教皇レオ十四世、2026年6月8日、スペイン議会での演説

2026年6月6日(土)から12日(金)まで行ったスペイン司牧訪問の3日目の6月8日(月)午前にスペイン下院議事堂(Palacio de las Cortes)で行った演説(原文スペイン語[邦訳はイタリア語版を底本とした […]

2026年6月6日(土)から12日(金)まで行ったスペイン司牧訪問の3日目の6月8日(月)午前にスペイン下院議事堂(Palacio de las Cortes)で行った演説(原文スペイン語[邦訳はイタリア語版を底本とした])。


 (ペドロ・サンチェス・ペレス=カステホン)首相
 (フランシーナ・アルメンゴル)下院議長
 (ペドロ・ロラン)上院議長
 (カンディド・コンデ=プンピド)憲法裁判所長官
 (マリア・イサベル・ペレロ・ドメネク)最高裁判所長官・司法総評議会議長
 下院議員、上院議員の皆様
 ご列席の皆様。

 議長に対し、ご丁寧なごあいさつと、わたしのスペイン訪問に際して使徒座になされたご招待、またスペイン王国の制度的・法的・民主的活動の中心であるこの歴史的な国会議事堂で温かく歓迎くださったことに対して感謝申し上げます。わたしはローマ司教、そしてカトリック教会の牧者として、司教たちの一致と信者の一致との根源であり基礎である使徒ペトロの後継者にゆだねられた使命が(第二バチカン公会議『教会憲章』23[Lumen gentium]参照)聖座をとくに諸民族と諸国家との対話のうちに置いていることを意識しながら、皆様のもとにまいりました。

 わたしが皆様の間にいるのは、相互協力の枠組みにおけるスペインに対する親しみを表し、人間の人格に奉仕することばとなることを意図するものです。教会は「人類とともに歩み」、その希望と傷を共有し、あらゆる時代の問いに耳を傾け、「現代の人々の生活にかかわるすべてのことから問いかけられ」ます。そのため教会は、公共生活について取り組むとき、諸機関の固有の使命と立法の任務を担う者の正当な責任を尊重します。教会は「地上の事物の自律」と「教会共同体と政治共同体の区別」を認識します。そしてまさにこの自覚から、共通善に奉仕し、共生を真に人間的なものにするものを思い起こしたいという望みから生まれる考察を提供します(教皇レオ十四世回勅『人間の偉大さ――AIの時代における人格の擁護』18-19[Magnifica humanitas]参照)。

 この議場で社会的共生に法的形態が与えられます。ここでは相違に耳が傾けられ、それが秩序づけられ、可能なかぎり共通の決定に造り変えられます。そのため、正当な立場の多様性を超えて、あらゆる立法活動は決定的に重要な問いに直面することになります。すなわち、人間の人格に関するいかなる概念が法律を促し、この法律はどのような種類の社会を築くのかという問いです。

 この問題に対して、スペインは特別に豊かな記憶の遺産をもっています。スペインの地理的・政治的アイデンティティは、信仰と理性、芸術と法、伝統と思想が実り豊かに出会うことができた歴史とより合わされています。大聖堂、大学、不滅の文学、法制度、そして国民の魂そのものの中に、自由を生き、正義を実践し、公共生活を秩序づける特別なしかたを形づくった遺産が息づき続けています。

 セルバンテス(1547-1616年)が「自由とは〔……〕天が人に与え給うた貴重な授かり物のひとつである」(『ドン・キホーテ』[Don Chisciotte della Mancia, II, 58(岩根圀和訳、『新訳ドン・キホーテ【後編】』彩流社、2012年、406頁)])と宣言した『ドン・キホーテ』の普遍的なことばから、アビラの聖テレサの深い霊性に至るまで、また、偉大なスペイン法学の伝統から、人間は「完全に死滅することを潔しとしなかった」(『生の悲劇的感情』[Del sentimento tragico della vita, I(神吉敬三・佐々木孝訳、『ウナムーノ著作集3 生の悲劇的感情』法政大学出版局、1975年、6-7頁)])と述べたウナムーノ(1864-1936年)の形而上学的な不安に至るまで、スペインは人間を単なる社会・経済・政治秩序の部分以上のものとみなすことができました。スペインは人間を、真理に開かれ、自由を与えられ、いかなる地上の現実も満たすことができない永遠への渇望に駆り立てられる被造物として認識してきました。一言でいえば、その尊厳があらゆる有用性に先立ち、立法行為がそれに奉仕すべき存在として認識してきたのです。

