教皇レオ十四世、2026年5月23日、アチェッラ司教座聖堂におけるあいさつ

2026年5月23日(土)午前9時15分(日本時間同日午後4時15分)に訪問先のアチェッラ(ナポリ)の司教座聖堂を訪れて行ったあいさつ(原文イタリア語)。    父と子と聖霊のみ名によって。  あなたがたに平和があるよう […]

2026年5月23日(土)午前9時15分(日本時間同日午後4時15分)に訪問先のアチェッラ(ナポリ)の司教座聖堂を訪れて行ったあいさつ(原文イタリア語)。

 
 父と子と聖霊のみ名によって。
 あなたがたに平和があるように。

([アントニオ・ディ・ドンナ]教区司教のあいさつ)

 司教様。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。皆様の歓迎に感謝します。

 ポンペイの聖母巡礼所とナポリ市への訪問から数日後にカンパニアに戻り、皆様とお会いできたことを主に感謝します。ご存じのとおり、かつて教皇フランシスコは、悲しむべきことに「火の地」(Terra dei fuochi)と名づけられたこの地に来ることを望みましたが、かないませんでした。今日わたしたちは、回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』Laudato si’)がこの地の教会の使命に対して示した偉大な恵みを認めながら、教皇フランシスコの望みを実現したいと思います。実際、自然と社会の環境を汚染する、隠れた利害と共通善への無関心との死をもたらす集中によって引き起こされた、被造物と皆様の中の貧しい人々の叫び声が、いっそう劇的なしかたで耳に響きます。それは回心を求める叫び声です。

 わたしたちはこの司教座聖堂の中で、まず、教会の時を経験します。それはいわばわたしの訪問においてもっとも親しみのある時です。その後わたしたちは広場で、象徴的な意味で社会全体と出会います。わたしは何よりもまず、愛する人を失った人々の涙を受け止めるために来ました。彼らは、あまりにも長期間にわたり罰を受けずに活動することができた、何のうしろめたさもなしに個人と組織によって引き起こされた環境によって亡くなったのです。しかし、わたしがここにいるのは、善をもって悪に応答した人々、とくに人々を希望のうちに集めるためにあえて非難と預言を行うことができた教会に感謝するためでもあります。こうして、聖霊降臨祭の前日に皆様を訪問することが分かっていたわたしは、皆様の歩みを読み解き、励ますことのできる箇所を聖書の中に探しました。わたしはそれを預言者エゼキエルの偉大な幻のうちに見いだしました。エゼキエルは主に導かれて、追放された民にとって復活の力強いメッセージとなる経験を行いました。「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」(エゼ37・1-2)。

 愛する友人の皆様。神は男と女を園に置きました。それは、園を耕し、守るためでした。すべてはいのちと美と豊かさに満ちていました。この地もかつては〈幸いなカンパニア〉(Campania felix)と呼ばれていました。なぜならそこは、その豊かさと実りと文化によって、いわばいのちへの賛歌のように魅力的だったからです。しかし、今やここにあるのは土地と人々の死です。わたしたちは散らばった枯れた骨を前にした預言者の失望と思いを一つにします。わたしたちは、すばらしい生態系と場所と歴史と記憶を損なった破壊に心を痛めます。この現実を前にして、わたしたちは二つの態度をとることができます。一つは無関心、一つは責任です。皆様は責任を選びました。そして、神の助けによって、献身と正義の追求の道を歩み始めました。

 その後、主はエゼキエルにこう尋ねます。「そのとき、主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか』。わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです』」(エゼ37・3)。愛する友人の皆様。ここで神は、わたしたちの地平を広げる新たな問いかけを行います。神は、わたしたちの心がいのちを求め、永遠にあこがれていることを知っておられます。しかし、わたしたちの心があまりも簡単にそれを無期限の遠く離れた時間へと、まだ存在しない別の世界へと先延ばしすることも知っておられます。しかしエゼキエルは、自分が置かれた状況の中で、今存在する自分の民に仕えなければなりません。同じように、わたしたちの教会も、今ここで神のことばを響き渡らせる使命をもっています。このみことばはわたしたちに、その可能性そのものを信じるかどうかを問いかけます。みことばは、いのちのことばです。わたしたちが今日ここに集まっているのは、このみことばに答えるためです。そこでわたしたちはこう答えます。主よ。死は至るところにあり、不正が勝利を収め、犯罪と腐敗と無関心が依然として人々を殺害し、善は枯れ果てているように思われます。しかし、あなたはわたしたちにこう問いかけられます。「これらの骨は生き返ることができるか」。そこでわたしたちはこう信じて答えます。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。あなたはわたしたちが再び立ち上がれることをご存じです。なぜなら、あなたご自身がわたしたちの手をとってくださるからです。あなたはわたしたちの荒れ野が再び花を咲かせることをご存じです。あなたは悲しみを喜びに変えることがおできになります。

