは、神の母(テオトコス)であるとともに教会の母となります。

 なんと偉大な神秘でしょうか。すべては聖霊の力によって生じます。聖霊がマリアを包み、おとめの胎内に御子を宿らせたからです。この歴史上の時は、心を引き寄せ、聖なるロザリオの祈りがそこから生まれる観想の高みへと導く甘美さと力をもっています。第二千年期に生まれ、少しずつ発展したロザリオの祈りは、救いの歴史に根ざし、まさにおとめに対する天使のあいさつのうちにその前奏を見いだします。「アヴェ・マリア」。ロザリオにおけるこの祈りの繰り返しは、いわばガブリエルのあいさつのこだまです。このこだまは、何世紀にもわたって、聖母の目と心によって注がれた、信者のイエスへのまなざしを導いてきました。わたしたちはイエスを礼拝し、観想し、その一つ一つの神秘と一体化します。こうしてわたしたちは聖パウロとともにこういうことができるまでになります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2・20)。

 神のことばの朗読に先立ち、主の祈りと栄唱の間にはさまれた、ロザリオの中で繰り返される「アヴェ・マリアの祈り」は、神を愛する祈りです。うむことなく「あなたを愛しています」と繰り返すことは、愛そのものではないでしょうか。この巡礼所のマリア像がよく示しているとおり、ロザリオの珠(たま)による神を愛する祈りは、わたしたちをイエスへと連れ戻し、「キリスト教的生活の源泉であり頂点である」(『教会憲章』11)聖体へと導きます。聖バルトロ・ロンゴはこのことを確信して、次のように述べています。「聖体は生きたロザリオであり、すべての神秘はこの聖なる秘跡のうちに活発で生き生きとした形で見いだされる」(Il Rosario e la Nuova Pompei, 1914, p. 86)。彼のいっていることは本当です。キリストの生涯の神秘はすべて聖体のうちに、そのいけにえの記念と現実の現存のうちにいわば凝縮された形で見いだされます。ロザリオはマリアへの祈りという性格をもってはいますが、核心においてはキリストと聖体を中心とした祈りです(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ(2002年10月16日)』1[Rosarium Virginis Mariae]参照)。時課の典礼が教会の賛美の時を刻むなら、ロザリオはわたしたちの生活のリズムを刻み、それをイエスと聖体へとたえず連れ戻すのです。

 信者は何世代にもわたりこの祈りによって形づくられ、守られてきました。それは単純で親しみやすいものであると同時に、神秘的な高みとキリスト教神学のもっとも本質的な宝へと導くことができるものです。実際、おとめマリアの優しさをもって唱えられるキリストの神秘とその聖なるみ名以上に本質的なものがあるでしょうか。わたしたちを救うことができる名は、天下にこの名のほかありません(使4・12参照)。わたしたちは、「アヴェ・マリアの祈り」の中でこの名を繰り返すたびごとに、ある意味でナザレの家を体験し、イエスが長年にわたってともに過ごしたマリアとヨセフの声をいわば再び耳にします。わたしたちは、使徒たちがマリアとともに聖霊が降るのを待ち望んでいた、上の部屋での経験も行います。これが第一朗読がわたしたちに示したことです。主の昇天から聖霊降臨までの間、マリアと使徒たちがイエスの生涯のさまざまな出来事を競い合って思い起こしていたと想像せずにいられるでしょうか。彼らはどのような些細なことも見逃すことができなかったはずです。すべてのことが思い起こされ、自分のものとされ、倣われなければなりませんでした。こうして教会の観想の歩みが生まれます。この歩みにおいて、ロザリオは、典礼暦年と同様に、日々の黙想において聖なる神秘の要約を示します。ロザリオを福音の要約と考えるのはふさわしいことです。そのため教皇聖ヨハネ・パウロ二世はそれを光の神秘によって取り込むことを望みました。こうした次元も聖バルトロ・ロンゴにおいて生かされていました。彼は巡礼者たちに深い黙想を示すことによって、ロザリオを機械的に唱える誘惑から救い出し、ロザリオを特徴づけるべき聖書的・キリスト的・観想的な精神を保証しました。

 姉妹兄弟の皆様。ロザリオを「祈り」、あえていうなら、こうして「祝う」なら、それは当然の帰結として、愛の泉にもなります。神への愛と隣人への愛――この二つは同じコインの裏と表です。聖ヨハネの手紙一からとられた第二朗読が思い起こさせてくれるとおりです。手紙は次の勧めをもって結ばれています。「ことばや口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(一ヨハ3・18)。それゆえ聖バルトロ・ロンゴは、ロザリオの使徒であると同時に、愛の使徒でもありました。彼はこのマリアの町で、孤児や受刑者の子どもたちを迎え入れ、愛の回復力を示しました。今日においても、ここではもっとも小さく、弱い人々が「巡礼所事業」によって受け入れられ、大切にされています。使徒的勧告『おとめマリアのロザリオ』が強調したとおり、ロザリオは世界の必要性に目を向けさせ、とくに今も緊急の課題であり続ける二つの意向を示します。すなわち、夫婦のきずなが弱まることによって苦しむ家庭と、国際的な緊張関係と、人命の尊重よりも武器取引を優先する経済によって危険にさらされた平和です。

 教皇聖ヨハネ・パウロ二世がロザリオ年を宣言したとき――わたしたちは来年その25周年を迎えます――、教皇はそれをとくにポンペイのおとめマリアのまなざしの下に置くことを望みました。その時から状況は改善していません。世界の多くの地域で今なお行われている戦争は、経済的・政治的な取り組みだけでなく、霊的・宗教的な取り組みもあらためて求めています。平和は心の中で生まれます。同じ教皇は、1986年10月に主要な宗教指導者をアッシジに集めて、平和のために祈るよう呼びかけました。教皇フランシスコとわたしも、最近のさまざまな機会に、この意向のために祈ることを全世界の信者に求めました。毎日、新聞がわたしたちに伝える死のイメージに慣れてはなりません。聖バルトロ・ロンゴはこの巡礼所のファサード(正面)を平和の記念碑と考えました。今日わたしたちはこの巡礼所から信仰をもって祈りをささげます。イエスは、信じて祈るならば、求めるものは何でも得られると教えました(マタ21・22参照)。聖バルトロ・ロンゴも、マリアの信仰を思い起こしながら、マリアを「恵みにおいて全能」な方と呼びました。マリアの執り成しを通じて、平和の神が、あわれみをあふれるばかりに注ぎ出し、人々の心に触れ、恨みや兄弟殺しの憎しみを鎮め、政府において特別な責任を担う人々を照らしてくださいますように。

 兄弟姉妹の皆様。地上のいかなる権力も世を救うことはありません。ただ神の愛の力だけが、主イエスがわたしたちに示し、与えてくださったこの神の愛の力だけが世を救うのです。この方を信じ、希望し、この方に従おうではありませんか。

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