
「主の霊がわたしの上におられる」(ルカ4・18)。この節からイエスの説教は始まりました。そして今日わたしたちが耳にしたみことばもこの節から始まりました(イザ61・1参照)。それゆえ、初めに主の霊があります。
親愛なる兄弟の皆さん。今日は皆さんとともにこの主の霊について考察したいと思います。なぜなら、主の霊なしにキリスト教的生活はなく、主に油を注がれることなしに聖性は存在しないからです。主の霊が〈主人公〉です。そして、今日の司祭職の生まれた日に、主の霊がわたしたちの役務の起源であること、すなわち、すべての牧者の生活と活力の起源であることを思い起こせるのはすばらしいことです。実際、母である聖なる教会はわたしたちが聖霊が「いのちの与え主」(1)であると告白するように教えます。イエスが次のように述べて確認なさったとおりです。「いのちを与えるのは“霊”である」(ヨハ6・63)。この教えは使徒パウロによってあらためて取り上げられました。使徒パウロは次のように述べます。「文字は殺しますが、霊は生かします」(二コリ3・6)。また彼は「キリスト・イエスによっていのちをもたらす霊の法則」(ロマ8・2)について語ります。主の霊がなければ教会はキリストの生ける花嫁となることはできず、――よかれあしかれ善良な――宗教組織にとどまります。キリストのからだとはなれず、むしろ人の手によって築かれた神殿となります。わたしたちが「聖霊が宿ってくださる神殿」(一コリ6・19、3・16参照)であることから出発しないなら、どのように教会を築くことができるでしょうか。わたしたちは主の霊を家の外に置いたままにしたり、どこかの礼拝所に安置することはできません。主の霊は中心でなければなりません。わたしたちは日々、こういわなければなりません。「聖霊来てください。あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆきます」(2)。
〈主の霊がわたしの上におられる〉。わたしたち一人ひとりがこういうことができます。それは仮定ではなく、現実です。なぜなら、すべてのキリスト者は、とくにすべての司祭は、次のことばを自分のものとすることができるからです。「主がわたしに油を注いだからである」(イザ61・1〔聖書協会共同訳〕)。兄弟の皆さん。わたしたちは功績によらず、純粋に恵みによって、わたしたちを神の聖なる民の父また牧者とする油を与えられました。ここで霊の〈油を注ぐ〉という側面について考察したいと思います。
マリアの胎内で最初の「油の注ぎ」が行われた後、霊はヨルダン川でイエスの上に降りました。聖バジリオが解説するとおり、それに続いて、「キリストのすべての働きは、御霊がともにあって、働いた」(3)のです。実際、イエスはこの注がれた油の力によって説教し、しるしを行いました。また、この注がれた油によって「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていた」(ルカ6・19)のです。イエスと霊はつねにともに働きます。こうして、聖イレネオが述べるとおり、両者は御父の二つの手のように(4)、わたしたちに手を差し伸べ、わたしたちを抱き、わたしたちを救い出してくださるのです。この二つの手によってわたしたちの手は証印を受け、キリストの霊によって油を注がれます。兄弟の皆さん。まことに主はわたしたちを選び、そこかしこへと招くだけではありません。主は、使徒たちに降ったのと同じご自身の霊をわたしたちに注いでくださったのです。兄弟の皆さん。わたしたちは「油注がれた者」なのです。
