福音ルーテル教会、ユナン師、麹町教会で宗教改革記念講演

ルーテル世界連盟前議長で、ヨルダン・聖地福音ルーテル教会(The Evangelical Lutheran Church in Jordan and the Holy land)監督のムニブ・ユナン師(Bishop Dr […]

ルーテル世界連盟前議長で、ヨルダン・聖地福音ルーテル教会(The Evangelical Lutheran Church in Jordan and the Holy land)監督のムニブ・ユナン師(Bishop Dr. Munib A. Younan=写真㊧)が来日し、東京・麹町教会で7月24日、来日講演会を開きました。

主催は「ルーテル/ローマ・カトリック共同委員会」。会場には、カトリック、ルーテル両教会の関係者など、120人ほどが集まり、カトリックから、司教協議会会長の髙見三明大司教(長崎教区)、エキュメニズム部門担当の岡田武夫大司教(東京教区)らが出席しました。

ユナン師は、ルターによる宗教改革の500周年をことし記念するにあたり、前年となる昨年10月31日、スウェーデン・ルンドで教皇フランシスコとともに、ルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会との「共同声明」に署名し、発表しています(=写真㊨)。

講演でユナン師は、過去の50年のエキュメニズムの進展に注目、感謝し、この500周年を、改革者がもたらしたさまざまな成果に対する喜びと、分裂したまま祈り奉仕し続けてきたことへの悔い改めを記念するものになる、と呼び掛けました。引き続き、ともに、神の恵みによって解放されるしるしとなるよう訴えました。

(ユナン師の講演全文は以下の通り)


主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたとともにあるように

「ルーテルとカトリック:聖霊による新たな改革」

ムニブ・ユナン監督 神学博士

庭野平和賞の授賞式に出席するために来日の機会を得て、それにあわせてカトリック教会とルーテル教会の兄弟姉妹のみなさんにお話できますことを光栄に思います。二つの民族、三つの信仰の聖地、エルサレムから、そしてまた私の所属する教会ヨルダンとホーリーランド(聖地)福音ルーテル教会、そしてルーテル世界連盟からもあわせてご挨拶を申し上げます。

2017年は、ルター派のクリスチャンにとって特別な年です。宗教改革500年を記念して各教会ではそれに因んだ記念行事が行われています。今日、来場しておられるカトリックのみなさんは何のことだろうと思っているかもしれません。これはお祝いなのか、それとも記念なのかと。キリストにある兄弟姉妹のみなさん、教会が分裂したことを喜んだりはしないということを申し上げたいのです。二つの教会にとって、これは喜びと悔い改めのときです。喜ばしいこと、それは、組織神学の偉大な成果ともいえる信仰義認の教えを改革者たちがもたらしてくれたことです。聖書が自分たちの言葉で翻訳されるようになったことです。宗教改革の働きから誕生した音楽や芸術が与えられたことです。

しかしながら教会の分裂は喜ばしくはありません。私たち兄弟姉妹が離れ離れに祈り、仕え、500年間にわたり別々に信仰生活を送ってきたことをお祝いするようにと、主が私たちを呼び集めたわけではありません。

ルーテルもカトリックも和解を目指してキリストの呼びかけを聴いてきたのです。ですから、50年前ルーテル教会とカトリック教会は対話を始めました。信仰をともにして、理解のための旅路を始めたのです。旅路は長く、時に辛いことや、もどかしさを感じることもしばしばありました。50年待たされる。これは私たちパレスチナ人が身にしみて感じる長さですが、50年間、ルーテルとカトリック両教会は、「どうか目から鱗が落ちますように、どうか分裂が癒されますように」と祈ってきました。50年に及ぶ祈りと対話の結果、近年、私たちのエキュメニカルなつながりにおいてめざましい進展がありました。

1999年、カトリックとルーテルは『義認の教理に関する共同宣言』に署名しました。この声明文は、私たちが進めるエキュメニカル対話において画期的でした。違いを認めながらの合意形成という点で画期的でした。特に『義認の教理に関する共同宣言』は、義認をどう理解するかについて解説しています。ルーテル教会にとって信仰による義(信仰義認)は、マルティン・ルターが「これによって教会が立ちもするし倒れもする教理だ」と呼んだくらいに重要です。いずれの教会にとっても、この文書は恵みの言葉といえます。なぜならこれによって、過去数百年の歴史で繰り返されてきた、非難合戦が取り除かれたからです。