 姉妹兄弟の皆様。これらすべてのことはきわめて具体的です。それはすでに現実となった約束です。教皇フランシスコは回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』の中で、死のパラダイムを非難しながら、新しいいのちが静かにあふれ出てきていることをはっきりと宣言しました。人々がすでにともに再出発し、社会正義と環境正義に新たな形を与えている現実を列挙した後、教皇はこう述べます。「真正な人間性は、〔……〕ほとんど気づかれないながらも、新たな総合へと招きつつ、テクノロジー文化のただ中に住まっているようです。真正なものの粘り強い抵抗が生まれるのですから、いろいろなことがあったとしても、期待し続けることはできるのではないでしょうか」(『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』112)。親愛なる友人の皆様。福音がいのちを照らし、造り変える場で、再生をもたらすこの「粘り強い抵抗」の証人となってください。第二バチカン公会議はこのことをとくに『現代世界憲章』Gaudium et spes)によってわたしたちに教えてくれます。主はわたしたちに、地域社会での生き方、個人と組織がともに働く意思、教育への情熱、労働における誠実さ、権力と富の公平な分配、人間のすべての被造物への畏敬の念について、あらためて問いかけます。この土地は生き返ることができるか。皆様が答えとなってください。信仰と献身によって一致した共同体となってください。そうすれば、いのちは豊かに栄えることでしょう。

 ここで主は預言者にお命じになります。「これらの骨に向かって預言し、彼らにいいなさい。枯れた骨よ、主のことばを聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこういわれる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」(エゼ37・4-5)。主のことばに従ったエゼキエルは、次のことを目にしました。「わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった」(エゼ37・7-8)。それゆえ、わたしたちは奇跡が一度に起きるのではないことを悟ります。たしかに預言者は自分が見聞きしたことに驚きますが、まだ十分ではありません。何かがまだ不足しています。わたしたちにも同じことがいえます。わたしたちは再び信頼し、耳を傾け、信じなければなりません。皆様が行った選択、皆様が歩んできた教会の歩み、皆様が苦しみに向き合うために行った大小の再出発は、まだすべてではありません。立ち止まるなら、後退することになります。実際、主は再びエゼキエルに語りかけます。「『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る』。わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(エゼ37・9-10)。

 兄弟姉妹の皆様。聖霊が皆様に、平和の「集団」が自分の足で立ち、この土地と共同体の傷をいやすのを見ることができるようにしてくださいますように。それはもはや破壊する火ではありません。むしろ、人々を生き返らせ、温める火、男と女、子どもと高齢者を含めた何百万人もの人々の心と思いに火をともし、配慮と慰めと関心と真の愛を呼び覚ます、聖霊の火です。とくに死に襲われた家族の皆様は、これまでしばしば欠如していた責任感を子ども、孫、隣人に伝えることによって、新たないのちを生み出しています。恨みを滅ぼし、皆様が求める正義を自ら実践し、いのちをあかしし、ケアの教育を行ってください。

 叙階された役務者、男女修道者の皆様。この民の生きた成員となってください。日々、へりくだって人々に近づき、率先して行動し、ゆるす、奉仕する権威を示してください。実際、この土地やイタリアと世界の他の多くの地域にしばしば害を及ぼしてきた、特権と傲慢と無責任の文化を解体しなければなりません。聖霊が四方から吹き来り、新たな形の告知と、協力と、環境と社会の再生を促してくださいますように。実際、それぞれの土地の霊性が存在しますが、それはすべて人の霊性に負っています。まことに、世界の変化はつねに心から始まります。エゼキエル自身、この死と復活の預言を行う前に、神のみに可能な刷新を告げ知らせます。「主なる神はこういわれる。〔……〕わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちのからだから石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」(エゼ36・22、26-28)。

 復活したイエスが、わたしたちがこのようにともに住み、この世では巡礼者、永遠の世ではその町の民として、神のことばを受け入れ、実践することができる恵みをわたしたちに与えてくださいますように。

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