
希望は欺かない―2025年の通常聖年公布の大勅書 フランシスコ、ローマ司教、神のしもべたちのしもべ。 この書簡を読む人々の心が、希望で満たされますように。 1 「希望はわたしたちを欺くことがありません(Spes non […]

希望は欺かない―2025年の通常聖年公布の大勅書
この書簡を読む人々の心が、希望で満たされますように。
1 「希望はわたしたちを欺くことがありません(Spes non confundit)」(ローマ5・5)。使徒パウロは希望のしるしの名のもとに、ローマのキリスト者の共同体に励ましを与えます。古来の伝統に従って教皇が25年ごとに宣言する、次の聖年の中心となるメッセージも希望です。わたしは、聖年を過ごすためにローマを訪れる人たちと、使徒ペトロとパウロの町に行くことはかなわずとも部分教会において聖年を祝う人たち、そうしたすべての希望の巡礼者のことを思います。すべての人にとって聖年が、救いの「門」である主イエス(ヨハネ10・7、9参照)との、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように。教会は、主イエスを「わたしたちの希望」(一テモテ1・1)として、いつでも、どこでも、すべての人にのべ伝える使命をもっています。
すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望はよいものへの願望と期待として、一人ひとりの心の中に宿っています。けれども将来が予測できないことから、相反する思いを抱くこともあります。信頼から恐れへ、平穏から落胆へ、確信から疑いへ―。わたしたちはしばしば、失望した人と出会います。自分に幸福をもたらしうるものなど何もないかのように、懐疑的に、悲観的に将来を見る人たちです。聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。神のことばが、その根拠を見つけるのを助けてくれます。使徒パウロがローマのキリスト信者にあてて書いたものに案内してもらいましょう。
希望のことば
2 「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのおかげで、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。……希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・1―2、5)。ここでパウロは、考察すべき点を数多く示しています。わたしたちは、ローマの信徒への手紙は彼の宣教活動の中の決定的な段階を記していることを知っています。それまで、彼はローマ帝国の東部一帯で活動していましたが、いよいよローマが、世界の中でも特徴的な意味をもつあの町が、彼を迎えるのです。それは、障壁も境界も知らない福音を告げ知らせるため、立ち向かうべき大いなる挑戦でした。ローマの教会はパウロによって設立されたのではありませんが、彼は一刻も早くローマに赴きたいという強い望みを抱いていました。それは、死んで復活したイエス・キリストの福音をすべての人にもたらすため、すなわち、約束を実現し、栄光へと導く、愛に基づいた欺くことのない希望を告げるためでした。
3 希望はまさしく愛から生まれ、十字架上で刺し貫かれたイエスのみ心からわき出る愛がその根本です。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子のいのちによって救われるのはなおさらです」(ローマ5・10)。そのいのちは、洗礼とともに始まるわたしたちの信仰生活の中に現れ、神の恵みに素直にこたえる中で育っていきます。そうして、聖霊の働きによってたえず新たにされ、揺るがないものとされる希望によって、いっそうの輝きを放つのです。
旅する教会とたえず歩みをともにし、信じる人々に希望の光を注いでくださるかたこそ聖霊です。聖霊は、決して消えることのない松明のように、わたしたちの人生に支えと力を与える、希望の光をともし続けてくださいます。間違いなく、キリスト者の希望は、裏切ることも欺くこともありません。なぜならそれは、何事も何者も神の愛からわたしたちを引き離すことはできないという確信に根ざすものだからです。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。……しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださるかたによって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、いのちも、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8・35、37―39)。ですからこの希望は、困難によってくじかれることはありません。信仰に基づき、愛によって養われるのです。希望のおかげで、人生を前に進むことができます。このことについて聖アウグスティヌスはこう書いています。「どのような生活のしかたであれ、信じ、希望し、愛するという、魂の三つの性向なしに、人は生きることはできません(1)」。
4 聖パウロはきわめて現実家です。人生は喜びと苦しみが織りなすものだということ、愛は問題が増すとき試練に遭うということ、希望は苦しみの前ではついえそうになるものだということを知っています。それでもこう書いています。「(わたしたちは)苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5・3―4)。使徒パウロにすれば、艱難と苦しみは、無理解と迫害の中で福音をのべ伝える人にとって典型的な条件なのです(二コリント6・3―10参照)。けれどもこのような状況において、闇の中に光を見いだすのです。福音宣教が、キリストの十字架と復活から生じる力によって、どれほど支えられているかが見えてくるのです。そこから、希望と密接に結びついた徳、すなわち忍耐が鍛えられていくのです。つねに慌ただしくあることが当たり前となった世界では、わたしたちは何でもすぐに欲しがることに慣れてしまっています。人と会う時間をもてず、家庭でさえ、一緒にいて和やかにおしゃべりしたりすることが難しくなっています。忍耐は慌ただしさによって追い払われ、人々に深刻な損害を与えています。事実、不寛容、いらだち、時としていわれのない暴力となって、不満とかたくなさを生み出しています。
