長崎・殉教者記念ミサ

1981年2月26日9時45分
長崎市営松山競技場特設会場

教皇は殉教者記念ミサの中で、75人に洗礼を授けた。

親愛なる皆さん 特に今、洗礼と堅信の秘跡をうけられた皆さん

1. マタイ福音書のことばをきいたいま、昔のキリスト信者たちが「聖なる丘」または「殉教者の丘」と呼びならした、この近くの「西坂の丘」にイエズスと共にのぼることは、私たちにとってたのしいこととなりました。私たちはこの丘を、長崎の「至福の丘」とも呼ぶことができるでしょう。ここで私たちは、日本カトリックの母教会の座とも言えるこの長崎の町から、多くの弟子たちを自分のもとに呼び寄せる、師なるイエズスの姿を思いうかべています。イエズスは特に自分の十字架のもとに集まって来た数多くの弟子たちに、愛をこめてお話しになります。そこには日本26聖人殉教者、ピオ9世によって列福された205殉教者、そして殉教したことが歴史的にも証明される聖者たち4000人以上の仲間(ラウレス)が集まっているのです。この栄光に輝く聖なる集団は、キリスト教初代の大集団にも比べられるものですが、数日前、マニラで挙行された16殉教者の列福式によって、更に新しい光をうけ、新しく評価されました。これらの殉教者は徳川家光による鎖国時代、寛永10年、11年、14年(A.D1633・1634・1637)に西坂で殉教したのでした。

 新しい福者たちは他のすべての殉教者と同様、人間的レベルの義を完成する福音の義のために苦しみをうけたので、イエズスによって幸いな者と宣言された(マタイ5・10参照)人たちです。この義こそ、天におられる父の完全に倣おうと望む人々に規範を与えるあの「山上の説教」で、キリストがお説きになった福音の義です。彼らは神の前に正しい人として死ぬ前に、心貧しく、柔和で悲しみに堪え、義に飢えかわいていました。彼らはあわれみ深く心の清い人、平和をもたらす人だったのです。

2. 一言でいえば、彼らは愛の二重の掟の実践者であり、伝達者だったのです。新福者のひとりジョルダン神父が裁判官に対して、「私は特にこの目的のために来ています。そしてそれは私の王であるキリストのお望みと同じものです。私たち二人を動かしている理由は、全面的に愛を土台とするキリスト者のおきてに従って、キリストと私があなたを愛しているということにあります」と宣言している通りです。

 16人の新福者が日本人に対して日本人、キリスト信者に対してキリスト信者、身内のきょうだいに対してきょうだいであると感じていたのは、実にこのような考え方、このような愛の心情によるものでした。殉教者を動かしたこの愛と福音宣教の熱意が、異った5つの国籍をもつ彼らを一つの仲間にしました。実際新福者の場合、九州と古い都、京都出身の日本人9名だけではなく、スペイン人4名、フランス人1名、イタリー人1名、フィリピン人1名が一つ仲間となっていたのです。ギヨーム・クルテとロレンソ・ルイズは、フランスとフィリピンから日本に渡航し殉教者として死んだという点では、それぞれの国で最初で唯一の者たちでした。強い一つの愛が身分の低い者と高い者を、聖ドミニコの家族の13名と敬度な3名の信徒を一つに結び合せたのです。

 彼らの証言に耳を傾けましょう。「私が最も有難いと思う神のお恵みは、神が私をこの国におくり、こんなに多くの、またこんなにすばらしい神の僕たちの仲間としてくださったことです」。このことばは10年間もドミンゴ・イバネス神父と共に本州の大半をめぐって福音宣教に従事した、ルカス神父の証言です。同じように台湾と九州の宣教者として働いたヤコブ朝長神父、トマス西神父、そして1614年の禁教令によって追放されながらも、自分の国で受けた洗礼のお恵みを同じ祖国で最後まで生き抜こうと志し、1636年帰国を決意したビンセンシオ塩塚神父と俗人、京都のラザロもすばらしい人たちでした。また私たちはアウグスチノ会、ドミニコ会の協力者であった勇敢な長崎のマダレナ、及び「強い女性」という聖書的肩書をうけ、日本の女性たちから勇気の擁護者とあがめられる大村のマリナもほめたたえたいと思います。