2010年、わたしがルーテル世界連盟(LWF)議長に選ばれてすぐのことでしたが、教皇ベネディクト16世を訪問する機会がありました(LWF事務局長ほか関係者も同行しました)。そのとき私と教皇は、エキュメニカル対話の問題をとりあげました。そして私が提案申し上げたのは、「2017年に私たちがいっしょに祈るというのはどうだろうか」ということでした。そのとき、ベネディクト教皇はこう言いました。「私も参加しましょう」。

その後、カトリックとルーテル代表者による国際的な委員会は、『争いから交わりへ』という文書を刊行しました。一致に関するルーテル=ローマ・カトリック委員会が2013年に出版しました。

『争いから交わりへ』は、両教会の関係を歴史的に問い直すという作業を共同で行ったものです。ここには、ルーテルとカトリック両方の声が聞こえます。両者が宗教改革関連事項を検証しながら、それぞれの神学が折り合うところを探りました。そのなかで、洗礼が「一致と共同のための基礎」であることを確認しました。私たちが分かち合える証しの基盤となるのは、洗礼なのです。政治においてそうですが、教会にもあてはまる私たち人間の傾向というのは、一致点より違いを強調してしまうというところです。誰が主の食卓を仕切っているのか、説教壇に立っているのは誰なのかといったことばかり気にしすぎるあまり、私たちが洗礼でひとつとなっているという根本を忘れてしまっているのではないかと思うのです。按手や聖体拝領、聖餐式の実践といった部分はないがしろにできませんが、洗礼は私たちを一致させてくれるのです。水とみことばによって、私たちは教会というキリストの体に接ぎ木されます。洗礼において私たちは共に世界に遣わされ、ディアコニアの働きをはじめ、ありとあらゆる宣教へと向かうのです。こうして洗礼の重要性を確認し合ったという点が、以後のエキュメニカル対話の基礎となっていきました。

『争いから交わりへ』は、その後のルーテルとカトリックの対話に大きく貢献しました。洗礼による一致を踏まえることで、私たちを分かつことが何かを考える前に、わたしたちをつなぐものは何かをまず見ていこうとなりました。まずはお互いをよく知ることをことで、自らのあり方を変えていくことにも前向きになります。隣人のための「かたちある一致」の実現にむけて、共に宣教することへと進みます。イエス・キリストの福音のパワーをもう一度見いだして、それを宣べ伝えることへと、現代の私たちを押し出してくれます。

『争いから交わりへ』は、また、闘いは16世紀で終わったとはっきり言っています。このことを覚えて、神さまを賛美いたします。こうしてそれぞれの信仰の境界線を行き来できることで、今や私たちは、神の名を使ってはびこるありとあらゆる暴力の根絶に向かうのです。イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、どの宗教にも過激派がいて、その指導者はそうした宗教的なアイデンティティを自己目的のために悪用しようとします。

『争いから交わりへ』が提唱しているもうひとつのことは、他宗教の見方です。LWFは1984年に、ルターのユダヤ人に対する攻撃を受け入れないことにしました。現代は、反ユダヤ主義への取り組みを続けつつ、さらには、世界各地で見受けられるイスラム教徒に対する不当な措置や、イスラム嫌いの感情にどのように対処するかといったことも重要です。

宗教改革運動の鍵となるモットー、それは「ecclesia semper reformanda est」、すなわち、「教会は絶えず改革し続ける」ということです。これは、謙遜の呼びかけです。宗教改革記念の今年は、私たちの信仰の基である、洗礼と聖餐のサクラメントを改めて見つめる年です。ルター派である私たちはキリストの弟子として、どのように宗教改革の精神を尊重しつつ、この記念の年をお祝いできるかを問いたいと思います。宗教改革を記念するとき、自分たちの存在や意義を強調するあまり、勝利至上主義になってはなりません。「ecclesia semper reformanda」絶えず改革し続ける教会、それが私たちルーテル教会なのだということ。この認識が、キリストに招かれた私たちの謙遜となります。文書『争いから交わりへ』のおかげで、世界のルーテルとカトリックは一緒に証しできるのだということが明らかになり、そのことを私も嬉しく思っているのですが、それはまさにこの点においてなのです。