さらに、時間も空間も「今ここで」という考えに支配されているインターネットの時代にあって、忍耐は歓迎されません。被造界をなおも驚きの目をもって眺めることができるなら、忍耐がどれほど決定的なものであるかを理解することができるでしょう。季節の移り変わりをその実りとともに待つこと、動物の生態や成長過程を観察すること、聖フランシスコの素朴なまなざしをもつこと。彼は、ちょうど八百年前に書かれた「兄弟なる太陽の賛歌」の中で、被造界を一つの大家族とみなし、太陽を「兄弟」、月を「姉妹」と呼びました(2)。忍耐を再発見することは、自分にとっても他者にとっても、とてもよいことです。聖パウロは、神がわたしたちに約束してくださったことに対する辛抱強さと信頼の大切さを強調するために、何度も忍耐の語を用いています。しかし何よりも、神はわたしたちに対して忍耐強くあられるかた、「忍耐と慰めの神」(ローマ15・5参照)であるとあかししています。聖霊の実でもある忍耐は、希望を生き生きと保たせ、それを徳としても生き方としても強めてくれます。ですから、希望の娘でありつつ、希望を支えてくれる忍耐の恵みをしばしば願い求めることを学びましょう。
希望の道
5 このように希望と忍耐が影響し合うことから、次のことが明らかになります。つまり、キリスト者の人生は、目的地である主キリストとの出会いを垣間見せてくれるかけがえのない伴侶、すなわち希望を養い強める絶好の機会をも必要とする旅路だということです。わたしは、紀元1300年の最初の聖年の公布には、それに先立って、民間の霊性によって鼓舞された恵みの道程があったということに思いを馳せるのが好きです。実際、ゆるしの恵みが神の忠実な聖なる民に豊かに注がれる形態は、さまざまであったということを忘れるわけにはいきません。たとえば、教皇ボニファツィオ八世が聖年を定める六年前の1294年8月28日と29日に聖チェレスティノ五世教皇が、アクイラのサンタ・マリア・ディ・コレマッジョ大聖堂を訪れる人々に与えることを望んだ大いなる「ゆるし」が挙げられます。つまり教会はすでに、いつくしみという聖年の恵みを経験していたのです。またそれ以前の1216年に教皇ホノリウス三世は、8月の1日と2日にポルツィウンクラ聖堂(訳注:聖フランシスコが修復し、活動の拠点とした聖堂)を訪問した者に対する免償を願い出た聖フランシスコの嘆願を受け入れました。サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼についても同じです。1122年、教皇カリスト二世は、使徒ヤコブの祝日が主日と重なるたび、この巡礼所で聖年を祝うことを許可しました。聖年のこうした「広がりをもった」祝い方が続くのはよいことです。それは、神のゆるしの力が、共同体と個々人の歩みを支え、寄り添うことになるからです。
巡礼が、聖年のすべての行事の基本要素であることは偶然ではありません。旅に出ることは、人生の意味を探し求める人の特徴です。徒歩巡礼は、沈黙、苦労、いちばん大切な物事、それらの価値の再発見に大いに有益です。来年も希望の巡礼者たちは、聖年の体験を充実させるため、古くからの道や現代の道を歩んで行くはずです。ローマ市内にも、カタコンベへの道や七巡礼聖堂への道といった伝統的な行程のほかに、信仰の道が数々設けられます。国境が取り払われたかのように一つの国からほかの国へと渡り、目を凝らして自然界や芸術作品を眺めつつ町から町へと移動していくことによって、さまざまな体験や文化が宝として、自らの内に残る美となるでしょう。その美が祈りと調べを合わせると、なし遂げられた驚きのわざゆえの神への感謝へと至ります。巡礼路沿いやローマ市内の聖年指定聖堂は、信仰の道での英気を養い、希望の泉で喉をうるおす、霊性のオアシスになるはずです。そのためにはまず、まことの回心の歩みに欠かせない出発点である、和解の秘跡を受けることです。部分教会においては、司祭と信徒がゆるしの秘跡に備え、個別にそれを受けやすくするよう、特別に配慮することが必要です。
この巡礼には、とりわけ東方教会の信者を、なかでもペトロの後継者との完全な交わりにあるかたがたを招きたいと思っています。彼らは、キリストと教会への忠実さゆえに、死に至ることも少なくないほどの苦しみを味わっておられます。ですからここローマに、特別に歓迎されていると感じるはずです。ローマは、彼らにとっても母であり、彼らの存在の多くの記録を大切にとどめているからです。東方の古代の典礼と、教父、修道者、神学者の神学と霊性によって豊かにされたカトリック教会は、彼らとその正教会の兄弟姉妹への歓迎の気持ちを象徴的に表したいと思っています。彼らは、暴力や不安定な情勢のため安全な土地へ向かって、自分たちの土地を、自分たちの聖なる地を離れざるをえず、すでに十字架の道行という巡礼を体験する時代にいます。彼らにとって、彼らを見捨てることなく、どこへ行こうともいつも寄り添ってくれる教会に愛されているという体験は、聖年のしるしをさらに強いものにするのです。
6 2025年の聖年は、これまでの恵みの行事の連なりの中にあります。前回の通常聖年には、イエス・キリストの生誕2000年の節目を越えました。それに続いて、2015年3月15日にわたしは、すべての時代のすべての人にとって福音の中心的メッセージである、神の「いつくしみのみ顔(3)」を明示し、すべての人がそのみ顔と出会うことができるよう特別聖年を宣言しました。そして今、新たな聖年の時が来ました。この聖年の間に聖なる扉が再び大きく開かれ、キリストにおける救いという確かな希望を心に呼び起こす、神の愛の生きた体験がもたらされます。さらにこの聖年は、すべてのキリスト者にとって根本的な、もう一つの記念に向けた歩みになります。まさしく2033年には、主イエスの受難と死と復活によってなし遂げられた、あがないの2000周年が祝われます。このようにわたしたちの目前には、いくつものすばらしい過程を伴う道が広がっています。どの過程にあっても、熱い信仰をもって歩み、愛のわざに励み、辛抱強く希望し続ける(一テサロニケ1・3参照)民に対して、神の恵みは先行し、かつ伴っているのです。
