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カトリック情報ハンドブック2009 巻頭特集

カトリック中央協議会では、毎年「カトリック情報ハンドブック」を発行しています。教会暦とその解説や教会、修道院をはじめカトリック関連約3500の施設の最新住所録などをまとめた内容になっています。 このページでは、「カトリック情報ハンドブック2009」に掲載された巻頭特集をご覧になれます。

現在、出版部では「カトリック教会情報ハンドブック2012」のご注文をお受けいたしております。


特集2 キリシタン史跡をめぐる―中部編
カトリック中央協議会出版部・編

 全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の第3回目。今回は「中部編」とし、愛知、岐阜両県内の史跡を紹介する。訪問先選出にあたっては、前回同様、教区から提出された教区内巡礼地一覧を基準としたが、地理的な条件等により一部割愛した。


愛知・岐阜の史跡(2)

一宮市・丹羽郡扶桑町・犬山市(7月17日)

八剣社
八剣社

八剣社碑1
八剣社碑1

八剣社碑2
八剣社碑2

八剣社碑3
八剣社碑3

一本松塚
一本松塚

一本松塚碑
一本松塚碑

常光寺
常光寺

常光寺地蔵
常光寺地蔵

なぐさめ塚
なぐさめ塚
 朝から晴天。湿度、気温ともに、どんどんと上昇していく。
  まずは、名古屋駅からJR東海道本線快速に乗車。わずか10分で尾張一宮駅に降り立つ。
  駅南寄りを東に向かって延びる城崎通を7、8分程度歩いていくと本町交差点に出るので左折、すぐ右手にNTTのビルが見えるが、その手前に建つのが八剣社である。ここに「開祖空圓上人」と彫られた小さな碑がある。社であるのに開祖空円というのは、明治新政府の神仏分離令によって寺だけが失われたからである。
  この碑には、奇妙なことばが2点刻されている。一つは向かって左面に縦に「センテンセ」(磨耗していてそのままではかなり読みにくい)、いま一つは台石背面左寄りに横書きで「クロタセウ」(こちらは割合と鮮明に判読できる)と、やや拙い文字で彫られている。後彫りなのだそうだ。
  伊藤秋男氏の「ポルトガル語を彫り込む或るキリシタン遺物について」(『全国無二キリシタン処刑反抗碑』所収)という論文によれば、これらはいずれもポルトガル語の音を写したものだそうで、「センテンセ」は「判決」、「クロタセウ」は「磔刑火焙り」を意味するのだそうだ。そこで伊藤氏はこのことばを、先に触れたパジェスの『日本切支丹宗門史』にみられる寛永8年における一宮での殉教に結びつけ「指導者層の殉教を悼むため、宗徒らが問題の碑文字を彫ったものと推定される」としている。
  わたし自身はポルトガル語を解するわけではないので、批判的検討をこの論に対して行うことはできないが、いま一つ曖昧さを感じてしまう。ポルトガル語の音の写しとしてこのことばを見ることのできる文献が一つも存在していないというのはやはり大きい。しかしそれよりも、何か、呪詛あるいは怨念といったことばと容易につながってしまうような文句を、来世のいのちを信じたキリシタンが彫ったとすることに、違和感を覚えてしかたがない。
  一宮のキリシタン史跡を紹介する幾つもの書籍が、この伊藤氏の説を無批判に、かつ確定された説であるかのように紹介していることが、わたしにはとても不思議だ。少なくとも推測・推定といったことばは添えるべきであろう。何よりも伊藤氏自身が、そのような断定的な表現をとってはいないのだから。
  八剣社自体は、小さな社ながら、近代的な街中にひっそりと存在する異空間といった趣があり味わい深い。
  城崎通に戻り、また東に歩くこと約20分、印田バス停のある交差点手前を左に折れ一本目の道を右折すると石材店がある。その右隣が一本松塚、寛永8年の火炙り刑が行われた地である。石の鳥居が目立つのですぐに分かる。尾張藩によるキリシタンの処刑において火炙り刑であったのは当地でのこの一度きりである。
