
2026年5月2日(土)午後5時(日本時間3日午前0時)からサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂でささげた司教叙階式ミサ説教(原文イタリア語)。 親愛なる兄弟姉妹の皆様。 わたしたちはキリストに近づくことによ […]
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
わたしたちはキリストに近づくことによって、堅固なもてなしの家となります。これこそが、とくに復活節に、そして今日ローマ教区の4人の新しい補佐司教の叙階式を行うことによって特別なしかたでわたしたちが味わう喜びです。
ローマ教会は、キリストとの特別なきずなによって、普遍性と愛への比類のない召命を帯びています。復活して生きておられるキリストは、神の聖なる民という生ける石から成る霊的な建物の礎(いしずえ)です。キリストに近づくことは、こうして、互いに近づき、一致のうちにともに成長することです。これが、わたしたちをかかわらせ、ローマの町を内側から造り変える神秘です。使徒ペトロとパウロによってローマにもたらされたこの神秘の力に奉仕するために、わたしたちの兄弟であるアンドレア、ステファノ、マルコ、アレッサンドロが司教に叙階されます。これは民の祝いです。なぜなら、彼らはこのローマの民から、そしてこの民を愛によって司牧する司祭団から来たからです。
今日、わたしたちの教区共同体は、キリストの福音への奉仕のために完全に聖別するために新しい司教たちに油を注ぐ、聖霊の呼びかけによって集まっています。捨てられた石であるキリストは、「神によって選ばれ」、「隅の親石となった」(一ペト2・4、7。詩118・22参照)かたです。
初期キリスト教徒にとって、詩編の中で用いられているためによく知られたこのたとえは、特別に意味をもつものに思われたに違いありません。メシアであるイエスは、神の子であることが認められなかったからばかりでなく、それ以前に、神にふさわしくないと考えられた被造物の身分をとったがゆえに、捨てられました。あわれみ深い愛の道を忠実に歩まれたイエスは、捨てられた羊たちを捜しに行き、彼らとともに食卓に着き、彼らを石で打とうとする人々の手と心から武器を取り除きました。今日の典礼で朗読された福音が述べるとおり、御子はこのようにして御父のみ顔を示しました。御子のうちに御父のわざが行われます。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』というのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか」(ヨハ14・9-10)。
ローマに生きる教会にとって、捨てられた石は、社会が過去に捨て、今も捨てる人々に対するメシア的な告知の中心です。それはわたしたちの告知と宣教の中心です。わたしたちは、聖なるかたが汚れた者に触れ、正しいかたが罪人をゆるし、いのちであるかたが病人をいやし、師であるかたが弟子たちの疲れ、汚れた足を洗うのを目にしました。
大いなる帝国の首都であるこのローマの町で、捨てられた石は、神の国についての新たな希望のしるしとなりました。真福八端が想い描き、「マリアの賛歌」(マグニフィカト)が賛美するとおりです。地球の構造を決めようとする常軌を逸した野望を追求する人々の支配の論理を覆すことによって、捨てられた人々はキリストにおいて自らの尊厳を見いだし、神の国によって選ばれたことを感じるようになります。イエスは弟子たちにいわれます。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハ14・2-3)。
愛する姉妹兄弟の皆様。だからわたしたちは今日に至るまで、人々に捨てられ、神に選ばれた石となられるのです。弱者を踏みにじり、すべての人の尊厳を尊重せず、強者を選ぶために紛争を用い、取り残され失敗した人々を顧みず、屈服した人々を歴史の屑とみなす計画に、わたしたちは生活とことばによって反対するからです。イエスは武器をもたず、武器を取り除く預言者としてわたしたちのただ中を歩み、拒絶されてもその生き方を変えませんでした。
さて、今日からローマ教会の補佐司教となる、愛する兄弟の皆様。皆様に向かって申し上げます。皆様はこの教会を司牧するたまものを与えられました。皆様は、ローマ教区の総代理の枢機卿とともに、わたしがローマの民にとってよい牧者を映し出す鏡となり、世界に広がる神の聖なる民を愛において主宰する助けとなることができます。
皆様に勧めます。この町の捨てられた石に手を差し伸べてください。そして、彼らに告げ知らせてください。わたしたちの隅の親石であるキリストのうちに、だれも、教会という聖なる建物と人類の兄弟愛の活発な一員となることから排除されないということを。このイメージには、教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』(Evangelii gaudium)の呼びかけがこだましています。すなわち、「野戦病院」としての教会になりなさい、路上の司牧者となりなさい、物質的・実存的な周縁を心に留めなさいという呼びかけです。皆様は司祭として、皆様が同伴した小教区共同体とともに、この招きを受け入れました。今、新たな招き、さらなる召命が皆様のもとに来ます。この招きはつねに同じことを心に留めます。すなわち、だれも、本当にだれも、神から見捨てられたと思ってはならないということです。そして皆様は、福音の中心である、このよい知らせの使者とならなければなりません。
皆様のうちで預言の霊に働いていただきなさい。皆様の身分がもたらす特権に安住せず、地位を重んじる世俗的な論理に従わず、仕えられるためではなく仕えるために来られたキリストの証人となってください(マコ10・45参照)。恵みとあわれみの糸によってローマ教区の広大な空間と人々を結び合わせ、違いを和解させ、人々を迎え入れ、耳を傾け、ゆるしながら、平和と一致の人となってください。そうすれば、皆様は役務によって預言者となることができます。
求められるのでなく、見いだされる者となってください。司祭、助祭、男女修道者、使徒職に携わる男女の信徒が決して孤独を感じないようにしてください。彼らが異なる奉仕職の中で希望の炎を再び燃え立たせ、同じ使命にあずかっていることを感じる助けとなってください。つねにうむことなく個人と共同体を力づけ、福音のすばらしさを単純に思い起こさせてください。
ローマの貧しい人々、巡礼者、世界のあらゆるところからローマを訪れる人々が、この町の住民と、組織と、司牧者のうちに、教会の真の姿である母性を見いだすことができますように。わたしたちの信頼する母である、ローマの民の救い(Salus Populi Romani)であるマリアが、わたしたちを導き、わたしたちの歩みをつねに守ってくださいますように。
