
2026年1月9日(金)、祝福の間で行った在バチカン外交使節団への新年のあいさつ(原文イタリア語)。あいさつは在バチカン外交使節団代表のゲオルゲス・プーリデス・キプロス共和国大使のあいさつの後に行われた。 同日教皇庁が発 […]
同日教皇庁が発表した聖座の外交関係に関する資料によれば、「現在、聖座と外交関係を有する国は184か国である。これには欧州連合(EU)とマルタ騎士団が含まれる。在バチカン(ローマ)外交使節数は、欧州連合とマルタ騎士団を含め93である。アラブ首長国連邦、国際移住機関(IOM)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)も聖座に事務所を置いている」。
外交使節団の皆様。
まず初めに、皆様を代表してわたしに丁寧で敬意をこめたあいさつを述べてくださった外交使節団代表のゲオルゲス・プーリデス大使に感謝申し上げます。そして、新年の初めにあいさつを交わすためにこの場においでくださった皆様すべてを歓迎申し上げます。
これは聖座に駐在する外交使節団の皆様にとっては恒例の行事ですが、キリストの群れを牧するように招かれてまだ数か月のわたしにとっては新しい経験です。それゆえ、今朝皆様をお迎えできてうれしく思います。多くのかたがたがご参加くださったことを感謝申し上げます。今年の参加者は、カザフスタン、ブルンジ、ベラルーシから新しい大使が出席してくださったことにより、豊かになりました。ローマの聖座と外交関係を開く決定をしてくださったことに対して各国政府に感謝申し上げます。それは良好で実り豊かな二国間関係の手で触れることのできるしるしです。親愛なる大使の皆様。皆様を通してわたしの祝福が皆様の国に届くことを願うとともに、増加する緊張と紛争に悩まされている現代に関する考察をお分かちしたいと思います。
終わったばかりの昨年は、意義深い聖年を体験し、わたしの敬愛する前任者教皇フランシスコが父の家に戻られたという、教会生活に直接関係する出来事をはじめとした、さまざまな出来事がありました。教皇フランシスコの葬儀の日(2025年4月26日)には、その棺を囲んで全世界が集まり、深い牧者としての愛をもって神の民を導いた教皇の逝去を悼みました。
数日前(2026年1月6日)、わたしたちは最後の聖なる扉であるサンピエトロ大聖堂の聖なる扉を閉じました。それは2024年の降誕祭の夜、教皇フランシスコが開いたものでした。聖年の間、何百万もの巡礼者が聖年の巡礼を行うためにローマを訪れました。巡礼者たちはそれぞれ、自分の体験と問いと喜び、また苦しみと傷を背負いながら、わたしたちの天の医師であるキリストの象徴である聖なる扉を通りました。キリストは肉のうちに来られ、わたしたちの人間性をご自分のものとすることによって、わたしたちを神のいのちにあずからせてくださいました。数日前に祝った降誕の神秘のうちにわたしたちが観想するとおりです。聖年の出来事を通して、多くの人が主イエスとの関係を深め、再発見し、人生の試練に立ち向かうための慰めを見いだし、希望を新たにしたと信じます。
この場で、大きな忍耐ともてなしの心をもって、世界中からローマに来た多くの巡礼者と観光客を迎えてくださったローマの人々に特別に感謝申し上げたいと思います。ローマが多くの訪問者を受け入れ、聖年と教皇フランシスコの死後の行事が平静と安全のうちに行われるために熱心と正確さをもって努力されたローマ市ならびに警察の皆様にも特別に感謝申し上げます。
聖座とイタリアは、地理的な近さだけでなく、何よりも、教会をこのすばらしい半島と国民に結びつける、信仰と文化の長い歴史を共有しています。昨年(2025年11月3日)発効した軍隊への霊的支援に関する協定(2018年2月13日)の改正によって確認されたすばらしい二国間関係もそのしるしです。この改正は、イタリア国内および多くの国外派遣地において軍務に就く人々への霊的同伴をますます効果的なものとすることができます。サンタ・マリア・ディ・ガレリアの農業用発電所に関する協定の調印(2025年7月31日)も同じです。これは再生可能な資源によるバチカン市国への電気供給を可能にすることによって、被造物のための共通の取り組みを確認します。さらに、わたしの教皇職就任の初めに政府高官の皆様が訪問くださったこと(5月18日)、クイリナーレ宮殿で(セルジョ・マッタレッラ)イタリア共和国大統領からすばらしい歓迎を受けたこと(10月14日)にも感謝します。大統領に心からの感謝のあいさつを申し上げたいと思います。