この長い伝統に支えられ、この聖年は全教会にとって恵みと希望の濃い体験となるということを確信し、わたしはバチカンのサンピエトロ大聖堂の聖なる扉が、本2024年12月24日に開かれ、それをもって通常聖年の開始とすることを定めます。それに続く主日、つまり2024年12月29日には、わたしの司教座サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂の聖なる扉を開きます。この聖堂は、今年11月9日に献堂1700周年を祝います。続いて2025年1月1日、神の母聖マリアの祭日には、教皇バジリカであるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の聖なる扉が開かれます。最後に1月25日、教皇バジリカであるサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂の聖なる扉が開かれます。この後者の三つの聖なる扉は、同年12月28日の主日に閉じられます。
また2024年12月29日の主日に、すべての司教座聖堂と共同司教座聖堂において、教区司教は聖年の荘厳な開幕として、感謝の祭儀を、その機会のために準備される儀式書に従ってささげるよう定めます。共同司教座聖堂における祭儀について司教は、特別に指名された代理人に代わりに務めてもらうことができます。巡礼の集合地に指定された教会堂を出発して、司教座聖堂に向かう巡礼行列は、神のことばに照らされて信者たちを一つにする、希望の道のしるしです。この行列の間に、本大勅書の一部が読み上げられ、聖年の免償が人々に告知されます。聖年の免償は、部分教会での聖年を祝うための儀式書に収められた規定に従って受けることができます。部分教会では、2025年12月28日の主日に閉幕する聖年の間に、神の民が、神の恵みへの希望の告知と、その告知の効果を証明するしるしをも受け取るために、全面的にそれらに協力することができるよう配慮する必要があります。
通常聖年は、2026年1月6日、主の公現の日に、バチカンの教皇バジリカ、サンピエトロ大聖堂の聖なる扉が閉じられることをもって閉幕します。キリスト者の希望の光が、すべての人に向けられた神の愛のメッセージとして、一人ひとりに届けられますように。教会が、世界のあらゆる場所でこの知らせを忠実にあかしすることができますように。
希望のしるし
7 わたしたちは、希望を神の恵みからくみ取ることに加え、主がわたしたちに差し出す、時のしるしの中にも希望を再発見するよう招かれています。第二バチカン公会議が断言しています。「教会は、つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務を課されている。そうすることによって教会は、現世と来世のいのちの意味、また両者の相互関係について人間が抱く永久の疑問に対し、それぞれの世代に適した方法をもってこたえることができるであろう(4)」。したがって、悪と暴力にはかなわないなどと思い込む誘惑に陥らないよう、世にあるよいものすべてに注意を向ける必要があります。まさしく、救ってくださる神の現存を必要とする人間の心の渇望を含んだ時のしるしは、希望のしるしへと変えられることを望んでいるのです。
8 希望の最初のしるしは、世界の平和といいうるものです。世界は今また、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています。この人たちに、どんな苦しみがさらに必要だというのでしょうか。助けを求める彼らの必死の訴えが、諸国の責任者たちを、世界規模の影響を認識し、あまりに多い地域紛争を終わらせることへと、どうして突き動かさないのでしょうか。武器が沈黙し、死や破壊をもたらすことを終わりにさせるというのは、過大な夢なのでしょうか。聖年は、「平和を実現する人々は、……神の子と呼ばれる」(マタイ5・9)ということを思い起こさせるはずです。平和の要請はすべての人に強く訴え、具体的な計画の実施を求めています。恒久的な平和を目指して交渉する場を勇敢に創意をもって作るための、外交努力を欠くことがあってはならないのです。
9 希望をもって将来を見ること―、それは、伝える熱意にあふれた人生観をもつことでもあります。残念ながら、こうした視点が多くの場合で欠けていることを、悲しくも認めざるをえません。その第一の結果が、いのちを継承する意欲の喪失です。目まぐるしい生活のペース、将来への不安、安定雇用や適切な社会保障の欠如、丁寧なかかわりよりも利益追求が俎上に載せられるような社会モデル、それらの結果、憂慮すべき出生率の低下が多くの国で生じているのです。逆に、異なる事情もあります。「一部の人々の過度で飽くなき消費主義を非難せず、人口増加を非難することは、問題に向き合うことからの逃避です(5)」。
責任ある母性と父性をもっていのちへと開かれていることは、創造主が男性と女性の心とからだに刻みつけた計画です。それは、主が夫婦とその愛に託した使命です。国の法制化の取り組みに加えて、信者の共同体と市民社会の、その全構成員からの確実な支援を得ることは急を要します。なぜなら、その愛の豊かな実りとして新しい子をもうけたいという若者たちの望みは、どの社会にも未来を与えるものだからです。この望みは、希望の問題なのです。希望にかかっているものであり、希望を生み出すものだからです。
