教皇レオ十四世、2026年5月23日、アチェッラ、カリパリ広場におけるあいさつ

2026年5月23日(土)午前10時40分(日本時間同日午後5時40分)に訪問先のアチェッラ(ナポリ)のカリパリ広場を訪れ、「火の地」の諸自治体の首長と信者との会見で行ったあいさつ(原文イタリア語)。    親愛なる兄弟 […]

2026年5月23日(土)午前10時40分(日本時間同日午後5時40分)に訪問先のアチェッラ(ナポリ)のカリパリ広場を訪れ、「火の地」の諸自治体の首長と信者との会見で行ったあいさつ(原文イタリア語)。

 
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。

 諸自治体当局の皆様にごあいさつ申し上げるとともに、今日の集いを準備するためにご協力くださったかたがたに感謝します。ここにおられるすべての皆様、ありがとうございます。

 いかなる不正もその美を消し去ることのできないこの地域を再び訪れ、この土曜の午前を皆様と過ごせることをうれしく思います。わたしたちは人生の中で、美がもろいものであればあるほど、いっそう配慮と責任を要求することを理解します。愛する友人の皆様。いのちが芽生えるや否やすぐに死の脅威にさらされたとき、すべての人の誠実な心が感じる尊厳と責任の意識の高まりを強め、励ますこと――これが、今日わたしがアチェッラに来たおもな意味です。信仰の恵みを与えられた人は、この意識の高まりが造り主である神に由来することを理解することでしょう。神はご自分のいのちの計画の協力者をすべての人のうちに求めるからです。

 わたしは少し前に、司教座聖堂で、近年、悲しむべきことにこの地域を「火の地」として有名にした汚染の犠牲者のご家族の幾人かと会いました。「火の地」という表現は、存在し、存続する善を正当に扱うものではありませんが、それが犯罪を許してきた深刻な腐敗と無関心に関する意識の広まりを促したのはたしかです。回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』Laudato si’)のメッセージと、外向的で宣教的でシノドス的な教会となるようにという教皇フランシスコのたえざる招きを進んで受け入れた司教、司祭、助祭、修道者、信徒の皆様に感謝します。ともに歩み、利己心に打ち勝ち、抵抗や脅迫があっても大胆に預言を行うこと――これが、主がわたしたちに求め、聖霊が促すことです。

 実際、この地域では、いのちが存在し、死に抗います。正義が存在し、自らを主張します。もちろんわたしたちはいのちを選び、死の束縛から自らを解放しなければなりません。あきらめ、妥協し、必要で勇気を要する決断を先延ばしすることには、つねに微妙な都合よさがあります。運命論、不平、他者への責任の転嫁は、不法状態の温床であり、良心の荒廃の元です。そのためわたしは皆様に申し上げたいと思います。一人ひとりが自分の責任を果たし、正義を選択し、いのちに仕えてください。共通善を、少数者の関心事や、大小を問わない既得権益よりも優先しなければなりません。

 この土地は多くの犠牲を払い、多くの子どもたちを葬り、子どもと罪のない人々の苦しみを目の当たりにしてきました。これらの苦しみの価値と重さは、新しい協定をともに示し、その証人となるよう命じます。皆様は再生の時に向かって歩んでいますが、この再生の時は、放棄の時ではなく、倫理的行動と心からの想起の時でなければなりません。それは、回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』が一人ひとりの人が自らの責任から出発するようにとすべての人に呼びかけた、観想的なまなざしの時でもあります。教皇フランシスコはこう述べます。「エコロジカルな文化は、汚染、環境破壊、天然資源の枯渇といった喫緊の問題に対する一連の部分的応急措置に矮小化できるものではありません。技術主義(テクノクラティック)パラダイムの急襲に対してともに抗わせてくれる、明確なものの見方、考え方、教育プログラム、ライフスタイル、そして霊性が必要です」(『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』111)。姉妹兄弟の皆様。技術主義パラダイムは今なお勝利を収めているかのように自らを示します。それは紛争の拡大の根源であり、その背後には資源の独占競争が存在します。政治と組織の責任者が強者に対してあまりにも弱腰になるたびに、わたしたちはこのパラダイムの抵抗を目にします。少数の人々の莫大な利益を追求し、人間と労働と人間の未来に目を向けようとしない技術の発展においても、このパラダイムが働いているのを、わたしたちはあらためて目にします。そのため、もしわたしたちが変化へと招かれているなら、自分のものの見方から出発しなければなりません。