昨年は、教皇フランシスコに対してなされた招待を受け入れて、トルコとレバノンを訪問することができました。歓迎してくださった両国の当局者に感謝申し上げます。トルコのイズニクでは、コンスタンチノープル総主教や他のキリスト教派の代表者とともに、最初の公会議であるニケア公会議1700周年を記念することができました。これはすべてのキリスト者の完全な目に見える一致に向けた歩みへの決意を新たにする重要な機会となりました。レバノンでは、困難にもかかわらず信仰と熱意に満ちた人々と出会うとともに、より公正で結束力のある社会を築き、レバノンを世界で唯一の「レバノン杉の国」とする、文化と宗教のきずなを強めたいと望む若者たちの希望を感じ取りました。
親愛なる大使の皆様。
410年のローマ略奪の悲劇から霊感を受けた聖アウグスティヌスは、その神学的・哲学的・文学的著作の中でもっとも力強い著作である『神の国』(De Civitate Dei)を著しました。教皇ベネディクト十六世が述べたとおり、これは「西洋政治思想とキリスト教歴史神学の発展にとって重大かつ決定的な著作」(1)です。この著作は当時広まっていた「物語」――現代の用語でいうなら――をヒントにしています。「生き残った多くの異教徒だけでなく、多くのキリスト教徒もいいました。『ローマは陥落した。キリスト教徒と使徒の神はローマの町を守ることができなかった。異教の神がいた頃、ローマは『世界の首都』(caput mundi)であり、偉大な首都だった。そして、だれもそれが敵の手に落ちるなどと考えることはできなかった。今、キリスト教徒の神とともに、この偉大な町は安全でなくなった』」(2)。
当然のことながら、現代とこれらの出来事の間には大きな隔たりがあります。それは時間的な隔たりだけでなく、文化的感覚の違いと思考法の発展にもよるものです。にもかかわらず、わたしたちの文化的感覚がこの著作から活力をくみとってきたことを見過ごすことはできません。それは、あらゆる古典と同じように、現代人に語りかけます。
アウグスティヌスは二つの国というモデルによってこれらの出来事と歴史的現実を解釈します。一つは神の国です。それは永遠で、神の無条件の愛(amor Dei)によって特徴づけられます。この神の愛と、隣人、とくに貧しい人々への愛が一つに結びつけられます。もう一つは地上の国です。それは人間が死に至るまでそこで生きる、仮の住まいです。現代において、この地上の国は、家庭から国家と国際機関に至るまでの、すべての社会的・政治的制度を含みます。アウグスティヌスにとって、地上の国はローマ帝国によって体現されるものでした。地上の国は、利己主義的な自己愛(amor sui)、すなわち、人を破滅へと導く世俗的な権力と栄光への渇望を中心としています。しかし、これは来世と現世、教会と国家を対立させる歴史解釈でもなければ、市民社会における宗教の役割に関する弁証法でもありません。
アウグスティヌスの観点では、二つの国は世の終わりまで共存し、ともに外的次元と内的次元の両方をもっています。なぜなら、両者は、歴史の中で築き上げられる外的な態度のみによって量られるのではなく、人生と歴史の出来事に対するすべての人の内的な態度によっても量られるからです。こうした観点において、わたしたちの一人ひとりが主人公であり、それゆえ歴史に責任を負います。とくにアウグスティヌスは、キリスト者が、天の国、すなわち真の故郷へと向けた心と思いによって地上の国に住むように神から招かれていることを明らかにします。にもかかわらず、キリスト者は、地上の国に住んでいるので、政治的世界と無関係ではなく、聖書から霊感を受けたキリスト教的倫理を市民政治に適用しようと努めます。