したがってキリスト者の共同体は、希望のための社会同盟の必要性を支持することにおいて、先頭に立たなければなりません。包括的であってイデオロギー的ではない同盟、今や世界の多くの地域で、たくさんの空の揺りかごを満たすために、大勢の幼児の笑顔あふれる未来に寄与する同盟です。とにかく、だれもが実際に、生きる喜びを取り戻す必要があります。人間は神にかたどり、神に似せて造られたので(創世記1・26参照)、ただ生きていくだけ、なんとかやっていくだけ、物理的な現実に満足してよしとするだけ、そうしたことに甘んじてはいられないのです。そうなれば個人主義に閉じ込められ、希望が蝕まれていきます。そこから、心に巣くう悲嘆が生じ、ささくれて、不寛容になるのです。
10 聖年の間にわたしたちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます。自由を奪われ、拘留されている人たちのことが心に浮かびます。日夜、隔離の過酷さに加えて、虚無感を味わい、制約を課せられ、さらには、敬意の欠如がまかり通っているのです。この聖年に際して、希望を取り戻せる施策に着手するよう各国政府に提案いたします。たとえば、自信と社会的信頼の回復を促すための恩赦や刑の免除、法令遵守の実際的な誓約にかなった社会復帰のプログラムです。
これは聖書に由来する古来の勧告で、やり直しができるようにする慈悲と解放のわざを訴えることにおいて、あらゆる知恵の価値をそのままに保っています。「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする」(レビ25・10)。このモーセの律法の定めを、預言者イザヤは繰り返します。「主は……わたしを遣わし(た。)貧しい人によい知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年……を告知(させるために)」(イザヤ61・1―2)。このことばは、イエスがその宣教活動の初めに、「主の恵みの年」がご自分において実現したことを宣言して、ご自身のものとされたことばです(ルカ4・18―19参照)。地球の至るところで、信者、とくに司牧者は、嘆願の代弁者とならなければなりません。受刑者の人権を尊重した尊厳ある待遇、そして何よりも死刑の廃止を、声を一つにし勇気をもって訴えるのです。死刑は、ゆるしと更生の希望をすべて無にする、キリスト教信仰に反する措置です(6)。投獄されている人々に寄り添う具体的なしるしを示すために、わたし自身が、どこかの刑務所で聖なる扉を開きたいと思います。それを、希望と人生への新たな決意をもって、未来を見るよう招くしるしとしたいのです。
11 希望のしるしは、自宅療養か入院中かを問わず、病者にも差し出されなければなりません。彼らの苦しみは、見舞いに訪れる人たちの寄り添いや思いやりによって和らげられるでしょう。慈善のわざは、心に感謝の念を呼び覚ます希望のわざでもあります。その感謝の思いが、すべての医療従事者に届きますように。彼らは、大抵は困難な条件のもと、病者やもっとも脆弱な人たちへの行き届いたケアによって、その使命を果たしています。
とくに苦しい生活環境に置かれていて、自身の無力さを味わっている人への、包括的なケアを欠いてはなりません。病気あるいは障害を抱え、介助がなければ自由に動けない人たちに対しては、とりわけそれが求められます。彼らへのケアは、人間の尊厳への賛歌であり、社会全体の調和ある行動を求める希望の歌です。
12 その存在自体が希望である若者も、希望のしるしを必要としています。残念ながら、若者の夢がついえることも多々あります。彼らを失望させるわけにはいきません。未来は彼らの情熱にかかっているのです。たとえば、腕まくりして、災害や社会の危機的状況に自発的に取り組んでいるときなど、活力あふれる彼らを見るのはうれしいことです。しかし希望のない若者を見るのは悲しいものです。とはいえ、先行きが不透明で夢を抱けないならば、学業によって道が開かれないならば、仕事にあぶれ十分に安定した職を得られず、望みを捨ててしまうならば、憂鬱と倦怠の中で今を過ごすことになるのも致し方ないことです。薬物による幻覚、犯罪すれすれのこと、束の間の享楽、こうした行為が、ほかの人に対して以上に彼ら自身に混乱を来し、生きることのすばらしさと意味とを見えなくして、暗黒の深淵へと突き落とし、自己破壊的な行動に走らせるのです。ですから、聖年は教会の中で、若者を奮起させる機会となるべきです。新たな熱意で、青少年を、学生を、恋人たちを、若い世代を心にかけることです。若者に寄り添うこと、それは教会と世界の喜びであり希望なのです。
13 自分自身と家族のために、よりよい生活を求めて故郷を去る移住者にとっての希望のしるしも欠いてはなりません。偏見や排斥によって、彼らの期待がくじかれることがありませんように。一人ひとりをその尊厳ゆえに喜んで迎えることには、だれもが望ましい未来を築く権利を奪われないようにする、責任が伴います。国際的な緊張状態によって、戦争、暴力、差別を避けるには逃げるしかない多くの亡命者、強制移住者、難民には、安全、就労、教育の機会を保障すべきです。それらは、新しい社会環境に溶け込むために必要な手立てなのです。
キリスト者の共同体にはつねに、もっとも弱い立場の人々の権利を守る用意がなければなりません。よりよい生活への希望をだれ一人奪われることのないよう、広い心で歓待の扉を開け放ってください。最後の審判についての重要なたとえの中で語られた主のみことばが、わたしたちの心に響き渡りますように。「お前たちは、わたしが旅をしていたときに宿を貸してくれた。……わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・35、40)。
14 高齢者は、孤独を感じたり見捨てられたと思ったりすることが多く、希望のしるしを受けるにふさわしいかたがたです。彼らの存在という宝、彼らの人生経験、彼らがもっている知恵、差し出すことのできる貢献、それらを生かすことは、世代間の連携のための協働に招かれている、キリスト者の共同体にとっても市民社会にとっても責務です。
わたしは、若い世代に信仰と人生の知恵を伝達する者の代表である祖父母の皆さんのことを思っています。子からの感謝と孫からの愛によって、彼らが支えを得ますように。子や孫は、彼らに自分のルーツを見いだし、理解と励ましを得るのです。