 それゆえ、今日、人間の人格について語られるとき、自然にサラマンカとそこで成熟した思想が思い起こされます。この議事堂にイサベル女王(1451-1504年)とフェルナンド王(1452-1516年)が象徴的に存在することは、スペインが普遍的な意味をもつ歴史的責任に直面した瞬間を思い起こさせてくれます。その数年後、サラマンカは、当時の状況が要求する道徳的・法的考察を比類のない明晰さをもって行わなければなりませんでした。新世界と諸民族の関係におけるはかりしれない可能性が開かれた500年前、サラマンカ大学では、一部の教師は、いかなるものであれ好都合と思われる力や利益を正当化するために理性に訴えることはできないことを理解しました。こうして彼らは、すべての人間の揺るぎない価値と権力の道徳的限界に関する問いを歴史的識別の対象としたのです。社会や教会自体は、自らのキリスト教的伝統のうちに見いだされる洞察をつねに理解していたわけではないことも認めなければなりません。

 しかしながら、この問いかけは、自らの歴史的状況をはるかに超えた知的・道徳的地平を開きました。〈全世界〉(totus orbis)、すなわちいかなる特定の権力よりも広い人類共同体に関する直観は、人々の間の法的・道徳的なきずなの存在を主張することを可能にしました。スペインから、サラマンカ学派――および、とくにフランシスコ・デ・ビトリア(1483/86頃-1546年)と他のドミニコ会員とイエズス会員――の考察は、権威にはつねに責任が伴い、すべての人間は権利と義務の主体として認められなければならないことを主張しうる法的・道徳的な良心の形成に貢献しました。尊厳と正義と共通善が国内的レベルでも国際的レベルでも社会関係の基準とならなければならないことへの願いは、今日においても反響し続けています。

 歴史的行動と道徳的理性の明晰さを一致させたこと、これがスペインの偉大な遺産の一つです。トルメス川のほとりで生まれたこの貢献は、教室や図書館を超えて、国際社会が共有するより広い意識の一部となりました。国際社会は、力の行使に基づいてではなく、人格の尊重に基づいていかに平和を築くかについて自問し続けているのです。この遺産は、可能なことを公正にし、法を真に人間的なものとし、万人に属し、いかなる多数者も侵害することを正当化できない富を多数の意志が守るにはどうすればよいかと立法家が自問するたびに、この議事堂でも生きています。

 サラマンカの問いは、公共生活に従事する人々の活動に同伴し続けます。今日、わたしたちの前に開かれた新しい世界は、もはや地図上に記されたものではありません。それはテクノロジー、経済、生物医学、デジタル世界にまで広がっています。デジタル世界では人間の力が個人生活と社会生活のきわめて微妙な領域にまでますます及んでいます。

 進歩はすばらしい可能性をもたらします。そして今日わたしたちはその可能性をとくに人工知能と新しい技術の発展のうちに目の当たりにしています。最近の回勅の中で述べたとおり、技術はそれ自体として中立的なものではありません。なぜなら技術は、それを考え、資金を与え、規制し、使用する人の顔をもっているからです(教皇レオ十四世回勅『人間の偉大さ――AIの時代における人格の擁護』9[Magnifica humanitas]参照)。そのため、現代の変革に直面するわたしたちの識別は、意思決定において人間が占める位置、労働の尊厳、連帯、社会政策、共通善が今日新たな形でどのように提示されているかに焦点を当てなければなりません。

 この識別は次の根本的な主張から始まります。すなわち、あらゆる真に公正な社会は人間の人格の不可侵の尊厳の承認に基づくということです。この尊厳は国家によるあらゆる容認に先立ち、可変的な社会的合意や、一時的な多数派の変動に従属させられてはなりません(教皇ベネディクト十六世「ドイツ連邦議会での演説(2011年9月22日)」参照)。人間の尊厳はそれが存在するということ自体によってすべての人に備わるものであり、そのため、あらゆる実定法体系を方向づけなければなりません。キリスト教信仰はそれを啓示から出発して宣言し、人間理性はそれを人間の真理に記された要求として認めることができます(同参照)。この確信が生き続けるかぎり、法はすべての人を守るものとなり、特定の利益や課題の強制にあらがうことを保障します。