50年の対話がもたらしたもうひとつのことは、昨年のスウェーデンでの共同の祈りの礼拝でした。これはフランシスコ教皇とLWF事務局長マーティン・ユンゲ、そして当時議長だった私が共同で主催しました。宗教改革記念日に行われ、これが皮切りとなって、宗教改革500年記念行事が始まりましたが、これは歴史的な和解の祈りでした。50年前には、だれも思い描けなかった瞬間でした。教皇と共同主催、共同司式させていただき、目に見える一致のしるしができたこと、そしてこれからも和解の努力を続けていくための共同宣言に署名できたことを、ほんとうに光栄なことと思っています。

このローマ・カトリック教会とルーテル教会の歴史的和解は、エキュメニズムにおいて世界レベルで大きな意味をもつことになりました。英国国教会の神学者アンドリュー・マクガワンは2010年に、今はエキュメニズムの冬の時代であり、一致にむけての働きは、まだ到達点は低いことを指摘しました。彼はまた次のようにも言っています。「エキュメニズムを最も力強く、そして大きな変化として体験できるのは、共に祈り、共に宣教するという体験である」。祈りと宣教を共にするということが、まさしくスウェーデンのルンドとマルメで経験したことでした。その他、数多くの運動とともに、ルーテルとカトリックの長年にわたる対話がもたらしたものが、今度は次なる突破を起こして、エキュメニズムの春が訪れるでしょう。

ルンドの共同の祈りには三つの大切な要素があります。第一に、これが感謝の礼拝だったという点です。カトリックとルーテル教会が、共にイエス・キリストの福音に真摯に取り組み、今、真新しい一致を得ることができたことを感謝したのです。第二に、これは悔い改めの礼拝でした。両方の教会が相手に対して犯した過去の過ちを悔い改めて、神さまの憐れみを求めたことです。そして第三に、固い約束を交わした礼拝だったという点です。『争いから交わりへ』の中に五つの責務がありますが、それによってルーテルとカトリックが一緒に行動していくという約束です。預言者的なディアコニア活動など、これからの包括的な宣教活動が、神さまから私たちに託されているのだと確信を得て、私たちは共同の祈りをささげ、神さまに感謝して、スウェーデンを後にしました。

歴史的和解といってよいほどに、この出来事は重要であり記憶にとどめるべきなのですが、それだけで終わってしまうわけにはいきません。マルメのイベントをルンドの礼拝と関連づけたのはそのためです。エキュメニカルな対話は学術的にも有用で、両者の一致と多様性を見極めて、共同の宣教への先導的な役割をしてくれますが、この対話は、困難を抱える世界に共に応えていこうというメッセージでもあります。マルメのアリーナで、私たちはシリア、インド、ブルンジ、南スーダン、コロンビアの人々が直面する課題を話しあいました。教会がこの世に向かっていくとき、エキュメニカルな取り組みがどれほど支えになるかを教えてくれました。カトリック教会のカリタス・インターナショナルとLWFのワールド・サービスの二団体が共同署名した合意書は、相互の交流と信頼のうえにエキュメニズムが成り立っていることを示しました。この合意書と共同作業によって、私たち双方がキリストの教えに従いつつ、社会のために共に働くことを示したのです。

ルンドでの礼拝のとき、フランシスコ教皇と私が共同署名した宣言文はこう述べています。「対話と証の分かち合いによって、私たちはもはやよそ者ではない。私たちを分かつことより、私たちを結ぶことのほうが大切であることを、むしろ教えられたのだ」。かつて分裂が「目に見える教会の一致を傷つけ」てしまったことを悲しみ、そして、過去も今も繰り返される憎しみと暴力、とりわけ宗教の名のもとに表れるそれらすべてを、宣言文は拒絶しました。教会論、職制、ユーカリスト(聖餐論)など、いまだに合意できない点がありますが、聖霊が私たちを導いてくださることを、私はこれからも求めます。不一致な部分に真摯に向き合うことが対話の基盤です。必ずや、これらについても多くの点で私たちは合流していけると思っています。