  昭和44(1969)年に建てられている由緒碑によると、もともとここには殉教者の霊を慰めるために地蔵が建立されたのだそうだ。その地蔵は現在常光寺という寺に移されている。現在の当所には、由緒碑とともに「キリシタン殉教 水かけ地蔵」と彫られた楕円形の碑が建っていて、その横には水鉢と柄杓が用意されている。
  全国にはこのように、他宗教の人々が、痛ましく死んでいったキリシタンたちの霊を弔うために建てた碑や地蔵などが多々ある。それは、彼らの死に様が如何に残酷極まりないものであったかの証明に他ならないだろう。たとえ信じる宗教は異なっていても、一つの信仰に殉じたその壮絶な死は、人々の心を強く揺さぶったに違いない。
  城崎通に戻り、先ほど左折した場所の正面にあたる道を入る、つまり駅方面から言えば右折し、そのまま道なりにしばらく歩くと北園通という道にぶつかるのでこの通りを左折、左手に見えるのが常光寺、つまり一本松塚の地蔵が移設されている寺である。本堂はごく新しい近代的な建物だが、常住する僧はなく、無人の寺である。
  件の地蔵は、本堂左手の小さな堂に安置されている。舟の形の光背を持ち肉彫りされたいわゆる舟形地蔵で、右側には「爲二世安樂也」と彫られている。顔も衣も、長い年月多くの人が祈りとともに水をかけ撫でさすったゆえに磨耗し、鈍く光っている。そのかすかな輝きがとても美しい。
  北園通をそのまま東に歩いていく。高速道路が上を通る国道22号を横断し、コンビニエンスストアの前を通り2本目の小道を左折すると南部中学校にぶつかるので右折する。途中わずかな休憩を挟みつつここまで30分ほど。徒歩は決してお勧めしない。とくに夏ならば、よほど自信のあるかた以外は、ある程度の本数があるので、ぜひ路線バスに乗ってほしい。
  学校脇の細い道を歩いていると、突如中学生の一団が校門から走り出してきた。力強く角を曲がり、一気に駆けていく。最初は男子、続いて女子、おそらく一クラス分の生徒たちだろう。彼らが向かった先は学校のプールだった。入り口で靴と靴下を脱ぎ、走り込んでいく。
  このプールの正面に浅野公園という日本庭園風の落ち着いた公園がある。尾張浅野家発祥の地として史跡になっている。木陰に入ると実に涼しい。ベンチでしばし休み大いに慰められ鋭気を取り戻しつつ、プールとは反対側の正面入り口に向かう。この入り口に向き合う形で、マンションの前にあるのが、なぐさめ塚。十字が刻印された丸みを帯びた自然石の主碑と棒状の由緒碑が並んで建っている。
  由緒碑裏面に記された文章と、これら碑を囲む石柵に彫られた文言によれば、この碑は昭和42(1967)年に、森徳一郎氏および一宮史談会によって最初は一本松塚に建てられた。しかし翌年「区画整理後敷地狭隘のため」当地に移築されたのだそうだ。
  面白いのは由緒碑前面に彫られた文言で、「昇天 尾濃殉教三千聖人」「謹奉捧聖人號 後学 森徳一郎」とある。何と濃尾の殉教者が「聖人」にされているのだ。それも森氏によって。これについては森氏がその著書『尾濃切支丹なぐさめ塚』で、その顛末を紹介している。それによれば、最初森氏は「奉慰 尾濃三千聖人」と碑文に書いたのであるが、それをある人から、聖人ではないととがめられたのだそうだ。しかし思案の末、「それでも殉教には相違ないから、如何にも此まま眺めては居られません。いっそ宗規に関係なく、全然無知無学の私が、三千人のひとびとに聖人号を捧げ奉ったら如何でしょう」と提案すると、その人も「それは面白い、世間に例はないが、君個人で聖人号を捧げられたからとて、ローマ法王がわざわざ此所迄叱りにも来られぬでしょう」と答えてくれたのだという。
  もしかしたら反発を感じる人もいるかもしれないが、わたしはこのエピソードが好きだ。「此まま眺めては居られません」――顕彰とはそういうものだろう。森氏は濃尾地方のキリシタンに関する研究において先駆的な仕事を成した人であり、この記念碑建立にあたっては、当時の名古屋教区長松岡孫四郎司教から、その功績をたたえる感謝状が贈られている。
一宮教会
一宮教会
  さて、次の目的地は扶桑町である。それには浅野公園前のバス停から岩倉駅行きのバスで終点まで行けば、あとは名鉄犬山線で一本である。しかし、一宮教会に寄ろうと考えていたので、逆戻りになってしまうが、バスに乗り再び一宮駅に向かった。