3. 殉教者たちの寛大な愛と熱心な活動は彼らの中で働き、只今ミサの第一朗読できいたシラの書のいましめを遵守させてくれた聖霊の力によって説明できます。だからこそ私たちは長崎の裁判所の通訳が、二人の奉行に伝えた答えも理解できるのです。「お奉行様、彼らに信仰を捨てるようにと話すことは、死にかけている人に生きかえる薬を与えるようなものです。事実、彼らは生気をとりもどし、力強く返答してきます」。

4. 宗教の違う国で活動する教会の子どもとして彼らが取った態度は、このミサの第二朗読によまれた聖ぺトロのことばに教えられたものでした。彼らは(未信者の)兄弟たちが信者のよい行ないを認めて、「訪れの日に神に光栄を帰する」(1ぺトロ2・12)ようにと希望していました。この使徒の指示はローマ帝国時代の初代教会殉教者のとった態度の規範でもあったのです。当時の杜会的・政治的状況の中で、彼らが送った生活のしかたにも深い意味があります。彼らは「ただ言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信をもって」(1テサロニカ1・5)福音をうけいれたのです。こうして彼らは、すべての人に対して、希望と愛のうちにその再来を待ちつづけていたキリストに対する忠実さの模範となったのでした。

 一方、私たちは慶長17年、他川家康によって発布された禁教令に「日本は神国なり」と宣言されていたことを覚えておく必要がありま.しょう。当時の、そして今日のキリスト信者は、この宣言を人となった神のみことばの教えによって、よりよく解釈することができます。彼を通してすべてはつくられたのであり、彼は御父から生まれたまことの光として、みちみちた恵みと真理をもって、すべての人を照らすためにこの世においでになったお方なのです。

5. 私は先日の列福式に因み、この日本訪問を大きな期待をもって望みました。この国は明治天皇によって与えられた宗教の自由を、もう一世紀以上も享受しています。私は日本がキリスト教のメッセージに再度門戸をあけてから一世紀後に、ローマの司教としてここに来ました。私は巡礼者として長崎に来たのです。ここで、更にそれ以前二世紀にわたって、ひそかに殉教者の信仰を守りつづけた先祖をもつ100年前の信者たちは、福音の力に支えられてまことを守り通したのでした。神の恵みにより、当時のキリスト信者はロザリオの玄義を用いて福音の黙想を行なっており、また遠くにパパと呼ばれる人がいることを知っていました。きょうそのパパは長崎の信者の言い伝えに敬意を表し、その子孫たちに直接、イエズス・キリストの心において彼らを愛していると語りかけるためにやって来たのです。

 教会の最もすぐれたモデルである無原罪のマリアにささげられた浦上のカテドラルで、私は、お祝いのために美しく装った新しいエルザレム(黙21・2-4参照)のしるしとしてこの世の前に立つ、新しい日本の教会の姿を見つめました。それは40万の信者、その創立当初の世紀の信者数と大体同数の信者をもつ一つの教会です。そして私は大きな毒びをもって・キリストご自身がきょう「彼の驚くべき光の中に」(1ぺトロ2・9)招きいれてくださった新しい信者の皆さんを、カトリック教会の交わりにお迎えします。

 この過去と現在のつながりは、神の祝福、母なる聖マリアの助力、そして数知れない福音のあかし人たちの取り次ぎの実りです。それはよりかがやかしい未来の保証であり、その未来を、あさ、日の出とともに輝く光をおくり、雪の白さ、あるいは桜の花・蓮の花の薄紅色などで、この美しい国土を新しくし、生き生きとさせる太陽にもたとえることができましょう。日本の神道は神への道を意味します。私たちキリスト信者にとって道とは「神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神」であるキリストによって開かれた道のことです。
 このイエズス・キリストとそのお恵みを、長崎の輝かしい新福者殉教者において、私たちはこころをこめてほめたたえるのです。

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