『神の国』は政治的プログラムを提示するものではありませんが、諸民族の間のより公正で平和的な共生の追求といった、社会的・政治的生活の根本問題に関する貴重な考察を示します。アウグスティヌスは、歴史の誤った叙述、過度なナショナリズム、政治家の理想の歪曲がもたらす、政治生活にとっての深刻な危険にも警告します。
わたしたちが現代生きている状況は5世紀の状況とは異なりますが、何らかの類似は現代的な意味を今なおもっています。わたしたちは当時と同じように大規模な移民の時代を生きています。わたしたちは当時と同じように地政学的な均衡と文化的パラダイムの大規模な再編成の時代を生きています。教皇フランシスコの有名なことばを用いるなら、わたしたちは当時と同じように、変化の時代ではなく時代の変化の中を生きているのです(3)。
現代において、国際的レベルで、多国間主義(マルチラテラリズム)の脆弱性がとくに懸念されています。対話を推進し、すべての人の合意を追求する外交は、単独国ないし同盟国グループによる力による外交に取って代わられつつあります。戦争が流行となり、戦争への熱意が広まっています。第二次世界大戦後に確立した、武力を用いて他国の境界を侵すことを国家に禁じた原則は破られています。平和は、「人々の間により完全な正義をもたらす、神の望まれた秩序を打ち立てることによって」(4)、たまもの、またそれ自体として望ましい善として追求されるのではなく、自らの支配を確証するための条件としての武力を通じて追求されています。これは、あらゆる国家の平和的な共存の基盤である法の支配を深刻なしかたで危険にさらします。
さらに、聖アウグスティヌスが指摘するとおり、「平和をもつことを欲しない者は一人もいない〔……〕。勝利を得ることを願って戦争を欲する者でも、戦争によって光栄ある平和に至ることを望む。けだし勝利とは反抗する者たちの征服以外の何であるのか。そしてこの事実が実現するとき、平和があるであろう。〔……〕自分たちが今あずかっている平和を乱すことを欲する者ですら、平和を憎むのではなく、平和が彼らの意向にかなうように変えられることを望むのである。そこで彼らは平和をもつことを欲しないのではなくて、よりよい平和をもつことを欲している」(5)。
まさにこのような態度が人類を第二次世界大戦の悲劇へと導きました。そして、やがてその灰の中から、最近80周年を祝ったばかりの国際連合が生まれたのです。国際連合は、将来の地球規模の破局を防ぎ、平和を守り、基本的人権を擁護し、持続可能な発展を推進するための多国間協力の中心として、51か国の決意によって設立されました。
わたしはとくに国際人道法の重要性を強調したいと思います。国際人道法の尊重は、状況や軍事的・戦略的利害に左右されてはなりません。人道法は、戦時下に最小限の人間性を保障するだけではなく、諸国家が取り組んできた決意です。人道法は、復興計画も含めた戦争の壊滅的な影響を軽減するために、つねに交戦国の野心より優先されなければなりません。病院、エネルギー・インフラ、住居、日々の生活にとって不可欠な場所の破壊は、国際人道法の重大な侵害であることを無視してはなりません。聖座は、軍事作戦におけるいかなる形の民間人の関与をも断固としてあらためて非難するとともに、国際社会が、人間の尊厳の不可侵性と生命の神聖性の原則を守ることがいかなる国家利益よりもつねに重要であることを思い起こすことを願います。
こうした観点から、国際連合は、紛争を調停し、発展を推進し、各国が人権と基本的自由を保護するよう支援してきました。地政学的緊張、不平等、気候危機といった複雑な課題に直面する世界の中で、国際連合は、対話と人道支援を推進し、より公正な未来の構築に寄与するために、根本的な役割を果たさなければなりません。それゆえ、国際連合が戦後の状況ではなく現代世界の状況を反映するだけでなく、イデオロギーではなく諸民族の家族の一致をめざす政策をより的をしぼった形で効果的に推進するために、努力が必要です。