15 わたしは、最低限の生活必需品にもしばしば事欠く、数十億を超える貧しい人々にとっての希望をせつに祈ります。次々と押し寄せる貧困化の波を前にすれば、それに慣れてしまったり、あきらめたりしかねません。しかし、世界の特定の地域だけでなく、今や至るところに見られる痛ましい状況から目をそらすことはできません。わたしたちは毎日、貧しい人や困窮する人と巡り合います。場合によっては、近所の人がそうかもしれません。住むところがない人も、その日の十分な食事にありつけない人も珍しくありません。多くの人から除け者にされ、その無関心な態度に苦しんでいます。言語道断な事実があります。莫大な資金があり、その大部分が軍備費に充てられる世界にあって、貧しい人が「多数であり、何十億人にも上るのです。今日、政治や経済に関する国際的な議論の中で、彼らについて言及されはしますが、単なる副次的被害として取り扱われるか、そうでなければ、そうした問題は、ほとんど義務としてよそよそしく付け足されるだけという印象がしばしばです。つまるところ、具体的な取り組みは、しばしば一番下に積み置かれるのです(7)」。忘れてはいけません。貧しい人々は、ほとんどいつも犠牲者であって、非難されるべき人たちではありません。
希望を求める訴え
16 預言者たちのいにしえのことばを響かせて、聖年は、地上の財は限られた特権的な人たちのためではなく、すべての人のためにあるということを思い起こさせます。富を所有している人は寛大でなければならず、自分の兄弟である困窮者たちの顔に目を向けなければなりません。わたしはとくに、水と食べ物に事欠く人々のことを考えています。飢えは、わたしたち人類というからだが負った恥ずべき傷であり、一人ひとりの良心を揺さぶります。わたしは今一度訴えます。「武器やその他軍事費に使われているお金で、国際基金を設立しようではありませんか。飢餓撲滅のために、そして最貧国の発展のために、そうして、その国の住民が暴力的解決や空振りの解決策に頼らなくてよいように、より尊厳ある生活を求めて国を離れる必要がないようにです(8)」。
聖年に向け、もう一つの心からの願いをお伝えしたいと思います。富裕国に向けてです。下してきた数々の決定の重大性を認識し、およそ返済が不可能な国の債務を免除する決断をしてください。それは、寛大さである以上に正義の問題です。わたしたちが気づきつつある新しいかたちの不公平によって、今日いっそう深刻化している問題です。「真の意味での「エコロジカルな債務」が存在し、なかでも世界の南北間におけるそれは大きく、環境に影響する貿易の不均衡や、ある国々によって長期間行われてきた天然資源の過度の使用につながっています(9)」。聖書が教えているように、大地は神に属しており、わたしたちは皆、そこに「寄留し、滞在する者」(レビ25・23)として生きているのです。わたしたちが、世界に平和への道を準備したいと真に望むなら、不正義の根本的な原因を正すよう尽力し、不公正で返済不能な債務を帳消しにし、飢えている人々の空腹を満たすことです。
17 来る聖年の間には、すべてのキリスト信者にとって非常に重要な記念日を迎えます。まさしく最初の重大な公会議、ニケア公会議の開催から千七百年になります。使徒時代以来、司教たちは教義と規律に関する諸問題を取り扱うため、さまざまな機会に集いをもっていたことを思い起こすのは時宜を得ています。最初期の信仰の数世紀の間、西方においても東方においても教会会議(シノドス)が繰り返され、神の民の一致と福音の忠実な告知とを守り抜くことがいかに重要であるかが示されました。今日のキリスト教共同体が、福音化の急務によりふさわしく対応するためにますます必要な表現だと自覚する、シノダリティ(ともに歩むこと)の姿を具体化するため、聖年は大事な機会となるでしょう。洗礼を受けたすべての人は、おのおの自分のたまもの(カリスマ)と役務をもち、希望の多様なしるしが世界に神の現存をあかしするよう、連帯責任を負っているのです。
ニケア公会議の使命は、イエス・キリストの神性および御父との同質性の否定によって、重大な脅威にさらされていた一致を守ることでした。325年5月20日、コンスタンティヌス帝の招集を受けた、およそ300人の司教たちが宮廷に参集しました。さまざまな議論の末、聖霊の恵みにより、わたしたちが今日主日の感謝の祭儀で唱えている信条について意見の一致を見ました。公会議教父たちはこの信条を、初めて用いることとなった「わたしたちは信じます(10)」という表現をもって始めることを望みました。それは、この「わたしたち」において、すべての教会が交わりの中にあり、すべてのキリスト信者が同じ一つの信仰を告白するということをあかしするためです。
ニケア公会議は、教会の歴史における一里塚です。その開催の記念日は、キリスト信者たちを、聖三位への、とりわけイエス・キリスト―神の御子、「御父と同一本質(11)」、愛のこの神秘をわたしたちに明かしてくださったかた―への賛美と感謝のうちに一つになるよう招くものです。そしてニケア公会議は、諸教会すべてと全教会共同体に対する招きともなっています。目に見える一致へ向かって歩み続けなさい、イエスの祈りに完全にこたえるにふさわしい姿を倦まず求め続けなさい、との招きです。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17・21)。
ニケア公会議では、復活祭の日付についての議論もありました。これについては、今日でも立場の違いがあり、信仰の土台となる出来事を同じ日に祝うことの妨げとなっています。摂理的な事情により、その機会がまさに2025年に訪れます(訳注:2025年の復活祭は、西方でも東方でも4月20日になる)。これが、東方と西方のすべてのキリスト信者への呼びかけとなり、復活祭を共通の日とする一致に向かう決定的な一歩を踏み出すよう期待します。心得ておくとよいと思いますが、多くの人は過去の論争をもはや知りませんし、この問題について、なぜ分裂が続いているのかを理解していないのです。