 以上のことに基づいて、今日わたしは、社会的共生を法的に秩序づけるという重大な責任を担う人々に向けて、落ち着きをもって、しかし決然と語りかける機会を与えられました。教皇フランシスコが何度も述べたとおり(教皇フランシスコ「教皇庁生命アカデミー総会へのあいさつ(2021年9月27日)」)、この共生は廃棄の文化によって脅かされる可能性があります。この意味で、いのちが根本的な価値として認識されなくなったとき、わたしたちの社会はどのような未来をもつことができるでしょうか。生まれる前の子ども、高齢者、病者、沈黙のうちに苦しむ人、あるいは他者のケアに完全に頼っている人を暗闇のうちに置き去りにする共同体が真に公正だといえるでしょうか。人間のいのちの保護は特定のないし教派的な利害の問題ではありません。それは文明の目指すべき目的です。すべての人間のいのちは、受精から自然死に至るまで、その存在のあらゆる状態において認められ、守られなければなりません。この確信があいまいにされるとき、もっとも脆弱な人々が最初の犠牲となり、法は、すべての人に奉仕し彼らを守るという、もっとも深い意味を失います。そのため、国家の道徳的な偉大さはとくに、もっとも脆弱ないのちに同伴し、それを守り、愛する能力によって示されます。

 共通善は、ある意味で「人間の尊厳の社会的形態」(教皇レオ十四世回勅『人間の偉大さ――AIの時代における人格の擁護』59[Magnifica humanitas]参照)です。それは個別的な利害を合算したにすぎないものではなく、「集団と個々の成員とが、より豊かに、より容易に自己完成を達成できるような社会生活の諸条件の総体」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』26[Gaudium et spes])です。共通善が共有された地平でなくなるとき、公共活動は個別的な利害へと分散し、万人に属するものを守ることができなくなるおそれがあります。

 この文脈において、第一の人間的な現実であり共同体の自然本性的な基盤である家庭は、特別な重要性をもちます。家庭という環境の中で、各世代がからみ合わされ、社会に内的な連続性を与える生きた記憶が伝達されます。家庭が支えられているところでは、国家の精神的・社会的安定性も強化されます。家庭はつねに、他のどこよりも先に――いのちを受け入れ、他者をケアし、ゆるし、奉仕し、帰属するという――共生の基本的文法が学ばれる人間性の最初の学びやとなります。

 教育機関もこの課題において決定的な役割を果たします。教育機関の中で、新しい世代の人々は、真理を探求し愛すること、人生の意味とすべての人格の尊厳について考察することを学びます。それゆえ、多くの両親は、自分たちの子女が他者とかかわり、批判的精神をもって思考し、堅固な価値を身に着けられることを望みながら、子女の教育の貴重な連携者としての教育機関に大きな期待を寄せます。この協力関係はつねに「自分たちの道徳的・文化的・宗教的信念に従って、子どもにどのような教育・養成を受けさせるかを選択する」良心の「第一の不可譲の権利」を尊重しなければなりません(教皇レオ十四世回勅『人間の偉大さ――AIの時代における人格の擁護』143[Magnifica humanitas]、「市民的および政治的権利に関する国際規約」第18条4参照)。

 多くの人が平和と安全と未来を求めてすべてを捨てることを強いられる時代にあって、尊厳の肯定は抽象的なものにとどまることはできません。現代の悲惨な移住の状況は、国家の良心と国際秩序の倫理的基盤に問いかけています。多くの男性と女性と子どもが、しばしば悲惨な状況のために、自分たちの共同体を離れ、愛する人と歴史ときずなを後にすることを余儀なくされています。この現実はある種の単なる人口統計学的・経済的な解釈を超えるものです。それは優れた意味での道徳的・法的問題です。人間が国籍、民族、宗教、言語、あるいは経済的・社会的条件のゆえに差別されるとき、すべての人間の平等の尊厳という普遍的原理が重大な侵害を受けることになります。

 移住者と難民の状況は、人格を中心に据え、彼らに土地を離れることを強いる原因に対処し、単なる人流の管理を超えた対応を求めます。ここから社会正義の二つの要求が生じます。一つは、安全で合法的なルート、尊敬を伴う受け入れ、真の統合の可能性を保障することです。もう一つは、同時に、自国にとどまる権利を推進し、平和と安全と尊厳のある生活条件の欠如のため、また、経済的不平等や気候危機の影響のために、だれも故郷を離れなくてもよいようにすることです(教皇レオ十四世回勅『人間の偉大さ――AIの時代における人格の擁護』81[Magnifica humanitas]参照)。