それゆえ、多国間主義の目的は、古代ローマの〈フォールム〉(forum)や中世の広場をモデルとした、人々が出会い、語り合うための場所を提供することです。しかし、対話するためには、ことばとことばが表す概念についての合意が必要です。ことばの意味を再発見することは、おそらく現代の第一の課題の一つです。ことばが現実とのつながりを失い、現実自体が不確かとなり、最終的に伝達不可能になるとき、聖アウグスティヌスが述べた、互いの言語を知らないままに一緒にいなければならない二人の人のようになります。聖アウグスティヌスはいいます。「二人の人間である彼らよりも、ものいわぬ動物のほうがたとい種類は違っていても、いっそう容易に仲間となるであろう。ひとえに言語の相違のゆえに、思うところを相互に伝え合うことができない場合には、人間の本性の類似は彼らを仲間とするのに何の役にも立たず、そこで人は他人とともにいるよりも、自分の犬とともにいることを好むほどである」(6)。
現代においてことばの意味はますます流動的になり、ことばが表す概念はますますあいまいになっています。言語はもはや認識と出会いのための人間本性の特別な手段ではなくなり、意味のあいまいさの屈折の中で、ますます敵を欺き、打ちのめし、傷つけるための武器となっています。わたしたちは、ことばがある現実を明確に表現できることを必要としています。こうして初めて誤解なしに真の対話を再開することができるからです。このことが、家庭や広場、政治、メディアや〈ソーシャルメディア〉、国際関係と多国間主義の文脈で実現しなければなりません。それは、多国間主義が、紛争を予防するために必要な出会いと仲裁の役割を果たす力を取り戻し、だれもことばや肉体や武力の力の論理によって他者に虐待を加えようとする誘惑に駆られないようにするためです。
さらに次のことも指摘しなければなりません。ことばの弱体化という逆説は、表現の自由の名の下にしばしば主張されるということです。しかし、よく考えてみると、真実はその反対です。言論と表現の自由は、言語の確実性によって、すなわち、あらゆる用語が真理に根ざしていることによって保証されます。しかし、残念なことに、とくに西欧において、真の表現の自由のための場はますます狭まり、その一方で新たなオーウェル流の言語が発展するのをわたしたちは目にしています。こうした言語は、いっそう包括的であることを試みながら、自らを導くイデオロギーに従わない人々を排除するに至ります。
残念ながら、そこから、良心の自由をはじめとした人格に関する基本的権利を損なう、他の帰結がもたらされます。こうした文脈において、良心的拒否は、人格的な領域に深く根ざした道徳的・倫理的・宗教的原則に反する法的・職業的義務を個人が拒むことを可能にします。すなわち、非暴力の名の下に兵役を拒否することや、医師や医療従事者による堕胎や安楽死のような措置を拒絶することです。良心的拒否は、反抗ではなく、自己への忠実の行為です。歴史の現時点において、良心の自由は、民主主義と人権に基づいているといわれる国家からもますます疑問視されるようになっています。しかし、良心の自由は集団的利益と個人の尊厳の間のバランスを確立します。それは、真に自由な社会は、権威主義的傾向を防ぎ、社会組織を豊かにする倫理的対話を推進することを通じて、画一性を強制せず、むしろ良心の多様性を守ることを強調するからです。
同様に、人格のもっとも基本的な現実を表現するための人間の第一の権利である、信教の自由も――教皇ベネディクト十六世が述べたとおり――、抑圧される危険にさらされています(7)。最新のデータは、信教の自由の侵害が増加しており、世界の人口の64%がこの権利の深刻な侵害を受けていることを示しています。