それゆえ、使徒たちに目を向けてみたいと思います。イエスは使徒たちを選び、使徒たちはイエスの招きに応じて舟と網と家を残しました。みことばの油が彼らの生活を変えます。彼らは熱心に師であるかたに従い、これからより偉大なことが成し遂げられることを確信しながら、説教を開始します。やがて過越が来ます。すべては止まったかのように思われます。使徒たちは師であるかたを否み、見捨ててしまいます。わたしたちは恐れてはなりません。わたしたちは勇気をもって自分の生活と失敗を振り返らなければなりません。最初に師であるかたを否み、見捨てたのはペトロです。使徒たちは自分たちの至らなさを認め、自分たちが師であるかたを理解していなかったことを知ります。最後の晩餐の後、大祭司の中庭でペトロが発した、「そんな人は知らない」(マコ14・71)ということばは、咄嗟の弁明だけでなく、霊的な無知を認めるものでもありました。ペトロや他の使徒たちは、群衆を引きつけ、奇跡を行うメシアの背後に人生の成功を期待していたかもしれません。しかし彼らは十字架のつまずきを認めず、それが彼らの確信を打ち砕きます。イエスは彼らが自分だけでは何もできないことを知っておられました。そのためにイエスは弁護者を彼らに約束されます。そして、まさに聖霊降臨によるこの「第二の油の注ぎ」が弟子たちを造り変え、自分たちではなく神の民を牧するようにと彼らを導きます。ところで、解決しなければならない矛盾はこれです。わたしは神の民の牧者なのか、それとも自分自身の牧者なのか。そこで霊がわたしたちに道を示してくださいます。聖霊降臨の炎によって注がれた油が、自分自身とその能力を中心とした弟子たちの宗教心を消し去りました。霊を受け入れた後、ペトロの恐れと優柔不断はなくなりました。いのちをささげる望みに燃えていたヤコブとヨハネは、名誉ある地位を求めることをやめます(マコ10・35-45参照)。兄弟の皆さん。これがわたしたちの出世主義です。他の弟子たちは、もはや二階の部屋に恐れて閉じこもることなく、出て行って世の使徒となります。わたしたちの心を造り変え、これまでと異なる別の次元へと導いてくれるのは、霊です。
兄弟の皆さん。わたしたちの司祭生活、使徒的生活も同じような道を歩みます。わたしたちにとっても最初の油の注ぎがありました。それは、わたしたちの心を捕らえた愛の招きによって始まりました。そのためにわたしたちは港を後にし、わたしたちを聖別する霊の力が真の熱意の上に降りました。その後、神の時に従って、真理の時を示す過越の段階がわたしたち一人ひとりに訪れます。それはさまざまな形をとる危機の時です。遅かれ早かれ、すべての人は失意と困難と弱さを経験します。理想は現実の要求の中ですり減るように思われます。ある種の習慣と以前は想像もできなかった試練がこれに続き、忠実を守ることがかつてよりも困難に思われるようになります。この段階――すなわち、わたしたち皆が過去に経験し、今経験しており、将来経験することになる誘惑と試練――は、油を注がれた者にとって決定的な転換点となります。そこからうまく抜け出せない場合、ある種の凡庸さに滑り落ち、疲れてある種の「普通さ」へと陥ることがありえます。その場合、三つの危険な誘惑が生じます。一つは〈妥協〉への誘惑です。この誘惑によってわたしたちは可能なことで満足します。第二は〈代償〉への誘惑です。この誘惑によってわたしたちは自分に注がれた油以外のもので自分を「充電」しようとします。第三は〈失望〉への誘惑です――これがもっともよく見られるものです――。この誘惑によって不満が無気力へと向かいます。しかし、ここに大きな危険があります。わたしたちは外見はそのまま残して――「わたしは祭司であり司祭である」――、自分の中に閉じこもりながら、無気力に日々を過ごすのです。注がれた油の香りはもはや人生と心を香らせることはありません。心は広がるどころか、幻滅に包まれながら縮小します。お分かりでしょうか。これが蒸発です。そのとき、司祭職はゆっくりと聖職者主義へと滑り落ち、司祭は自分が民の牧者であることを忘れ、国家の聖職者となるのです。
