「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」(イザ43・19)。これは、神が預言者イザヤを通して、バビロニアにおけるイスラエルの捕囚の民に向けて述べたことばです。イスラエルの民にとって、それは困難な時でした。すべてのものが失われたかのように思われたからです。エルサレムは王ネブカドネツァル二世の兵士たちによって征服され、破壊されました。捕囚の民には何も残りませんでした。地平線は閉ざされ、未来は闇の中にあり、すべての希望は無駄になったかのように見えました。すべてのことによって、捕囚の民は、あきらめ、苦い思いで事態を受け入れ、もはや神の祝福を受けることはないと感じるようになりました。
にもかかわらず、まさにこのような状況の中で、主は、生まれつつあるある新しいことを受け入れるように招きます。それは未来に起こることではなく、すでに起こりつつあること、新芽のように萌えいでているものです。それはどういうことでしょうか。このように荒廃した絶望的な情景の中で、何が生まれることができるのでしょうか。そればかりか、何がすでに芽生えているといえるのでしょうか。
生まれつつあるのは、新しい民です。それは、過去の偽りの安定が崩壊し、本質的なことを見いだした民です。一致して、主の光の中をともに歩む民です(イザ2・5参照)。この民はエルサレムを再建することができます。なぜなら、聖なる都エルサレムを遠く離れ、今や神殿が破壊され、荘厳な祭儀を祝うことがもはやできなくなった彼らは、別のしかたで主と出会うことを学んだからです。すなわち、心の回心と(エレ4・4参照)、法と正義を行い、貧しい人、困窮する人の世話をすることと(エレ22・3参照)、あわれみのわざによってです。
わたしたちは同じメッセージを、異なるしかたで、福音の箇所にも見いだすことができます(ヨハ8・1-11参照)。ここでも、人生が壊された、一人の人、一人の女がいます。彼女の人生が壊されたのは、地理的な捕囚によってではなく、道徳的な断罪によってです。彼女は罪人であり、そのために律法から遠ざけられ、石で打ち殺されることを宣告されます。この女にとっても、もはや希望は存在しないかのように思われます。しかし、神はこの女を見捨てません。それどころか、女を打ち殺そうとする人々がその手に石を握りしめたまさにそのとき、イエスは女の人生に歩み入り、女を弁護し、人々の暴力から救い出し、新たな人生を始める可能性を女に与えます。イエスはいいます。「行きなさい」。「あなたは自由だ」。「あなたは救われた」(11節参照)。
今日の典礼は、この劇的かつ感動的な物語によって、わたしたちが四旬節の歩みの中で神への信頼を新たにするように招きます。神はいつもわたしたちを救うために近くにいてくださるからです。捕囚も、暴力も、罪も、人生の他のいかなる現実も、神がわたしたちの戸口に立って戸をたたき、わたしたちが戸を開けるやいなや中に入ろうとするのをとどめることはできません(黙3・20参照)。それどころか、とくに試練がいっそう厳しいものとなるときに、神の恵みと愛はわたしたちを再び立ち上がらせるためにますます力強くわたしたちを抱きしめてくださるのです。
姉妹兄弟の皆さん。わたしたちは病者と医療従事者の祝祭を祝いながらこの箇所を読んでいます。当然のことながら、病気は人生のもっとも困難で辛い試練の一つです。わたしたちはこの試練の中で、自分たちがいかに脆弱であるかをまざまざと体験します。病気は、わたしたちに、自分が捕囚の民や福音書の女と同じような者だと感じさせることがあるかもしれません。すなわち、未来に対する希望を奪われたかのように感じさせるかもしれません。しかし、そうではありません。このようなときにも、神はわたしたちを一人きりにすることはありません。そしてわたしたちは、まさに自分の力が尽きたときに神に身をゆだねるなら、神がともにいてくださることの慰めを味わうことができるのです。人となられた神ご自身が、わたしたちのすべての弱さを共有することを望まれました(フィリ2・6-8参照)。そしてこのかたは、苦しむとはいかなることかをよくご存じです(イザ53・3参照)。だからわたしたちはこのかたに語りかけ、自分の苦しみをゆだねることができます。そして、あわれみと近さと優しさを見いだすことを確信できるのです。
しかし、それだけではありません。神はご自身の忠実な愛をもってわたしたちをかかわらせます。それは、わたしたちも互いに「天使」となり、神がともにいてくださることの使者となることができるためです。こうして、苦しむ人にとっても介護する人にとっても、病者のベッドはしばしば救いとあがないの「聖なる場所」に変わることができるのです。
親愛なる医師、看護師、医療従事者の皆さん。皆さんの患者、とくにもっとも脆弱な患者をケアするとき、主は皆さんに自分の人生をたえず新たにし、それを感謝とあわれみと希望ではぐくむ機会を与えてくださいます(教皇フランシスコ2025年の通常聖年公布の大勅書『希望は欺かない(2024年5月9日)』11[Spes non confundit]参照)。主は、皆さんを招きます。当然のことは何もなく、すべては神のたまものであることを謙虚に自覚しながら、自らの人生を照らしてください。外見だけに目を向けず、大切なこと――すなわち、ささやかな、あるいは偉大な愛のわざ――だけが残るときに体験される人間性をもって、人生を成長させてください。病者の存在を皆さんの人生におけるたまものとして受け入れてください。それは、愛以外のすべてのものから心を清め、燃え上がる甘美なあわれみの炎で心を温めることによって、皆さんの心を癒やすためです。
さらに、親愛なる病者の兄弟姉妹の皆さん。わたしは人生のこのときに多くのことを皆さんと共有しています。すなわち、病気になり、自分の弱さを感じ、多くのことがらにおいて他者に頼り、支えを必要とする経験です。このような経験は必ずしも容易なことではありません。しかしそれは、日々、愛し、愛されることを学ぶための学びやです。要求することも拒絶することもなしに。後悔することも絶望することもなく。与えられた恵みのゆえに神と兄弟に感謝しながら。そして、これからやって来るべきことに対して身をゆだね、信頼しつつ。病室や病床は、わたしたちにも次のように語りかける主のみ声を聞くための場所となりえます。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」(イザ43・19)。こうしてわたしたちは信仰を新たにし、強めます。
教皇ベネディクト十六世は――教皇は自らの病気のときに落ち着きに関するすばらしいあかしをわたしたちに示してくださいました――、次のように述べています。「人間であることの真の基準は、苦しみと、苦しむ人との関係によって根本的に定められます」。そして、「苦しむ人を受け入れる〔……〕ことのできない社会は、残酷で非人間的な社会です」(教皇ベネディクト十六世回勅『希望による救い(2007年11月30日)』38[Spe salvi])。ともに苦しみに立ち向かうことは、わたしたちをいっそう人間的にします。そして、苦しみを共有することは、あらゆる聖性の歩みの重要な一歩です。このことは真実です。
愛する友人の皆さん。脆弱な人々を自分の生活から排除してはなりません。残念ながら、現代においてある種の考え方がそのようなことをしています。わたしたちの周りから苦しみを追放してはなりません。むしろ苦しみを、ともに成長し、希望をはぐくむための機会としてください。神がまずわたしたちの心に注いでくださり(ロマ5・5参照)、いつまでも残る愛によって(一コリ13・8-10、13参照)。