どれほど困難でも、どれほど遠い道のりであろうとも、ルーテル教会がこのプロセスをこれからも歩み続けていってほしいと願っています。なぜなら、ひとつの洗礼、パンとぶどう酒のひとつの聖卓、キリストはここに私たちを招いてくださっているからです。ユーカリスト、すなわち聖餐の食卓はキリストの食卓です。ルーテルでもカトリックでも、改革派でも英国教会でも東方教会の食卓でもありません。心広きキリストの食卓です。それを聖とするのは、神の言葉と約束であって、人間の努力やレッテルではありません。ですから、ルンドの出来事はまだ終わっていません。その前向きなエネルギーはさらに広がり、他宗教間とのつながりへとも伸びていくことでしょう。

ルンドであったある出来事をお話したいと思います。それは、私がまだフランシスコ教皇とお会いする前のことでした。ルンドのルーテル教会のカテドラルでは、前日に、毎年恒例の宗教改革記念礼拝がありました。その礼拝の最中、ちょうど聖餐式が終わった直後でした。ただならぬことが起こったのです。終わりの讃美歌を歌い始めようと思ったちょうどそのとき、ルンドにあるカトリック教会、聖トマス・アクィナス教区の司教らしき人が突然現れたのです。聖母マリアのイコンが描かれたヴァチカンの旗を掲げて、さらにカトリックの教会人たちがその後に続いて、ルーテル教会のカテドラルに入場してきたのです。彼らはルーテルのカテドラルの前まで進み出て、ルーテルの会衆たちといっしょに賛美し、祈りを捧げたのです。

ともに聖壇を囲んだときの私たちの顔があれほどに喜びにあふれたのを、私は見たことがありませんでした。まるで夢をみているかのようでした。会堂のなかの多くの人たちがびっくりしていました。私はペンテコステの日の出来事を思い出しました。自分たちの目の前で今起きていることに、弟子たちが非常に驚いたという出来事です。涙を流している人も大勢いました。後になってこう語った人がいました。「もしも地元の人たちのこの喜びがなかったら、翌日の500年記念エキュメニカル礼拝は 意義を見出しにくかったかもしれません。」

みなさん、これがルンドからあふれ出たポジティブなエネルギーです。聖霊の働きと同様に、このエネルギーは一箇所にとどまることはありません。このエネルギーが私たちの教会全体に行き渡るに違いないと私は思っています。このエキュメニカルな力によって、それぞれの教区や各個教会においても、カトリックの隣り人、ルーテルの隣り人、さらにその他教派のクリスチャンたちと出会い、つながるきっかけが起こります。

数か月前のことです。わたしはイタリアのフィレンツェに招かれました。三日間に及ぶ宗教改革のシンポジウムでした。23のカトリック教会の大学や施設の方々といっしょに、イタリアにあるルーテル教会のメンバーの一人として参加することができました。このように、まことにカトリック的な雰囲気に包まれたルーテル教会の集まりで、音楽について、結婚についてお話しました。また教会が絶えず改革すべきことをお話しました。フランス、チリ、ヨルダン、ベツレヘムでも、同じような気持ちにさせられました。それぞれの地域の人々が、ルンドの歴史的出来事を喜びたたえよういう思いから、そうなったのだと思います。

ルンドのエネルギーは、キリスト教のエキュメニカル運動にとどまりません。レバノンのテレビ局アル・マヤディーンから、この歴史的和解についてインタビューを受けたことがあります。そのインタビューを見た人が、アラブ諸国とイスラム圏あわせて3000万人いたと聞きました。レバノンのキリスト教イスラム対話委員会の事務局長と平和宗教者会議議長を兼務するムハマド・アル・サマク博士が、カトリックとルーテルの和解についてコメントを寄せていました。サマク博士は、「今日のイスラム教徒の課題は、ジハーディスト(聖戦戦士)の犯罪活動から信仰を守り、元に戻すこと」なのだと言って、付け加えてこう言いました。「スンニー派とシーア派は、ルンドのエネルギーから学ばねばならない。ふたつの信仰社会間でも、そこから和解を模索していくべきである。」ルンドのエネルギーは、ルーテルとカトリックの間だけではなく、さらに大きなエネルギーと信頼を産み出していくようです。確かに聖霊が絶え間なく働いているのです。