 ある人々によれば、自分の子どもたちによりよい世界を残すことが、最大の目標となります。しかし、むしろ、世界によりよい子どもを残すことこそが使命となるべきです。教育への取り組みこそがわたしたちにとって重要な優先課題です。若者の教育はもちろんですが、成人教育にも同じことがいえます。子どもの教育だけでなく、高齢者の教育も必要です。市民とその指導者の教育も必要です。労働者と雇用者の教育も必要です。信者と司牧者の教育も必要です。すべての人はあらためて学ばなければなりません。だれもが何かを与えることができますが、まず、受け取ることを学ばなければなりません。このことを認めるのは容易ではありませんが、これが未来の始まりです。それは、これまで考えることも、信じることも、十分に愛してもこなかったことに自分を開く扉のようなものです。あらためて学ぶこと――これがわたしたちを共同体にします。キリスト信者にとって、それはイエスとともに「道を歩む」ことです。それは、あらゆる年齢の人にとって、ますますイエスの弟子として成長することです。

 愛する友人の皆様。この土地と地球全体をいやす善を築くには、経済意識、市民意識、さらには宗教意識の真の変容が必要です。個人、機関、公的・私的組織の間で、教育的・社会的レベルで最初の成果をもたらしている協定を強化し、拡大しなければなりません。そのことは犯罪組織に対抗し、それを解体するだけでなく、すでに皆様の心の中にある善の力とすばらしい思想を積極的に結びつけ、増大させます。ここでわたしは、勇気ある行動によってこの地域の悪を最初に告発し、隠され否定されていた汚染の現実に注意を向けさせた「先駆者たち」に感謝申し上げたいと思います。とくにわたしは環境団体のメンバーのことを考えています。今やわたしたちは皆、自分の家の門を守るように被造物の健康を見守り、土地、水、空気、共存を汚染する行為と結びついた権力と富への誘惑を拒絶しなければならないことを知っています。わたしたちは一歩ずつ、しかし速やかに、個人主義的でない経済、消費主義的でないシステムを実現しなければなりません。わたしたちを魅了し、より病的で貧しい者とする成長モデルから、どれほど多くの廃棄物と浪費と有害物質が生じてきたことでしょうか。それゆえわたしたちは、別の形で豊かになることを学ばなければなりません。人間関係に注意を向け、共通善の推進に努め、地域社会にいっそう愛情を注ぎ、わたしたちとともに暮らす人々をより快く迎え入れ、社会に溶け込ませなければなりません。

 このような回心から出発することによって、共同体のよりよい実践を築くことができるのです。それは、無責任な侵害を行うのではなく、むしろ有限性の意識を深める個人の起業を通じて行われます。彼らは侵略の論理ではなく、回復を愛します。所有することではなく、義に飢え渇きます。とくに、人間の心に寄り添い、それゆえ、人間を造られた神に近づくことは、疎外や分裂の影響を受けることのない、包括的で一致した共同体を望むことを意味します。しかし、わたしたちが通らなければならない道は狭いのです。なぜなら、それはわたしたち自身から、わたしたちの置かれたところから始まるからです。軌道を修正し、慣れ親しんだ習慣や偏見に日々に働きかけ、自分の囲いの外を見ることができることは、真の意味で互いに出会うことを意味します。それは時として険しく、道しるべのない道です。その具体的な例があります。「火の地」という名は、都市の郊外にともされた火を指します。この火は時として、あまり知られておらず敬われることもない、拒絶され除(の)け者にされた少数派の兄弟姉妹によってともされます。険しい道とは、疎外された人ではなく、疎外そのものと立ち向かうことです。それは最後の輪だけでなく、鎖全体を断ち切ることです。皆様はそのことをよくご存じです。

 イタリアの守護聖人である聖フランシスコの聖年にあたり、まさにこのアッシジの貧者が、平和は他者への思いやりと兄弟愛の上に築かれることをわたしたちに思い起こさせてくれます。わたしたちは、ともに生きることを学ぶために、一つの家で暮らしています。この家の問題は、自分たちの問題です。その家の美しさは、自分たちの美しさです。わたしたちは夜回りのように警戒する務めをもっています。わたしたちは新しい夜明けを目にする人々の一人となることができます。

 姉妹兄弟の皆様。心から感謝します。この訪問は教皇にとってたいへん貴重なものです。祈りのうちに、皆様の一人ひとりと、皆様の家族と、皆様の兄弟の現在と未来を、明けの明星である聖母マリアにゆだねます。ご清聴ありがとうございます。

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