キリスト教徒に対して信教と礼拝の自由の完全な尊重を求める聖座は、同じことをすべての他の宗教共同体のためにも要求します。1965年12月8日に閉会した第二バチカン公会議の成果の一つである『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』(Nostra aetate)公布60周年にあたって、わたしは、残念ながら憎しみと死の種を蒔き続けているあらゆる形の反ユダヤ主義を断固として拒絶すること、また、ユダヤ教徒とキリスト教徒の対話をはぐくみ、聖書に基づく共通の起源を深めることの重要性をあらためて表明することができました(2025年10月28日)。
同じ記念の機会に、わたしは他宗教の代表者との出会いによって、この数十年の間に行われた諸宗教対話の歩みにあらためて感謝することができました。なぜなら、あらゆる真実な宗教的探求のうちには「すべての被造物を包む唯一の神の神秘の映し」(8)があるからです。その意味で、わたしは各国に対して、それぞれの国民に信教と礼拝の完全な自由を保障することを求めます。
しかし、キリスト教徒への迫害が現代もっとも広く見られる人権の危機であり続けていることを見過ごすことはできません。それは世界全体で3億8千万人以上の信者に影響を及ぼし、彼らはその信仰のゆえに極度の差別と暴力と抑圧を受けているからです。この現象は世界のキリスト教徒の約7分の1にかかわり、2025年に、それは継続中の紛争、権威主義的な体制、宗教的過激派のために悪化しました。これらすべてのデータは、残念ながら、信教の自由が、多くの状況において、基本的人権というよりむしろ「特権」あるいは容認されるものとみなされていることを示しています。
ここでわたしは、バングラデシュ、サヘル地域、ナイジェリアにおける宗教的理由によるものも含む暴力による多くの犠牲者、また、ダマスカスのマール・エリアス教会で起きた深刻なテロ攻撃の犠牲者にとくに思いを致したいと思います。モザンビークのカーボデルガード州におけるジハード主義者の暴力の犠牲者も忘れることはできません。
しかし、ヨーロッパやアメリカのようなキリスト教徒が大多数を示す国々においても、キリスト教徒に対する微妙な形での宗教的差別が広まっていることも見過ごすことはできません。そこでは、時として政治的・イデオロギー的な理由により、福音の真理を告知する可能性が制限されていることが認められます。とくにもっとも弱い人、胎児、難民と移住者の権利を擁護し、家庭を守る際にそのことがいえます。
聖座は、国際関係と国際活動において、つねにすべての人格の不可侵の尊厳を擁護する立場をとっています。それゆえ、たとえば、すべての移住者は人格であり、このような人格として、いかなる状況においても尊重すべき不可侵の権利を有していることを見過ごすことはできません。さらに、アフリカやアジアのさまざまな地域に見られるとおり、すべての移住者は自らの選択によって移動しているのではなく、むしろ多くの移住者は暴力と迫害と紛争によって、また気候変動の影響のために避難することを強いられています。国際移住機関(IOM)設立75周年を祝う今年、わたしは、各国が犯罪や人身売買を取り締まることが移住者と難民の尊厳を侵害する口実にならないようにという聖座の望みをあらためて表明します。
同じことが受刑者についてもいえます。受刑者がその犯した犯罪だけを基準として扱われてはなりません。わたしはこの機会に、聖年の間に恩赦を与えてほしいというわたしの敬愛する前任者の呼びかけに積極的にこたえてくださった各国政府に深く感謝を表したいと思います。そして、聖年の精神が司法の運営構造に永続的な形で刺激を与え、刑罰が犯した犯罪と釣り合いのとれたものとなり、受刑者にその尊厳ある待遇が保障され、とくにゆるしと更生の希望をすべて無にする措置である死刑の廃止に向けた努力がなされることへの望みを表明します(9)。また、多くの国で今も政治的理由によって多くの受刑者が苦しんでいることも忘れてはなりません。
さらに、キリスト教的観点から、人間は神の像と似姿として造られたものです。神は「人間を『愛によって』いのちに召されると同時に、人が『愛のために』生きるようお定めになったのです」(10)。この召命は家庭において特別かつ独自のしかたで示されます。人は家庭という環境において、愛することを学び、いのちに奉仕する能力を伸ばし、そこから社会の発展と教会の使命に役立つ者となります。