希望に錨を下ろして
18 希望は、信仰と愛とともに、キリスト者の生き方の本質を表す三つの「対神徳」をなしています(一コリント13・13、一テサロニケ1・3参照)。不可分なそれらのダイナミズムの中にあって、希望は、信仰者の生き方の方向と目的を示す、いわば指南役です。ですから使徒パウロは、次のように招いています。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ12・12)。そうです。わたしたちは「希望に満ちあふれている」(ローマ15・13参照)べきです。それは、わたしたちが心に抱く信仰と愛を、説得力をもって魅力的にあかしするためです。そうすれば、信仰は心弾むものとなり、愛は歓喜となります。またそうすれば、一人ひとりがちょっとしたほほえみ、親しみのしぐさ、兄弟としてのまなざし、真摯な傾聴、無償の奉仕を、受ける人々にとってそれがイエスの霊において豊かな希望の種となることを感じつつ差し出すことになります。しかし、わたしたちの希望の基になるものは何でしょうか。それを理解するため、わたしたちの希望についての説明(一ペトロ3・15参照)に注目してみましょう。
19 「わたしは永遠のいのちを信じます(12)」。わたしたちはこう信仰告白しますし、キリスト者の希望はこのことばを根本的な基盤としています。希望はまさしく「対神徳です。この希望の徳によってわたしたちは、……わたしたちに幸せをもたらしてくれる……永遠のいのちを待ち望みます(13)」。第二バチカン公会議は、こう断言しています。「神という基礎と永遠のいのちに対する希望が欠けるとき、今日しばしば見られるように、人間の尊厳はひどく傷つけられ、生と死、罪と苦しみの謎は解けないままであり、その結果、絶望に陥る人も少なくない(14)」。けれどもわたしたちは、自分を救ってくれた希望のおかげで、過ぎ去る時を見て、人類の歴史と一人ひとりの人生は、行き止まりや暗黒の深淵に向かっているのではなく、栄光の主にお会いすることに向かって進んでいるという確信を得ています。ですから、主の再臨を待ち望みつつ、主において永遠に生きるという希望のうちに、日々を送りましょう。この精神をもって、聖書を締めくくることばである、最初のキリスト者たちの感動的な祈りをわたしたちのものといたしましょう。「主イエスよ、来てください」(黙示録22・20)。
20 死んで復活したイエスは、わたしたちの信仰の心臓です。聖パウロは、わずか四つの動詞で、この内容を述べ、わたしたちの希望の「核心」を伝えています。「もっとも大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです」(一コリント15・3―5)。キリストは、死んで、墓に葬られ、復活し、出現した―。このかたは、わたしたちのために死の惨劇を経たのです。御父の愛が、聖霊の力によってこのかたを復活させ、その人性をわたしたちの救いのための永遠の初穂とされました。キリスト者の希望は、まさにここにあります。つまり、すべてが終わると思われる死を前にわたしたちは、キリストのおかげで、洗礼のときに授けられた恵みによって、「いのちは取り上げられるのではなく、変容されるのです(15)」、永遠に、という確信を与えられています。まさしく洗礼においてキリストとともに葬られたわたしたちは、復活したキリストのうちに、新しいいのちのたまものを授かります。そのいのちは、死の壁を破り、永遠へと向かう通路となるのです。
最愛の人と引き離される、つらい別れである「死」を前にしては、どんなことばも意味をなしません。ですが聖年は、その惨劇を変容することのできる、洗礼で授かった新たないのちのたまものを、深い感謝の心をもって再発見する機会を与えてくれるでしょう。聖年の文脈で、信仰の最初の数世紀以来、この神秘がどのように理解されたかをあらためて考えることは大切です。たとえば長い間、キリスト信者は洗礼槽を八角形に造ってきました。今日でも、ローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノにあるような、八角形の古い洗礼堂の数々を見ることができます。このことは、洗礼の泉において八日目、すなわち復活の日が始まることを示しています。八日目は、七日ごとに巡る通常の周期を超越する日で、これによって永遠の次元、永遠のいのちへと開かれます。これこそ、わたしたちが地上の旅路で目指すものです(ローマ6・22参照)。
この希望についての、もっとも説得力あるあかしを与えてくれるのは殉教者たちです。彼らは、復活したキリストに対する揺るぎない信仰をもち、主を裏切らないためにと、地上のいのちを放棄することができたのです。彼らは、終わりのないいのちの証聖者として、いつの時代にも大勢存在していて、わたしたちの時代には、おそらくかつてないほど存在しています。わたしたちの希望を実りあるものにするには、彼らのあかしを守り抜かなければなりません。
キリスト教のさまざまな伝統に属するこの殉教者たちは、一致のための種子でもあります。彼らは血のエキュメニズム(教会一致)を体現しているからです。そのためわたしは、聖年の間に必ずエキュメニカルな祭儀を行い、彼ら殉教者のあかしの豊かさをはっきり示したいと強く願っています。
21 では、わたしたちは死後どうなるのでしょうか。この境界を越えた先に、イエスとともにある、永遠のいのちがあります。それは、神との完全な交わりに、神の限りない愛を観想しそれに参与するところにあるのです。わたしたちが今希望のうちに味わうものを、そのときには実際に目にするでしょう。聖アウグスティヌスはこれについてこう書いています。「わたしのすべてをささげてあなたに結ばれるとき、何の悲しみも苦しみもなくなることでしょう。そのとき、わたしの生はまったくあなたに満たされ、真に生ける者となることでしょう(16)」。ではこの完全な交わりにはどんな特徴があるでしょうか。それは、幸せであるという事実です。幸福は人間存在の召命であり、すべての人にとっての目標です。