  教会は駅前の道を北上、徒歩7、8分の便利な地に建っている。コンクリート造りの建物で、聖堂は2階にある。
  聖堂を訪問しようとして扉を開けると、たまたま神父が階段を降りてこられた。主任司祭の寺尾總一郎師である。
  後に触れるが、今回の取材後半、この寺尾師には大変お世話になった。まずはここで改めて感謝申し上げておきたい。
  突然の来訪にもかかわらず快く迎えてくださり、司祭居室で自家製の胡瓜の糠づけをふるまっていただき、話を聞いた。すると、今年(2008年)小教区で教会前に殉教者顕彰碑を建立し、11月30日に野村純一司教を招いてその除幕式を行うとのことだ。11月30日といえば、ペトロ岐部と187殉教者の列福式直後ということになる。小教区として、列福式の行われるこの年に、ぜひとも碑を建て、当地の殉教者を顕彰したいという思いがあったのだと、寺尾師はおっしゃられた。尾張、美濃地方の多数の殉教者は、今回の列福者の名簿には残念ながら含まれていないのである。
  その後場所を移し昼食をご馳走になりながら、わたしのこれからの予定などを話していたのだが、寺尾師から「明日、朝ある用事を済ませたら、車で一緒に回ってあげよう」というなんともありがたい申し出をいただいた。
  その厚意を受けさせていただくか、しばし迷った。この取材の目的や方法を考えれば、できるかぎり自分の足で歩き、その土地の雰囲気を掴みたい。その思いはあったのだが、結局甘えさせていただくことにした。最後に訪れる予定の御嵩町で、果たして目的地まで歩き切ることができるか、多少の不安もあった。だが、そう決めた一番の理由は、寺尾師が言ってくださった「ぼくにとっても巡礼になるから」とのことばだった。同じ気持ちでつながって他者と時間を共有する喜び、それを味わうことのできる嬉しさを素直に優先したい、そう思った。
  明日再び教会を訪れる約束を交わし、この日はこれで寺尾師と別れた。
  一宮駅前から岩倉駅行きバスに乗る。30分弱で岩倉駅に着き、名鉄犬山線に乗り込み5駅目、扶桑駅に着いた。ちょうど大相撲名古屋場所の最中だったので、駅前には境川部屋のカラフルな幟がはためいていた。
恵心庵
恵心庵
  駅前の道を線路に沿って左に進んでいくと線路を跨ぐ陸橋がある。この陸橋をくぐってほどなくの右側に恵心庵(えしんあん)がある。号が彫られた石柱が二本、門の代わりに建っていて、奥に堂がある。
  『扶桑町史』によれば、当地にキリスト教が伝えられたのは「寛永年間の初め」だそうで、扶桑町高木の小島家に伝わる『丹羽郡高木村御赦免被罷帰り候百姓』という文書によって、先に触れた一宮の殉教者の中の兵右衛門や道閑といった人が密かに高木村に布教していたことが判明している。種々の資料を総合してみると、一宮→高木村→犬山→可児郡塩村といったキリスト教伝播のルートが見えてくる。当然なのかもしれないが地理的条件も一致するので、今回この順序で史跡を巡ることになった。
  高木村の庄屋の覚書である『高木村吉利支丹被召捕候覚 丑之年より之帳』という文書から、大弾圧が始まった寛文元(1661)年から同5年までの間に、高木村では82名が検挙されたことが分かっている(『扶桑町史 上巻』による)。
  前述の森徳一郎氏が昭和7(1932)年にまとめた『丹羽郡扶桑村切支丹遺蹟調査報告書』の恵心庵の項には「此ノ地ハ宗徒斬込地トシテ名高ク今尚白骨ヲ出ス」とある(千田金作『尾張扶桑切支丹資料』による)。また『扶桑町史』によれば昭和25(1950)年の発掘調査では「堂の下から西北の畑にかけて、幅1m程の帯状の穴の地下の1から2mの深さから、多くの斬殺されたと思われる刀傷がある白骨が出た」のだそうだ。
  寛文年間に検挙されたキリシタンは、名古屋に送られ詮議を受け、転ばなかった者はその地で処刑されたはずであろうから、名古屋での処刑後に、この地に埋葬されたということになるのだろうか。それとも所成敗を受けるようなことが、扶桑でもあったのであろうか。そのあたりはよく分からない。
  堂の中をのぞくと、正面向かって右側にやや大きめの舟形地蔵があり、その後ろには、これは時代が下ってからの作であろうが、肉彫り部分に彩色が施された舟形地蔵が幾体も並んでいる。やや驚かされるような情景だった。