もしルンドの出来事がそこだけでとどまり、カトリックとルーテルそれぞれの教会に浸透していかなければ、その意義も日に日に薄れてしまいます。私たちがきょうここ東京で経験したように、教会で生かせば生かすほど、その力はあふれていきます。エネルギーが続く限り、私たちもそれを用いてカトリック、東方教会、福音派教会、聖公会、改革派といった教会とのつながりを深めていく必要があります。このエネルギーをもっと高めていくことで、世界でひとつの宣教の実現へと思いを向けることができます。このイベントは終わっていません。教会の改革が続くように、これからも続きます。ルンドの祝福のエネルギーは、聖霊が世界に働いていることのしるしです。関係がとぎれた現代にあって、聖霊は信頼と和解を築いて私たちに自由をもたらしてくれます。エキュメニズムの冬が終わり、やがて春になることを願ってやみません。

ルンドの祈りによって、ルーテルがカトリックとひとつになりつつあるということではもちろんありません。けれどもこれは、世界に向けての力強いメッセージになりました。LWFが掲げているテーマ「神の恵みによる自由」(Liberated by God’s Grace)の意味を証しました。私が望むのは、共同の祈りを通じて、神の恵みが自由をもたらし、もはや過去に縛られてはいないのだと、世界が知ることです。過去も未来ももはや怖くはありません。「われここに立つ」とマルティン・ルターにあわせて唱えるだけでなく、きょう、「ここから教会は旅立つ」と唱えて、ヨハネ17章21節にある「すべての人を一つにしてください」というキリストの祈りが実現することを祈ります。

真に自由にされると、人は必ず感謝と謙遜の心で応答するようになります。そのような自由を自分だけのものにとっておくことはできません。だからこそ、この神による自由を、人間の解放と創造世界の解放、そして宗教の解放と関連付けて私は語りたいのです。宗教が問題を起こすのではありません。恵みによって自由とされた私たちが教会の原動力となり、愛をもって人々に仕えていく限り、宗教はむしろ解決を与えるのです。

ですから2017年は、私たちの自由を記念する年といえます。神の恵みによって、罪も、抑圧も、分裂も不平等も、もはや力を持ち得ません。神の恵みによって、鎖につながれた民を解放できる自由を得たのです。神の恵みによって、今や私たちは愛の使徒であり、人権の守り人であり、平和の道具であり、正義を届ける仲介者なのです。

みなさん、宗教改革者たちが世を去ったあとでも宗教改革は終わらなかったのです。聖霊による改革が、日本を含めて世界中で続きます。聖霊に私たちをかたどっていただき、造り変えていただき、導いていただきましょう。

宗教改革の次の500年は、わたしたちにかかっています。覚悟はできているでしょうか。キリストにある一致コミュニオンの精神で、愛と恵みを世界に告げる宣教者になる準備はいいですか。創造主なる神さまから与えられた人間の尊厳の基板の上に固く立って、預言者の声となる覚悟はありますか。見知らぬ人々を温かく迎えられますか。貧しい人に食事をあげられますか。あなたの敵のために祈れますか。これらすべてにおいて、あなたがたを罪と死から解放してくださった神の栄光を、褒め讃えられますか。

宗教改革をこれからも続けるという呼びかけに応えるのはやさしくないです。けれども、神の恵みによって解放され聖霊によって満たされているのですから、わたしたちはみな、教会の、そして世界の新しい改革者です。これがわたしたちに向けて宗教改革が呼びかけていることです。

人知では計り知ることのできない神の平安が、イエス・キリストとともにあなたがたにあるように。アーメン

2017年7月24日
ルーテル/ローマ・カトリック共同委員会主催 ムニブ・ユナン師来日記念講演会
カトリック麹町聖イグナチオ教会聖マリア聖堂にて
翻訳:浅野直樹(日本福音ルーテル教会世界宣教主事)

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