 近年、ますます危険となっているルートは、しばしば隠蔽または無視されてきたこの現実の代償の甚大さを明らかにしています。多くの人が、その絶望を利用する人身取引業者や密輸業者の犠牲となり続けています。とくに地域・多国間協力の枠組みの中で、犠牲者の防止と救援と支援を強化する必要があります。

 この大きな課題に単独で立ち向かえる国はありません。そのため、移住者の保護と受け入れと真の統合の機会を保障しうる、協調的・連帯的・実効的な対応が不可欠です。制度的な対応が利用可能で公平で協調的であれば、国境は遺棄の場所ではなく、人間の尊厳を責任をもって守る場となりえます。

 皆様。

 世界は、多くの形の暴力と両極化と相互不信のうちに示される深刻な精神的・文化的危機に直面しています。このような状況において、平和は政治的な願望である以上に、真に固有の意味での道徳的責務となっています。平和は、意見を異にする人を尊重する公共的議論、出会いに奉仕する制度、真理と和解を追求する歴史的記憶、そして相違があっても市民間の友愛と相互の尊重を維持することが可能な社会生活を必要とします。

 国際的レベルで、平和は、勇気ある外交と、倫理的責任と、すべての民族のアイデンティティの尊重、および、国際法に示された平和的手段を通じて紛争を解決する国家の責務に基づく未来へのビジョンを必要とします。あらゆる戦争は、最終的に、交渉能力と、国家間の正義のきずなを認める人類の共通の良心の痛ましい敗北となります。武器は一時的な沈黙をもたらすことはできても、真の永続的な平和を築くことはできません。

 そのため、ヨーロッパをも含む世界のさまざまな地域で、国際情勢の脆弱さに対するほとんど不可避的な対応として再軍備が新たに行われていることは憂慮すべきです。反対に、真の安全保障は、正義と、忍耐強い対話と、国際法の尊重と、戦争から得られる利益よりも人間のいのちを優先することができる政治から生まれます。軍事分野における新しい技術や人工知能の開発も、厳格な倫理的監視を必要とします。生死に関する決断が、自動的なメカニズムにゆだねられたり、人間の人格の道徳的責任から切り離されたりすることがないようにするためです(教皇レオ十四世「ローマ・ラ・サピエンツァ大学でのあいさつ(2026年5月14日)」参照)。

 国際社会は、条約の尊重と、透明性のある外交活動と、武力の行使よりも平和を優先する真摯な意志に基づく、公正で永続的な合意を目指す忍耐強い歩みとしての対話のかけがえのない価値を再発見するように招かれています。そこから信頼と希望が生まれるのです。

 欧州連合の標語である「多様性における統一」(In varietate concordia)が示すとおり、真の一致は画一化することではなく、さまざまな文化と感性と伝統を互いを豊かにする機会とすることにより、多様性において結束をもたらすことです。

 同様に、社会そのものの内部においても、相互主義の文化を推進することが緊急の課題です。政治的多元主義は敵対する相手の名誉を恒久的におとしめるものであってはなりません。成熟した共生においては、相違が傾聴によって和らげられ、すべての人のニーズ、願望、能力の認識へと方向づけられることによって、対立も平和への過程となりえます。

 しかし、平和は単なる政治的ないし制度的現実ではありません。それは、恨みや無関心や憎しみが和解に場所を譲るとき、良心の中で生まれるものでもあります。それゆえ、平和は言語を通しても確立され、守られます。ことばは、道を開くことも閉じることも可能です。現実を照らすことも、出会いを不可能にするほどに現実を歪めることも可能です。それゆえ、公的な責任を担う人々は「ことばの武装を取り除く」(教皇レオ十四世「2026年四旬節メッセージ(2026年2月13日)」)ことによってことばを守る特別な責務を帯びています。毅然とした態度は軽蔑を必要としません。意見の不一致は屈辱を伴うものではありません。