家庭という制度は、その中心的な重要性にもかかわらず、今日、二つの重大な課題に直面しています。第一に、その根本的な社会的役割を無視し、過小評価しようとする、国際的制度における憂慮すべき傾向が存在します。これは家庭の制度的な周縁化を進行させています。他方で、家庭内暴力を含む家庭内の困難や不安定な現象によって、脆弱さと崩壊と苦悩のうちにある家庭が増大する痛ましい現実も無視することはできません。
男と女の排他的で切り離しえない結びつきのうちに優れた意味で示される、愛といのちへの召命は、根本的な倫理的命令を課します。これから生まれるいのちを受け入れ、十分にケアする条件を家庭に与えるということです。これはとくに出生率が劇的に低下している国においてこれまでにまして優先課題となります。実際、いのちは、互いに与え合い、奉仕することに基づく関係性の中ではぐくまれる、かけがえのないたまものです。
いのちはケアすべきたまものであり、家庭はその責任ある保護者であるというこのような深いビジョンに照らして、いのちの起源とその発達を否定し、道具化する実践を無条件に拒絶しなければなりません。このような実践の中に、初期生命を中絶し、いのちのたまものを受け入れることを否定する、堕胎があります。その意味で、聖座は、いわゆる「安全な中絶の権利」へのアクセスを目的とした国境を超えた移動への資金援助のための計画に深刻な懸念を表明します。また、公的資源が、母親と家族を支援するために投資されるのではなく、いのちを抹殺するために用いられることを遺憾に思います。すべての胎児を保護し、すべての女性がいのちを受け入れることを可能にするための効果的で具体的な支援を行うことこそが、第一の目的であり続けなければなりません。
代理懐胎も同様です。それは妊娠を交渉可能なサービスに変容させながら、「生産物」へとおとしめられる子どもと母親の尊厳を侵害します。身体と出産過程を道具化し、家庭の本来の関係性を変質させるからです。
同様の考察を、時として生き続ける理由を見いだすことに困難を覚える病者、高齢者、孤独な人々についても行うことができます。市民社会と国家の責務は、脆弱な状況に具体的なしかたで対応することです。そのために、苦しむ人に緩和ケアのような解決策を示すとともに、安楽死のようないつわりの慈悲の形を奨励するのではなく、真の連帯に基づく政策を推進しなければなりません。
薬物依存症をはじめとする多くの困難に直面せざるをえない多くの若者についても同様の考察を行うことができます。全世界の何百万もの若者が薬物使用の犠牲となるのを防ぐために、この人類の災厄とそれを助長する薬物売買を根絶するための一致した努力が必要です。このような努力とともに、依存症からの回復のための適切な政策、人間開発、教育、雇用機会の創出のためのさらなる投資を欠いてはなりません。
こうした課題に照らして、生存権を守ることが他のすべての人権の不可欠な土台であることをあらためて強調しなければなりません。社会は、神聖な人命を守り、その推進のために積極的に努めることによって、初めて健全で進歩的なものとなるのです。
わたしがお示しした考察は、現在の状況において、人権の真に固有の意味での「ショートカット」が存在することをわたしたちに考えさせます。表現の自由、良心の自由、信教の自由の権利、そして生存権は、他のいわゆる新しい権利の名の下に制限され、その結果、人権という枠組み自体が力を失い、権力と抑圧に場を譲っています。このことは、それぞれの権利が自己言及的なものとなり、とくに事物の現実と本性と真理とのつながりを失ったときに起こります。
大使の皆様。