しかし、この危機は司祭職の転機となることもできます。それは「霊的生活の決定的な段階である。その中で、イエスと世、英雄的な愛と凡庸さ、十字架とある種の幸福、聖性と宗教的な義務への忠実の間の最終的な選択が行われなければならない」(5)のです。今日の祭儀の終わりに、この問題を扱った古典的な著作である『第二の召命』(La seconda chiamata)が皆様に贈られます。これはこの問題に触れたヴォイヨーム神父の古典ですので、お読みください。わたしたちは皆、この司祭職における時について考察しなければなりません。それは祝福に満ちた時です。わたしたちはそこで、過越のときの弟子たちと同じように、「辱められ、十字架につけられたキリストによって打ち負かされたことを告白し、新たな道を歩み始めることを受け入れるために十分にへりくだる」ように招かれています。「この新たな道は、〈霊の道〉であり、信仰の道、力強い愛の道、幻想のない道」(6)です。それは〈カイロス(時)〉です。そのときわたしたちは次のことを見いだします。「すべては、ある期間、イエスに従うために舟と網を捨てることに尽きるのではない。むしろ、カルワリオ(ゴルゴタ)にまで行き、イエスの教えと実りを受け入れ、〈聖霊の助けによって〉人生の終わりまで歩むことを求める。人生は、神の愛の完成のうちに終わらなければならないからである」 (7)。〈聖霊の助けによって〉――使徒たちにとってそうであったのと同じように、わたしたちにとっても。それは「第二の油の注ぎ」の時です。第二の召命の時です。わたしたちは第二の油の注ぎのためにこの召命に聞き従わなければなりません。わたしたちはそこで、自分の夢への熱意に基づいてではなく、自分の弱い現実に基づいて霊を受け入れます。それは心の奥深くに真理をもたらす油の注ぎです。それはわたしたちの弱さ、困難、内的な貧しさに霊が油を注いでくださることを可能にします。そのとき、注がれた油は再び香りを放ちます。わたしたちによってではなく、霊によって。この時にあたり、わたしは心の中で――いわば――危機のうちにある皆さんのうちのある人々のことを思い起こしています。この人々は、方向を見失い、どのように道を歩めばよいか分からず、この第二の霊の注ぎの中でどのように道を歩み直せばよいか分からないでいます。わたしの心にあるこれらの兄弟に、ただこういいたいと思います。勇気をもってください。主はあなたの弱さや罪よりも偉大です。主に身をゆだね、もう一度招いていただきなさい。今度は聖霊の注ぎによって招いていただきなさい。二重生活はあなたの助けになりません。すべてを窓から投げ捨ててはなりません。前を向き、聖霊の注ぎによって慰めていただきなさい。
この成熟の段階に向かう道は、自分の弱さに関する真理を認めることです。これが「真理の霊」(ヨハ16・13)がわたしたちに勧めることです。「真理の霊」は、わたしたちが自分の心の奥底を見つめ、自問するように促します。わたしの自己実現は、わたしの才能、与えられた役割、与えられたほめことば、昇進、上司や協力者、わたしが保証できる〈慰め〉によるものでしょうか。それとも、わたしの人生を香らせる油の注ぎによるものでしょうか。兄弟の皆さん。司祭の成熟は聖霊によってもたらされます。それは聖霊がわたしたちの人生の主人公になるときに実現します。そのとき、すべての眺めが変わります。失望も幻滅も――罪も――変わります。なぜなら、わたしたちは何かを改善することによって心地よくなろうとするのではないからです。むしろ、その油の注ぎによってわたしたちを満たし、極みまでわたしたちのもとに降ることを望まれたかたに制限なしに自分をささげるからです。兄弟の皆さん。このことを再発見してください。霊的生活が自由で喜びに満ちたものとなるのは、形式を保ったり継ぎ当てを縫うことによってではありません。むしろそれは、霊の働きとその計画に身をゆだね、自分たちに求められる場所で、自分たちに求められるしかたで進んで奉仕することによって実現します。わたしたちの司祭職は繕うことによってではなく、恵みにあふれることによって成長するのです。