ですが、幸福とは何でしょうか。わたしたちはどんな幸福を期待し、望んでいるのでしょうか。刹那的な喜びでもなければ、かりそめの満足でもありません。そうしたものは、一度手に入れても、貪欲の渦の中でますます要求し、そのような中で人間の魂が満たされることは決してなく、ますますむなしくなるのです。わたしたちは、自分を開花させるもの、すなわち愛において決定的に達成される幸福を必要としています。ですから、今すでにこういえるのです。「わたしは愛されています、だからわたしは存在するのです。そして、わたしは欺くことのない愛であるかたにおいて永遠に存在し、何であっても、だれであっても、そこからわたしを引き離すことはできません」。ここでもう一度、使徒パウロのことばを思い起こしましょう。「わたしは確信しています。死も、いのちも、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8・38―39)。
22 永遠のいのちと結びついたもう一つの現実は、わたしたちの生の終わりと、世の終わりとにある、神の審判です。芸術は繰り返しこれを表現しようとしてきました。システィーナ礼拝堂のミケランジェロの傑作を思い浮かべたらいいでしょう。当時の神学の概念を用いて、観る人に畏敬の感覚を伝えています。人生を総括するときに備え、十分な自覚をもって真剣に準備するのは正しいことですから、その間には、つねに対神徳である希望の次元で備えるべきです。希望は、活力を与え、不安に負けないようにしてくれます。愛である神(一ヨハネ4・8、16参照)の審判は愛に基づくもので、とくに、もっとも貧しい人―裁きを行うそのかた、キリストがそこにおられるのです―に対してどれだけの愛を実践したか、しなかったかのみに基づいて下されるものです(マタイ25・31―46参照)。ですからそれは、人間の裁き、地上の裁判所の裁きとは異なります。神のあわれみのはかりしれない神秘における、愛である神との、そして自分自身との真実のかかわりとして理解されるべきです。これに関して、聖書にはこう書かれています。「神に従う人は人間への愛をもつべきことを、あなたはこれらのわざを通してみ民に教えられた。こうしてみ民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった。……(わたしたちは)裁かれるとき、あわれみに依り頼む」(知恵12・19、22)。教皇ベネディクト十六世も書いておられるとおりです。「審判のとき、わたしたちは、世とわたしたちの中にあるすべての悪に打ち勝つキリストの愛の力を経験し、受け入れます。愛の苦しみはわたしたちの救いと喜びになります(17)」。
したがって審判は、わたしたちが希望している救い、そしてイエスがその死と復活によってわたしたちのために獲得してくださった救いとかかわっています。ですからそれは、主との決定的な出会いに向かわせるものです。そのような状況では、犯した悪が隠されたままであるとは考えられませんから、それは、神の愛へと決定的に過ぎ越せるよう、清められなければなりません。この意味で、地上の生涯を終えた人々のために祈る必要性を理解することができます。その祈りは、聖徒の交わり、すなわち、すべての造られたものに先立って生まれたかた、キリストにおいてわたしたちを一つに結び合わせるきずなから効力を得ながら、連帯して行う執り成しの祈りです。このように聖年の免償は、祈りの力によって、わたしたちより先に召された人々が満ち足りたあわれみにあずかれるよう、特別な方法で彼らのためにも意図されているのです。
23 まさしく免償は、神のあわれみがいかに無限であるかを分からせてくれます。古代において、「あわれみ(misericordia)」ということばは、「免償(indulgentia)」ということばと互換性のあるものだったのは偶然ではありません。なぜなら、まさに「免償」は、限界を知らない神のゆるしの十全さを表そうとするものだからです。
ゆるしの秘跡は、神がわたしたちの罪を消し去ってくださることを確約しています。慰めの力に満ちた詩編のことばが思い起こされます。「主はお前の罪をことごとくゆるし、病をすべていやし、いのちを墓からあがない出してくださる。いつくしみとあわれみの冠を授けてくださる。……主はあわれみ深く、恵みに富み、忍耐強く、いつくしみは大きい。……主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。天が地を超えて高いように、いつくしみは主をおそれる人を超えて大きい。東が西から遠いほど、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」(詩編103・3―4、8、10―12)。秘跡による和解は、霊的機会であるだけでなく、それぞれの信仰の歩みにおける、決定的で本質的、かつ不可欠な一歩です。そこにおいて、主はわたしたちの罪を滅ぼし、わたしたちの心をいやし、わたしたちを起き上がらせて抱きしめ、その優しくいつくしみに満ちたみ顔を示してくださるのです。主によって和解させていただき(二コリント5・20参照)、そのゆるしを深く味わうことこそ、神を知るいちばんの方法です。告白を放棄せずに、いやしと喜びの秘跡のすばらしさ、罪のゆるしのすばらしさを再発見しましょう。
しかしながら、個人的経験で知っているように、罪は「痕跡を残し」、結果を伴います。罪は、犯した悪の結果として外に影響を与えるだけでなく、内にも影響を及ぼします。というのも「小罪も含めたすべての罪は被造物へのよこしまな愛着を起こさせます。人はこの愛着から、この世であるいは死後、清められなければなりません。死後の清めの状態は煉獄と呼ばれます(18)」。したがって、悪に引き寄せられる弱いわたしたちの人間性には、「罪の残滓」がとどまるのです。これらは免償によって、どんな場合もキリストの恵みのおかげで、取り除かれます。聖パウロ六世教皇が書いておられるように、キリストは「わたしたちの免償(19)」だからです。聖年の免償を得て、それを有効なものとするための諸規定を、教皇庁内赦院は公布します。