聖アウグスティヌスは天上の国と地上の国が世の終わりまで共存すると強調しました。他方で現代は、むしろ神の国の「市民権」を否定する傾向にあるように思われます。地上の国だけがその国境の中に排他的なしかたで閉じこもっているかのように思われます。内在的な善だけを追求することは、「秩序ある静けさ」(11)を脅かします。この「秩序ある静けさ」は、アウグスティヌスにとって平和の本質そのものです。それは社会と国家だけでなく人間の魂そのものにかかわります。そしてそれは、あらゆる市民的共存にとって本質的です。超越的かつ客観的な基盤を欠くならば、地上の国を治める神に対する無関心にまで至る、自己愛だけが支配するようになります(12)。しかし、アウグスティヌスが指摘するとおり、「この世で究極の善を所有し、自分自身の力で幸福になれると考える彼らには非常に高慢な愚かさがあ」(13)ります。
高慢は、現実そのものと隣人への共感を曇らせます。あらゆる紛争の起源につねに根源的な高慢が存在するのは偶然ではありません。「『世界平和の日』メッセージ」の中で述べたとおり、「そのとき人は、現実感覚を失い、暗闇と恐怖によって特徴づけられる、分断され引き裂かれたものとして世界の姿を描き出すことに屈します」(14)。こうして、あらゆる戦争の兆候である、対立の論理へと道が開かれるのです。
わたしたちはこのことを、ウクライナにおける戦争の長期化をはじめとした、民間人にも苦しみを課す多くの状況のうちに見いだします。このような悲惨な状況を前にして、聖座は、即時停戦と、平和をもたらすことのできる道の真摯な追求によって導かれた対話の緊急の必要性をあらためて断固として表明します。わたしは国際社会に向けて切迫した呼びかけを行います。もっとも脆弱な人々を守るための公正で永続的な解決を追求し、苦しむ人々に希望を取り戻すために努力を惜しまないでください。そして、聖座が平和と調和を推進するあらゆる取り組みを進んで全面的に支援することをあらためて表明します。
同様に、わたしたちはこのことを聖地でも目にしています。そこでは10月に停戦が発表されたにもかかわらず、民間人があいかわらず深刻な人道危機に見舞われており、それはすでに経験した苦しみにさらなる苦しみを加えています。聖座は、ガザ地区のパレスチナ人に――こうして、パレスチナ人とイスラエル人の全体に――自らの土地における永続的な平和と正義に基づく未来を保障しようとあらゆる外交的な取り組みを特別な関心をもって見守っています。とくに二国家解決は、両国民の正当な望みに合致する制度的な展望であり続けます。しかし、残念ながら、自らの土地で平和に暮らす権利をもつ、パレスチナの民間人に対するヨルダン川西岸での暴力が増加しています。
カリブ海とアメリカの太平洋沿岸における緊張の高まりも深刻な懸念を引き起こしています。わたしはあらためて切迫した呼びかけを行いたいと思います。党派的な利害の擁護ではなく、諸国民の共通善を念頭に置きながら、現在の状況に対して平和的な政治的解決を追求してください。
これは最近の展開に従って、とくにベネズエラにいうことができます。これに関して、わたしはあらためて呼びかけを行います。ベネズエラ国民の意志を尊重してください。そして、すべての人の人権と市民権を守り、安定と調和に基づく未来を築くために努力してください。そして、正義と真理と自由と兄弟愛に基づく社会を築き、長年にわたりベネズエラを苦しめてきた深刻な危機から立ち直ることができるために、ホセ・グレゴリオ・エルナンデスとカルメン・レンディレス修道女という昨年10月に列聖することができた二人の子らの模範のうちに導きを見いだしてください。
世界にはほかにもさまざまな危機が存在します。わたしは何よりもまず、人身売買から強制追放と誘拐に至るあらゆる種類の暴力によって特徴づけられたハイチの悲惨な状況を挙げます。これに関してわたしは、国際社会の必要かつ具体的な支援によって、ハイチが、民主的秩序を回復し、暴力を終わらせ、和解と平和を実現するために必要な措置をできるだけ速やかにとることができることを願います。
多くの犠牲者を出した暴力に見舞われた、この数十年にわたるアフリカ大湖地域にかかわる状況を忘れてはなりません。わたしは、関係者が、あまりにも長く続いた紛争を終結させるために、決定的、公正かつ永続的な解決を追求するように励まします。同様に、わたしは広大な戦場と化したスーダンの状況と、15年前に国民投票によって誕生し、諸国家の中でもっとも若い国家である、南スーダンの政情不安の継続にも思いを致します。