真理の霊にわたしたちのうちで働いていただくなら、〈わたしたちは注がれた油を守ります〉。なぜなら、わたしたちが犯しがちな偽り――聖職者的な偽善――がただちに明るみに出されるからです。そして、「汚れたものを清める」霊は、少しも「注がれた油を汚すことのないように」と、うむことなくわたしたちに勧めます。次のように述べるコヘレトのことばが思い浮かびます。「死んだ蠅は香料作りの香油を腐らせ〔……〕る」(コヘ10・1)。たしかに、わたしたちのうちに忍び入るあらゆる二枚舌――とくに聖職者の二枚舌――は危険なのものです。二枚舌を容認してはなりません。むしろそれを霊の光の下に置かなければなりません。なぜなら、「心は何にも増して偽り、治ることもない」(エレ17・9〔聖書協会共同訳〕)ので、聖霊だけがわたしたちを不忠実からいやすことができるからです(ホセ14・5参照)。これはわたしたちにとって避けることのできない戦いです。聖大グレゴリオが述べたとおり、それは不可欠な戦いです。「神のことばをのべ伝える者は、まず自分の生き方に注意しなければならない。なぜなら、そうして自分の人生から水をくむことによって、何をどのように語るべきかを学ぶからである。〔……〕だれもはじめに自分の心の中で聞いたことのないことを外に向けて語れると考えてはならない」(8)。霊はわたしたちが耳を傾けるべき内なる教師です。霊がわたしたちのうちで油を注ぐことを望まないところはないことを、わたしたちは知っているからです。兄弟の皆さん。注がれた油を守ってください。聖霊に祈り求めることを、時たま行うのではなく、日々の呼吸としてください。来て、わたしたちの注がれた油を守ってください。霊によって聖別されたわたしは、霊のうちに浸され、霊の光によってわたしの闇を――わたしたちは多くの闇を抱えています――照らしていただくように招かれています。それは、自分が何者であるかという真理を再発見できるようになるためです。わたしたちのうちで働く偽りと戦うように、霊に促していただこうではありませんか。礼拝を通して、霊によって生まれ変わらせていただこうではありませんか。なぜなら、わたしたちが主を礼拝するとき、主はわたしたちの心に霊を注いでくださるからです。
「主の霊がわたしの上におられる。主がわたしに油を注がれたからである」。預言は続けて述べます。「主がわたしを遣わされたのは」、福音と、解放と、いやしと、恵みをもたらすためである(イザ61・1-2、ルカ4・18-19参照)。一言でいえば、それは〈調和(アルモニア)〉のないところに〈調和〉をもたらすためでした。聖バジリオが次のように述べるとおりです。「霊は調和である」。調和をもたらすのは霊です。油の注ぎについて皆さんにお話しした後、その結果である、この調和について少し皆さんにお話ししたいと思います。実際、聖霊は調和です。何よりもまず天において聖霊は調和です。聖バジリオはこう解説します。「神への奉仕、および超世界の諸力相互の協和において、かの超天の言い表しようもない調和は、御霊の助けなしには、守ることができない」(9)。さらに地上において聖霊は調和です。実際、聖霊は、教会において、すべてのものを結び合わせる「神的かつ音楽的な調和」(10)です。しかし、調和と霊を欠いた司祭職を考えてみてください。そのような司祭職は機能しません。聖霊はカリスマの多様性を促し、それをあらためて一致させます。聖霊は、画一性に基づくのではなく、愛の創造性に基づく和合(コンコルディア)を造り出します。こうして聖霊は多くのものの中で調和を造り出します。こうして聖霊は司祭職のうちで調和を造り出します。霊のたまものである第二バチカン公会議の期間中に、ある神学者が一つの研究を公表しました。この研究は、霊について、単独的にではなくむしろ複数的に語りました。この研究は、聖霊を、単数形だけでなく「複数形」の神的位格として、すなわち、「神のわれわれ」、御父と御子のわれわれとして考えるように招きます。なぜなら、聖霊は御父と御子の結びつきであり、〈それ自身において〉和合であり、交わりであり、調和だからです(11)。わたしは、この神学的論考を読んだとき――それはわたしが神学を学んでいた頃のことです――つまずいたことを思い起こします。それは異端のように思われました。なぜなら、わたしたちの養成においては聖霊がいかなるかたであるか十分理解できなかったからです。