このようにゆるしで満たされた体験を経ると、心と思いは、ゆるすことへと必ず向かいます。ゆるすことは、過去を変えることではありませんし、起きてしまったことは修正できません。ですが、ゆるすことは未来を変え、恨みも憎悪も復讐心ももたない、違う生き方を可能にします。ゆるすことで未来が照らされるなら、たとえ涙に曇ったままであっても、違った目で、より穏やかな目で、過去を見つめられるようになります。
前回の特別聖年のときに、わたしは、重大な使命を果たし続ける、いつくしみの宣教者を立てました。次の聖年でも、彼らにはその任務を遂行してほしいのです。罪を犯した人が、開かれた心と悔い改めへの思いをもって自分のもとを訪れたなら、そのたびに希望を取り戻させ、ゆるしを与えるという任務です。彼らには和解の道具であり続け、御父のあわれみからもたらされる心からの希望をもって未来を見る、助けであってほしいのです。司教たちには、とくに希望が厳しい試練にさらされる場所、たとえば刑務所や病院、人間の尊厳が踏みにじられている場所へ、またきわめて貧しい状況のもとへ、すさんだ環境下へと彼らを派遣し、その尊い奉仕を生かしてくださるようせつに願っています。だれ一人として、神のゆるしと慰めを受ける可能性を奪われることがないためにです。
24 神の母は、希望のもっとも偉大なあかし人です。このかたを見ると、希望は中身のない楽観主義ではなく、生の現実の中の恵みのたまものであることが分かります。どのお母さんもそうであるように、このかたはご自分の息子を見るたびに、その将来のことを考えます。神殿でシメオンからかけられたことばは、確実にこのかたの心に刻まれました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2・34―35)。ですから十字架のもとで、無実のイエスが苦しみ死ぬのを見ている間、すさまじい苦しみにありながらも、主に対する希望と信頼を失うことなく、「はい」と言い続けたのです。このようにして聖母は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ8・31)という告知をもって御子がいっておられたことが、わたしたちのためになし遂げられることに協働されたのです。そして、愛をもってささげられた激しい苦悩にさいなまれる中で、わたしたちの母、希望の母となられたのです。民間の信心の中で、聖なるおとめマリアが「海の星(ステラ・マリス)」と呼ばれているのは偶然ではありません。この称号は、人生の荒波の中にあるわたしたちを、神の母は助けに来てくださり、支えてくださり、信頼をもって希望し続けるよう招いてくださるという、確かな希望を表しています。
これに関連して、メキシコシティにあるグアダルペの聖母の巡礼所が、おとめマリアの最初の出現五百年の記念を2031年に祝うべく準備していることを思い起こしたいと思います。神の母は、青年ホアン・ディエゴを介して、革命的な希望のメッセージを届けてくださいました。聖母は今も、それをすべての巡礼者と信者たちに繰り返し伝えておられます。「あなたの母であるわたしが、ここにいるではありませんか(20)」。同様のメッセージは、世界各地の多くの聖母巡礼所で人々の心に焼きつけられています。それら巡礼所は、不安、苦しみ、希望を神の母にゆだねる、無数の巡礼者が目指す先です。この聖年の間、巡礼所は、歓待する聖所、希望を呼び起こす特別な場となるはずです。ローマを訪れる巡礼者が、市内の聖母巡礼所に立ち寄って祈り、おとめマリアを崇敬し、そのご保護を願うよう招きます。わたしは、すべての人が、なかでも苦しむ人、虐げられている人が、わが子を決して見捨てない母の中でもっとも愛情深い母であるかた、聖なる神の民にとって「確かな希望と慰めのしるし(21)」であるかた、このかたの寄り添いを味わうはずだと確信しています。
25 聖年に向けて、聖書に立ち戻り、わたしたちに向けられたことばに耳を傾けましょう。「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、……力強く励まされるためです。……わたしたちがもっているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」(ヘブライ6・18―20)。これは、わたしたちに与えられた希望を決して失うことのないよう、神のもとに避難所を見いだすことによってその希望にしがみつくようにとの、力強い招きです。
錨のイメージが雄弁に示唆するのは、人生の荒波にあっても、主イエスに身をゆだねれば手にできる、安定と安全です。嵐に飲まれることはありません。わたしたちは、キリストにおいて生きて、罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みである希望に、しっかり根を下ろしているからです。この希望は、日常の充足や生活環境の改善よりはるかに重大で、わたしたちに試練を乗り越えさせ、招かれている目的地である天国のすばらしさを見失わずに歩むようにと背中を押してくれるものです。
ですから次の聖年は、ついえることのない希望、神への希望を際立たせる聖なる年です。この聖年が、教会と社会とに、人間どうしのかかわりに、国際関係に、すべての人の尊厳の促進に、被造界の保護に、なくてはならない信頼を取り戻せるよう、わたしたちを助けてくれますように。信じる者のあかしが、この世におけるまことの希望のパン種となり、新しい天と新しい地(二ペトロ3・13参照)―主の約束の実現へと向かう、諸国民が正義と調和のうちに住まう場所―を告げるものとなりますように。
今より、希望に引き寄せられていきましょう。希望が、わたしたちを通して、それを望む人たちに浸透していきますように。わたしたちの生き方が、彼らに「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27・14)と語りかけるものとなりますように。主イエス・キリストの再臨を信頼のうちに待ちながら、わたしたちの今が希望の力で満たされますように。わたしたちの主イエス・キリストに賛美と栄光が、今も、世々に至るまで。