
2026年6月20日(土)午後3時55分(日本時間同日午後10時55分)にパヴィア、サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会(Basilica di San Pietro in Ciel d’Oro a Pavia)を訪 […]
(コラード・サンギネティ)司教様
親愛なる司教職にある兄弟の皆様
親愛なる司祭と助祭の皆様
親愛なる男女修道者と神学生の皆様
わたしの兄弟である聖アウグスチノ修道会会員の皆様
兄弟姉妹の皆様。
皆様とここにいられることを幸いに思います。コラード・サンギネティ司教と聖アウグスチノ修道会総長であるジョセフ・ファレル神父に、歓迎のことばをくださったことを感謝申し上げます。パヴィアにあるこの教会について聞いたことをうれしく覆います。この教会は、このパヴィアの町と地域に生き生きと存在する古くからの伝統をもつ共同体です。この共同体は、今の時のしるしと課題に注意を向け、労苦と世俗化の状況と信仰の伝達の困難にも落胆していません。
落胆しないでいるためには、信仰の精神に促されたまなざしが必要です。このまなざしは、一見したところよりも深く現実を読み解き、新たないのちを生み出すことのできない否定的・悲観的な態度に陥らないための助けとなります。このわたしたちが必要とするまなざし――すなわち、聖霊がわたしたちに与えてくださるまなざし――は、イエスのまなざしです。困難や誤解の中にあっても、イエスは野の花や空の鳥のうちに御父の摂理のみ手を見いだし(マタ6・28-29参照)、成長する小さな種のうちに希望をはぐくみ(マコ4・30-33参照)、目を上げてすでに色づいて刈り入れを待っている畑を見るようにと招きます(ヨハ4・35参照)。教皇フランシスコは使徒的勧告『福音の喜び』(Evangelii gaudium)の中で、現実を霊的に解釈するようにわたしたちを促して、こう述べます。「信仰の目で見れば、聖霊が暗闇の中に光を放ち続けていることに気づくでしょう。〔……〕信仰は、水がぶどう酒に変わりうるものであることを少しずつ知るよう、毒麦の中で成長するよい麦を見付けるよう迫るのです」(同84)。
福音の希望に照らされ、主の弟子を「生きた石」と呼んだ使徒ペトロが手紙の中で語ったことに促されて(一ペト2・4-10参照)、わたしたちはこう自問します。このパヴィアで、わたしたちはどうすれば生きた教会となることができるだろうかと。
使徒の最初の指示は本質的に重要です。すなわち、人々が見捨てたが、神が選ばれた生きた石であるキリストと一つに結ばれ続けることです。キリストは霊的な建物の土台であり、わたしたちの教会の歩みと司牧活動と福音宣教の基盤として置かれた隅の親石です(4-5節参照)。
キリストのうちに築かれ、また築くことは、副次的なことがらに気を散らし、エネルギーを浪費する危険からわたしたちを守ってくれます。副次的なことがらは、たとえそれがよいものであっても、本質的なことのために役立ちません。当然のことながら、わたしたちは現実的でなければなりません。またわたしたちは、小教区共同体や教区の生活において、わたしたちの存在と多様な活動を必要とする多くの緊急の案件や責務があることを知っています。しかし、肝腎なのはすべてのことを中心に立ち帰らせることです。つねに隅の親石から出発してものごとを築き上げ、自分たちの活動が散漫になって、自らと自らの努力だけが中心となるのを防ぐことです。中心はキリストです。だからわたしたちは皆、この唯一の源泉から水をくみ、自分たちの責務をキリストの光とことばに基づく識別のもとに置かなければなりません。そうすれば、ともに歩み、分裂することなしに自らを刷新し、すべての人が互いを兄弟姉妹として認め合い、神の国に奉仕するために喜びをもって働く教会を成長させることができるのです。
これが、初めに皆様の司教が述べられたことの意味でもあります。わたしたちは、たとえ過去の組織や何らかの安定を放棄しなければならなくなるとしても、本質的なことを中心としたキリスト教共同体となることを学ばなければなりません。本質的なことは、キリストとともに生きることです。キリストの福音を広めることをつねに心に留めなければなりません。時として内的な散心や多くの職務に対する疲労を感じて苦しむこともある司祭の皆様に、何よりもまず次のことを勧めます。つねに中心に戻り、すべてのことを主との関係のうちに統合してください。そして、司祭どうしの兄弟の交わりと、信徒とともに司牧を行うことの喜びを主のうちに見いだしてください。また、男女修道者の皆様にもこのことを勧めます。皆様は、自分が属するカリスマを実現するのにしばしば困難を感じます。しかし皆様は、つねにキリストから再出発し、与えられたタレントを他の修道共同体や教区教会全体と分かち合わなければなりません。