何よりもまず聖霊がご自身の油を注いだ人々を通して調和を造り出すことが、聖霊の望みです。兄弟の皆さん。わたしたちの間で調和を造り出すことは、たんに教会のプロセスを改善するための適切な方法でもなければ、舞踏曲(メヌエット)を踊ることでもなければ、戦略や礼儀の問題でもありません。それは霊による生活の内的な要求です。たとえ軽率な過ちによるものであっても、わたしたちが分裂の道具となるなら――たとえばうわさ話によって(わたしたちはあらためてこのテーマを取り上げます)――、交わりである霊に反する罪を犯したことになります。こうしてわたしたちは敵のゲームに参加することになります。敵は公然と姿を現しませんが、うわさ話やほのめかしを好み、党派の形成をあおり、過去への郷愁、不信、悲観主義、恐怖を増大させます。どうか、不一致と分裂と、あらゆる愛と交わりの欠如によって、霊の油の注ぎと母である聖なる教会の衣を汚さないように注意してください。次のことを忘れないでください。「神のわれわれ」である霊は、共同体的な形を愛します。すなわち、それぞれの人の必要に応じて進んで手を差し伸べること、それぞれの人の好みに忠実であること、それぞれの人の要求に謙虚に従うことを好みます。
調和はさまざまな美徳の一つにすぎないものではなく、それ以上のものです。聖大グレゴリオが次のように述べるとおりです。「調和の美徳の価値は、それがなければ他の美徳が絶対的に無価値となることによって示される」(12)。兄弟の皆さん。調和を守るために互いに助け合ってください。これは、他の人から始めるのではなく、一人ひとりが自分から始めるべき務めです。次のことを自問してください。わたしのことば、意見、わたしが話すこと、書くことの中にあるのは霊のしるしでしょうか、それとも世のしるしでしょうか。わたしは〈司祭の優しさ〉についても思いを致します。けれども、多くの場合、わたしたち司祭は礼を失しています。司祭の優しさに思いを致してください。もし人々がわたしたちのうちに、人を批判し指弾する、不満を抱えた独身者しか見いだすことができないなら、どこに調和を見いだしたらよいでしょうか。
教会の中で自分が受け入れられず、愛されていないと感じ、むしろ疑いと批判の目で見られていると感じるために、どれほど多くの人が教会に近づかず、また教会から離れることでしょうか。神の名において、人々をつねに受け入れ、ゆるしてください。そして次のことを忘れないでください。気難しく、不平を言い立てることは、何一つよいことを生まないばかりか、宣教を台無しにします。なぜならそれは、交わりであり調和である神の反対のあかしとなるからです。それは何よりもまず聖霊を悲しませます。使徒パウロは聖霊を悲しませないようにとわたしたちに勧めているのです(エフェ4・30参照)。
兄弟の皆さん。わたしの心から出た以上の考えをお伝えした後、最後に単純でありながら重要なことばを皆さんに申し上げます。ありがとう。皆さんのあかしに感謝します。皆さんの奉仕に感謝します。皆さんが隠れて行っているよいことに感謝します。皆さんが神の名によって与えるゆるしと慰めに感謝します。どうかつねにゆるしを与えてください。ゆるしを拒まないでください。皆さんがしばしば多くの困難と無理解と無視の中で行っている奉仕職のゆえに感謝します。兄弟の皆さん。ご自身に信頼を置く者を決して失望させない神の霊が皆さんを平和で満たし、皆さんの中で始められたことを完成してくださいますように。そして皆さんが聖霊の注ぎの預言者、調和の使徒となることができますように。