 この他者の尊重から、他者の信念と良心と神との関係をはぐくむための空間を守る責務も生まれます。このような内的領域に目を向けることによって、あらゆる真に民主的な社会にとって決定的に重要な問題をいっそう理解することが可能となります。すなわち、思想・良心・信教の自由と、人格のもっとも深奥の領域を守る基本的権利です。現代国家の基盤である自由は、それが真実なものであるためには、人間の宗教的次元を認め、尊重し、法的に保護します。そして、だれも自らの信仰のゆえに社会への貢献をあきらめなければならないようなことにならないようにします。

法的なレベルと道徳的なレベルを混同することなしに、自由がその完全な意味で理解されなければならないことを思い起こすことも適切です。自由であるとは、強制なしに生き、多くの選択の可能性をもつことだけを意味するのではありません。それは善を認識し、責任あるしかたで善に従いうることを意味します。そのため、真に自由な社会は、個人と共同体と組織の自由が不当に制限されることがないように、公権力に正当な制約を設けることも必要とします(第二バチカン公会議『信教の自由に関する宣言』1[Dignitatis humanae]参照)。この観点から、地上的秩序の正当な自律性が、宗教現象に敵対するものとして解釈されてはなりません。信仰は特権や強制によって押しつけられるものではありませんが、にもかかわらず、公共生活にとって重要なものでないかのごとくに沈黙させられることがあってはなりません。

 こうした文脈において、告解の秘跡上の秘密はカトリック教会にとって特別な重要性をもっています。それは、信仰共同体に生活と組織と内的規律のための固有の空間を保障する、より広範な信教の自由の領域に位置づけられます(全欧安全保障協力会議「ヘルシンキ最終文書(1975年8月1日)」原則VII参照)。特定の職業において同様に行われているように、告解の秘跡上の秘密を法的に保護することは、信者が外的圧力を恐れずに神に心を開くことを可能にする内的自由の神聖な空間を保つことを意味し、国際規範もこれを認めています(国際刑事裁判所「手続きおよび証拠に関する規則」規則73.3参照)。

 皆様。

 この議場に飾られたいくつかの絵画について少し考察することをお許しください。この議場には天窓を通して自然光が差し込んでいます。上からの光は、政治も、自らに先立ち、自らを超える基準を認めなければならないことを思い起こさせてくれます。

 福音と十戒の受容を描く主璧上部の絵も、ある本質的なことを思い起こさせてくれます。これらの象徴は、近代の自由が、政治的秩序と宗教的秩序を混同することなしに、キリスト教的伝統によって深く特徴づけられた長年にわたる良心の教育によっても準備されたものであることを認識するように招きます。人々はこの内的な学びやで、法が善に奉仕しなければならないこと、正義が権力を制約すること、権力は正統性を必要とすること、貧しい人々は完全な意味で共同体の一員であること、外国人はその尊厳に従って受け入れられるべきこと、そして人間のいのちを決して商品のように扱ってはならないことを学んだのです。

 法律は、形式的に承認されたことだけでその真の偉大さに達するのではありません。形式的に有効である以上に、人格の尊厳の前で自らを示し、恥じることなくその吟味を通過することができたときに初めて、真の偉大さに達するのです。

 それゆえ、皆様にお願いします。目を上げてください。現実から目を背けずに、公権力が下すあらゆる決定が、肉体と口をもった人間、とくに人に声を聞いてもらう力をもたない人々に影響を及ぼすことを思い起こしてください。崇高なまなざしは、あらゆる公的決定において問題となっていることを深く見つめることのうちにあります。そのため、技術的な対応や法改正と並んで、道徳的な刷新を行うことも必要なのです。

 スペインはこの歩みにおいて多くのものを与えることが可能です。スペインは、諸大陸を結びつける言語を有しています。信仰と理性、法と良心、一致と多様性を対話させることのできる文化的・法的・精神的伝統を有しています。この歴史的経験は、平和で公正な共生を築くための和合と忍耐強い努力の価値も思い起こさせてくれます。

 この高貴な国が、そのルーツの記憶と、未来を見つめる勇気を失わずにいることができますように。スペインが出会いと文化と連帯と希望の地であり続けますように。そして、スペインの公共生活が、揺るぎない信念を、高貴な対話と偉大な奉仕とつねに結びつけることができますように。

 神が地上のすべての国に平和を、家庭に和合を、良心に落ち着きを与えてくださいますように。聖ヤコブの使徒としての足跡と柱の聖母の母としての存在によって特徴づけられるスペイン王国の上に、繁栄と正義と永続的な平和の日々が訪れますように。ご清聴ありがとうございます。

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