東アジアにおける緊張の兆しの高まりに触れないわけにはいきません。すべての関係国が紛争の可能性の原因となっている係争問題に対して平和的かつ対話的なアプローチを採用することを願います。
わたしはとくに、昨年3月の壊滅的な地震によってさらに悪化した、ミャンマーを襲う深刻な人道的・安全保障的危機に思いを致します。あらためて強く呼びかけます。勇気をもって包括的な平和と対話の道を選択し、人道支援を受けるための公正で迅速な手段をすべての人に保障してください。民主主義の歩みが真実なものとなるためには、共通善を追求し、社会の結束を強化し、すべての人の総合的な発展を推進しようとする政治的意志がそれに伴わなければなりません。
わたしたちはこれらの多くの状況のうちに、アウグスティヌスが指摘したとおり、平和は武力と抑止力によって初めて可能だという思想がつねにその中心にあることに気づきます。さらに、戦争は破壊することで満足しますが、平和は逆に、建設のための継続的で忍耐強い努力と持続的な警戒を必要とします。こうした努力は、核兵器保有国をはじめとした、すべての人に求められます。わたしはとくに、来る2月に失効する新戦略兵器削減条約(START)のフォローアップを行う重要性に思いを致しています。しかし、危険なのは、人工知能(AI)の利用を含めて、ますます高度化する新たな兵器開発競争をわたしたちが夢想していることです。人工知能は、適切で倫理的な管理と、人間の自由と責任を守ることを中心とした規制の枠組みを必要とする、一つの手段にすぎません。
親愛なる大使の皆様。
わたしたちが悲惨な状況を目にしているにもかかわらず、平和は、困難であっても実現可能な善であり続けます。アウグスティヌスが述べるとおり、平和は「わたしたちの究極の善」(15)です。なぜなら、平和は神の国の目的そのものであり、わたしたちは無意識のうちにもこれにあこがれ、わたしたちは地上の国でその先取りを味わうことができるからです。わたしたちが地上を旅する間、平和は謙遜と勇気を求めます。それは真理に対する謙遜と、ゆるす勇気です。キリスト者の生活の中で、これらのものは主の降誕によって示されます。主の降誕において、真理であるかた、すなわち神の永遠のことばは、謙遜な肉となられたからです。それらは復活によって示されます。復活において、罪に定められた正しいかたは、迫害する者たちをゆるし、復活のいのちを彼らに与えるからです。
よく見るならば、現代においても、勇気ある希望のしるしは欠けることがありません。わたしたちはこのしるしを絶えず支えなければなりません。わたしはたとえばデイトン合意(1995年)のことを考えます。デイトン合意は30年前、ボスニア・ヘルツェゴビナにおける流血の戦争を終結させ、困難と緊張にもかかわらず、より繫栄と調和に満ちた未来への可能性を開きました。わたしは昨年8月に調印されたアルメニアとアゼルバイジャンの和平共同宣言のことも考えます。この共同宣言は、南コーカサスにおける公正で永続的な平和への道を開き、なお未解決の諸問題を両国にとって満足のいく形で解決しました。同様にわたしは、近年のベトナム政府と聖座との関係と、ベトナムにおいて教会が活動するための環境の改善のための努力にも思いを致します。これらは皆、わたしたちが育てなければならない平和の種です。
来る10月にアッシジの聖フランシスコの死後800周年が記念されます。聖フランシスコは平和と対話の人であり、世界中のカトリック教会に所属しない人々からも知られています。聖フランシスコの生涯は輝かしいものです。なぜなら、それは真理に根ざした勇気と、平和な世界は天上の国へと手を差し伸べる謙遜な心から築かれるという確信に導かれたからです。新年の初めにあたり、皆様一人ひとりと皆様の国に住む一人ひとりの上に、謙遜に平和を実現する心が与えられることを願います。
ご清聴ありがとうございます。
略号
AAS Acta Apostolicae Sedis