  駅に戻り再び名鉄犬山線に乗車し、2駅目の犬山口で下車、万願寺に向かう。
  犬山の五郎丸村では、寛文元年から同7年の7年間と数年後の延宝2(1674)年の計8年の間に124名の切支丹が検挙され100名が殉教している。当時の村の人口がわずか205名であり、検挙者の中心は働き盛りの青壮年者層であったのだから、村はまさに壊滅的な打撃を受けた(『犬山市史 通史編上』による)。
満願寺
満願寺

満願寺碑
満願寺碑

犬山城
犬山城
  改札を出ると南北に伸びる道があるので、この道を南下、10分ほど歩くと、平行して走る自動車道路(県道27号)と交わる万願寺交差点に出る。その少し手前左側に赤い鳥居が建っていて、小さな祠2基と、「諸神諸佛諸菩薩」と彫られた石碑がある。日付は正徳2(1712)年となっている。これが殉教者の供養塔なのだそうだ。
  交差点の名にもある「万願寺」という地名だが、『犬山市史』によれば、それは「満願寺」というキリシタン伝道所の名をとどめるものであるらしい。
  駅から来た道は通学路でもあり、細いので車の往来はほとんどなかったが、交差点まで出ると、こちらは犬山の中心部へと抜ける道なので、かなりの交通量だ。北上すれば犬山城に至る。予定にはなかったが、この日最後にこの城を訪ねることにした。さすがにここからの徒歩は厳しいので、1駅分電車に乗った。
  犬山駅から城までは徒歩20分、途中、みやげ物店などが軒を並べる本町通に「札の辻」の解説板が立っていた。札の辻とはその名のとおり、制札が立てられた辻のことである。つまりここは、当時は目抜き通りの要所であったわけだ。制札にはさまざまな種類のものがあるが、その中にはキリシタン禁制のそれもある。尾張藩で初めてキリシタン禁制の制札が立てられたのは寛永15(1638)年のことで、島原の乱が終息した年である。
  このあたりから前方の山を見上げると、すらりとして美しい国宝の天守閣が歩くに伴って見え隠れする。
  一日歩き回っていたので、さすがに天守前の石段を上るのはしんどかった。さらに天守内部で急な階段を上り、やっとのことで高欄の間に着き、回廊から四周を眺めた。眼下には尾張と美濃を区分する大河・木曽川が、水量も豊富に、夏の陽に川面をきらめかせ滔々と流れている。明日はこの川を越え、岐阜県を訪ねる。そう思い、遠くその方角に目を遣った。閉門までわずかの時間であったので早々に立ち去らねばならなかったのだが、火照った頬を撫でる風がなんとも心地よく、離れがたかった。
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