隅の親石であるキリストに従うことは、わたしたちが信仰の伝達と修道生活に関する今日的な問題に立ち向かうことも可能にします。多くの人が霊的な感覚を失ったかのように思われ、またさまざまな理由で自分の生活にとってキリスト教信仰が魅力を示すものともはや感じられなくなっている時代にあって、わたしたちは何よりもまず、イエス・キリストの喜びと解放の知らせである福音のメッセージをもたらすように招かれています。それは、福音のメッセージがわたしたちの人生と社会に信仰のすばらしさを示すようになるためです。今日、人々が信仰を発見ないし再発見するための同伴を行うことがますます必要となっています。それゆえ、福音の核心であるイエスをのべ伝えなければなりません。イエスはその受肉と死と復活によって、神の神秘と同時にわたしたち自身の神秘をわたしたちに示します。「宣教的観点における司牧では〔……〕本質的なものに告知の重点は置かれます。もっとも美しいもの、もっとも偉大なもの、もっとも魅力的でもっとも必要なものについて語るのです」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』35[Evangelii gaudium])。
この文脈において、聖アウグスティヌスの姿は貴重な光を輝かせます。聖アウグスティヌスの思想と回心の物語と霊性は、内面性の価値と第一の重要性をわたしたちに思い起こさせてくれます。「外に出て行くな。あなた自身の中に帰れ。真理は内的人間に住んでいる」(『真の宗教』[De vera religione XXXIX, 72(茂泉昭男訳、『アウグスティヌス著作集2 初期哲学論集(2)』教文館、1979/1989年、359頁)])。自分自身の中に再び入り、外的な断片によって散漫にならず、自分の生活を方向づけ人間関係を活気づける意味を探し求め、見いだすことの必要性はすべての人に共通に見られます。この必要性は今日、慌ただしくばらばらの日々の生活の中でも、とくに若者たちの問いの中に、さまざまなしかたで再び現れ出ています。
わたしたちの信仰のあかしが首尾一貫して情熱の込もったものであるとき、わたしたち自身が、教会という霊的な建物を構成する「生きた石」となります。ユダヤ教世界と異教世界に対して最初から新しく驚くべきものだったキリスト信者の生活様式は、現代世界においても今なお同じ姿でなければなりません。実際、わたしたちはキリストと一つに結ばれることにより、聖なる祭司職を示し、日々霊的ないけにえをささげることができます(一ペト2・5参照)。祈りと隣人への奉仕と織り合わされたこの礼拝は、選択と行動と人間関係を通して、わたしたちの生活を福音のしるしへと造り変えます。
愛する友人の皆様。わたしたちは生きた石として、地域にしっかりと根ざした教会となるように招かれています。この教会は、人々の苦難と希望のただ中を歩み、人々に耳を傾けつつ同伴する術に優れ、家庭や、秘跡を受ける準備をする人々や、たまにしか教会に来ない人あるいは信仰生活から離れた人とも関係をはぐくみます。
皆様がすでにこうした司牧的情熱に駆り立てられていることをわたしは知っています。ですから皆様にお願いします。落胆することなくこの情熱を強めてください。福音の喜びをもってすべての人に手を差し伸べようと努めてください。皆様の歴史の最良のものを活用し――小礼拝堂(オラトリオ)のことを考えてください――、新たな出会いの可能性を探求してください。とくに注目に値するのは、福音を囲んで家に集まり、小教区共同体または司牧共同体の奉仕に開かれた、小共同体のネットワークを組織化する取り組みです。みことばに耳を傾けることは、霊的な力を生み出し、運動団体や会を通して生活の場であかしを行うことを刺激し、貧しい人々に近づくように促します。わたしはとくにここパヴィアで大学司牧と文化との対話の重要性を強調したいと思います。学習と学術研究は、信者が、人間の霊魂を動かす真理と正義と美の探求を照らすことができる信仰の提示方法について考えるように駆り立てます。皆様が共同体生活におけるシノドス的なスタイルを採用し、伝統的な小教区生活と新しい福音宣教の取り組みを統合するための重要な一歩を歩み始めていることをわたしは知っています。それゆえ皆様にお願いします。このような道を歩き続けてください。共同の識別と、共通の司牧計画の作成と、兄弟愛の成長と、共同責任の推進を通して、ともに歩むことをますます学んでください。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。教会の母である至聖なるマリアが、わたしたちを神を目指して歩む一つの民とする兄弟愛のうちに福音を生き、あかしする熱い望みを皆様に与えてくださいますように。聖なる教父アウグスティヌスの聖遺物を崇敬しながら、聖アウグスティヌスが皆様の守護聖人である聖シルスとともに、この教会とパヴィアの町のためにつねに執り成してくださることを願います。ご清聴ありがとうございます。
